決断は何故難しい? 近代合理主義から実存主義へ

人生生きていれば、瞬間瞬間、常に決断を迫られる。
どこの会社に入ろうか、誰と結婚するべきか、などと言った人生を左右する重要事項から、
今日は何の服を着てでかけようかしら、みたいな些細な決断に至るまで。

今日着る服を決断するのに頭を抱えて悩む事はないだろうが、
大きな問題を決断せねばならない状況になると、途端に決断は難しくなる。
何を選べば「正解」なのだ、と。

この「正解」を教えてくれる人間はいつの時代でも大人気だ。
占星術師が未来を予測して今後の行動を教えてくれた時代があった。
現代のテレビにおいても、占い師のコンテンツは人気がある。
ちなみに現代の占星術師は名前を変えていて、
「コンサルタント」とか「先生」という名で呼ばれている事が多い。

「これから未曾有の不況が押し寄せますから、それに向けて今はこれを云々かんぬん」
「東京オリンピックによりこれからこの事業が拡大していきますので云々かんぬん」

未来の事は誰にも解らない物である。
解らない物でありながら、私には未来が見えるんですと主張して稼いでいる人間は皆占星術師だ。
俺のメールボックスには、スパムで占星術師からのメールが時々届く。
「的中率100%を誇る競馬メソッド!」「絶対に外れないFX!」
こんな宣伝文句でも買ってしまう人がいるから、この手のスパムが途絶えないのであろう。
未来が解らず不安だと、「正解」を教えてくれる人間に縋りたくなってしまうのが人情だ。
本屋のビジネス書のコーナーには、現代の占星術の本で溢れかえっている。

決断にはストレスが伴う。
決断とは読んで字の如く「決める」と「断つ」の二つ併せて決断だ。
何を選ぶか決めるという事は、同時に何を断つかを選ぶ事でもある。
スリムな肉体になると決めるという事は、寝る前のアイスは断つという事でもある。
今日は一日中勉強すると決めるという事は、遊びに出かけるのを断つという事でもある。
何かを失うかもしれない。そしてその責任は全て自分で背負わなくてはいけない。
そんな責任を負わされるのはストレスだ。

学校や予備校の先生でも、このストレスから解放してくれる先生は大人気だ。
何を、どれくらい、どういう風に勉強したら大学に合格できるのかは解らない。
どんだけ必死に一日を切り詰めて勉強しても、足りているという保障は無い。
そんな時に「俺の授業をちゃんと受けていれば大丈夫だ!」と断言する先生が居るともう墜ちる。
後は何も決断しなくていい。先生の言うとおりに従えばいいのだから。

こういうイケイケな先生は、言い方は悪いがバカな生徒からは絶大な人気を誇る。
御幣が無いように書き添えておきますが、俺が使っている「バカ」の定義は以前記事でも書いていた「全ての物事をファスト思考のみで解決する人間」の事です。
低学歴だの偏差値が低いだのといった意味は一切含まれていません。

この全ての物事をファスト思考のみで解決する人間、というのはどういう特徴があるか。
端的な特徴を挙げるのであれば、「解らない状態に耐えられない」というのがある。

幽霊の、正体見たり、枯れ尾花

恐怖には「謎」がある。正体さえ解れば幽霊だって怖くは無い。
謎のというのは恐怖であり、安心を脅かすストレスなのだ。草むらにライオンが居るかもしれない。
何かが解らず謎のままというのは、常にストレスに晒され続ける事になる。
一瞬で答えが解らないのは、ファスト思考の人間には耐えがたきストレスだ。
そのストレスを解消する為にファスト思考の人間が行う戦略は2つ。
何でもいいから強引に結論を出して解った気になるか、そもそも問題の存在自体無かった事にする。
バカには、自分が理解できない世界などこの世に存在しないのである。
脱線してきたので話を元に戻す閑話休題。

決断をする時、何が正解なのか解らない。
決断したらしたで、あの時の決断は間違っていた! と後悔するリスクが延々と付きまとう。
だからこそ決断するのは難しい。

何気にサラッと書いたが、ここで注目して欲しいのは「何が正解なのか解らない」という言葉。
この言葉は「どこかにきっと正しい答えがあるはずだ」という前提があるからこそ生じる言葉だ。
この前提を生み出している土台が、ヘーゲルにして頂点に達した近代合理主義の哲学である。
今までの記事で散々取り上げてきた哲学ですね。
人間の理性が万能として取り扱われる哲学。
理性が無い野蛮人は愚かで馬鹿な振る舞いしか出来ないが、
理性を発揮すれば人間は必ずや正解にたどり着く。
人類は弁証法的に発展を続け、いずれや究極の真理に辿り着くだろうというヘーゲルの予言。
ヘーゲルのへの字も知らない人間でも、現代人ならば根強く植え付けれている思想だ。
理性があれば、答えの解らない問題は無い。

ならば合理的に考えれば、推理物の様にたった一つの正解見抜いて答えを出す事は簡単ではないか。
実際、近代合理主義の落とし子である自己啓発書にはその手の解決方がいくらでも書いてある。
俺が昔読んでた自己啓発書では、要素に還元して採点化する手法が紹介されていた。

例えば、どの仕事に就くか決断せねばならない状況だったとしよう。
色々絞った結果、最終的に選択肢が2つに別れた。
一つはとてもやりたくてやりたくて仕方ないが、生きてくのがやっと給料の仕事。
もう一つはとても高給だが、絶対にやりたくない仕事。
そういう場合は、両者のメリット・デメリットを全て採点化して比較検討すればいいとの事。
例えば、好きな仕事がやれるというのはプラス10。毎日貧しい食生活を強いられるのはマイナス3。
合計するとプラス7になりますね。
そんな感じで全部の要素を書き出し、合計して2つの選択肢を量りにかければ、
自動的に自分が幸福になれる仕事が見つかるではないか。それが理性で導きだした「正解」だ。
実に合理的で解りやすい方法ではないか。

理論的に特におかしな所は無い。合理的に考えて、数字の大きな方を選ぶのが賢い選択だ。
しかし実際にやってみると、何一つとして決断の助けにはならない。
無理矢理自分を誤魔化しても、切り捨てたほうの選択肢がいつまでも頭に引っかかる。
必要な情報を全部集めて理性の力で見極めれば、たった一つの「正解」に辿り着くはず。
ならばまだ情報が足りないのか?
それとも自分の頭が悪すぎるからいつまでも「正解」が見つからないのか?
いや、そのどちらでも無い。
これは近代合理主義がもたらした弊害故に生じる事である。

ジャーナリストの他に、東京工学大学リベラルアーツセンター教授の肩書きを持つ池上彰が、
東工大の学生相手にとある意地悪なテストを出した事がある。

問題:もし日本でブータンの様な国民総幸福(GNH)という概念を適用するとしたら、
どんな要素を入れるべきか、あなたの考えを述べなさい。

優秀な東工大生達は、実に様々な要素を出してきたのだが、
池上彰が期待していたのに近い答えを出したのは150人中たったの二人だった。
池上彰が期待していた答えはこうです。

答え:そもそも問いが間違っている。幸福という主観を客観的な数字で表す事はできない。

本には書かれていないが、学生からはブーイングが飛んできたであろう事は想像できる。
小学校から大学に至るまで、「正しい答え」が用意された問題のみ解き続けてきたのに、
その前提をひっくり返してきたのだ。
しかし「正しい答え」がある問題なんてのは学校教育の中にしか存在しない。
現実の問題はそんな答えがあるとは限らない、というか無い方が多い。
ここから「教養とは与えられた前提を疑う能力である」と続くのが、
日経BPから出版されている「池上彰の教養のススメ」という本。
とても面白いです。これを元に書きたい記事が結構あるが今回はここまで。
話を戻します。

上の池上彰の問題にもあるように、幸福というのは客観的な数字で表す事ができない。
他にも道徳や善、正義や美、使命感・達成感・充実感など諸々。
そういった概念を数値化して計測するなんてのは、不可能です。
ここに近代合理主義の限界がある。
現実の世界に、数学的・科学的な厳密さを求めるのは教養のなさの表れだ。

重さ10キログラムの鉄と、重さ30キログラムの綿。重いのはどちらか?
時速60キロメートルの車と時速200キロメートルの新幹線はどちらが速いか?
いちいち答えを書きませんが、一瞬で「正解」が解りますね。
近代合理主義が解決できるのは、数値化できる物のみです。
全く同じ職場で全く同じ仕事なのに、片方は時給700円で片方は時給5000円だったとしたら、
俺はゼロコンマ数秒の即決で時給5000円を選べる。
しかし仕事内容が違い、ここに充実感とかやりがいとか職場の人間関係といった、
数値化できない要素が絡んでくると、途端に決断する事は難しくなる。
合理主義の哲学で「正解」を導き出すことは出来ない。

近代合理主義は、科学革命や産業革命を起こし人類の発展に大いに貢献してきたが、
精神病やフランクルの言う実存的虚無感等、数々の負の遺産ももたらした。
いかにしてこの負の遺産を乗り越えていくかがポスト近代哲学の課題だ。

ヘーゲルにて頂点の極みに達した近代合理主義に対して、
これまたヘーゲルの予言通りにアンチテーゼを突きつけてくる哲学が誕生した。
それがキルケゴールに代表される「実存主義」である。
人類は弁証法的に発展し続け、いずれ究極の真理に辿り着くという哲学に世界は沸き立った。
しかしそうは考えなかったのがキルケゴールだ。
キルケゴールが何を考えていたのかは、日記である「ギレライエの日記」に明確に示されている。

重要なのは、私にとって真理であるような真理を見出すこと、その為に生き、かつ死ぬことを願うような理念を見出すことである。いわゆる客観的真理を私が発見したとしても、それが私になんの役に立つというのか。(中略)私に欠けていることは、完全に人間らしい生活をおくることであり、ただたんに認識の生活を送ることではなかったのである。このようにしてこそ、私は私の思想の発展を――客観的と呼ばれるものの上に――つまりいずれにしても自分自身のものではないものの上に基礎付けるのではなく、私の存在のもっとも深い根に繋がっているもの、いわばそれによって私が神的なものに根を下ろし、たとい全世界が崩れ去ろうともそれにしっかりとつかまっているものの上に基礎付けることが出来るようになるであろう。

名文なのでもっと引用したいのですが、あまりにも長くなりすぎるの仕方ない。
長々書いてありますが、実は同じ事を言葉を変えて繰り返しているだけです。
客観的真理などという自分以外に立脚したものでなく、
あくまでも自分に根付いた自分の真理を見出しそれに従って生きていく。
このような哲学の一派を「実存主義」と言います。
予断ですが、上記した事を踏まえた上でキルケゴールの死に至る病を読み直してみると、序に書かれている「学問による人生からの高踏的な背理」とか「かの種の冷静な学問性」とか「世界史の運行に関してお宣託を並べたりする」という言葉はヘーゲルの事を言っていたんだなぁという事に気付く。本の全てがアンチテーゼだ。

話を元に戻す。
同じく実存主義者であるサルトルも、「実存主義とはなにか」という、そのものズバリなタイトルの著書を書いている。

実存主義の考える人間が定義不可能であるのは、人間は最初何者でもないからである。人間はあとになってはじめて人間になるのであり、人間は自らがつくった所のものになるのである。

人間とは、キルケゴールの言う「その為に生き、かつ死ぬことを願う理念」に従い自らを形作るプロセスである。
「人間とは何か?」と問うても、そんな予め用意された本質などありやしない。
今この瞬間も、自らを形作っている真っ最中で時々刻々と変化し続けている。
問題とすべきは本質の存在ではなく、いつだって今ここ、現実に存在している個別具体的な自分であり、この現実存在を略して「実存」と言います。
近代合理主義では「正解」を導き出せない難しい決断でも、実存主義なら決断する事が出来ます。

決断する時にどうやったら「正解」が解るのか? というのは問いそのものが間違っている。
そもそも決断に「正解」なんてありやしない。
学校の問題と違って現実の問題に「正解」なんて用意されていない。
強いていうのであれば、「その為に生き、かつ死ぬことを願う理念」に従った決断であればもうそれが正解だ。
キルケゴールの言葉だと仰々しいので日常的な言葉に直すと、
自分の基準に従って決断すればいいというだけ。

合理主義者の下す決断と実存主義者の下す決断では全く意味合いが異なる。
合理主義者が下す決断は、どの道を選べば最も合理的かという単なる選択の問題なのに対して、
実存主義者が下す決断は、「どういう自分でありたいか」という実存の問題なのだ。
彫刻家がノミに一回一回木槌を振り下ろして作品を作り上げていくように、
実存主義者は一回一回の決断で、理想の自分という存在を作り上げていく。

自分の中に「その為に生き、かつ死ぬ事を願う理念」が無い人間は、
他人が用意してくれた基準に従う事しか出来ない。
最速最短で、最小限の労力で、最大限の利益を上げる物が「正解」とされる。
買い物をする時は、最も安い商品だし、仕事は最も給料が多い会社。
付き合う人間は最も自分に利益をもたらしてくれる人間。
「業界ナンバーワン!」とか「売り上げ実績一位!」とかから選ぶ。
損か得かで合理的に判断を下す。

これは一見自分で選んだかの様に見えるが、
実際には合理的な理由の奴隷であり、何一つとして自分で決断していない。
理由が主人で人間は従うだけの奴隷である。

実存主義の決断はそうではない。
まず、自分の中に「どういう自分でありたいか」という従うべき基準がある。
昔の記事で、俺は本はネットでは買わずジュンク堂や万葉堂(仙台の古書店)メインで買っていると書いた。費用対効果だけを考えると、悪手である。
ネットなら、アマゾンの中古なりオークションなりで、最も安く売っているのを一瞬で検索できる。
わざわざ時間を失いガソリン代を失い、置いてあるかどうかも解らぬ本を買いにいく。
なんと非合理的な行為だ。
しかし俺は「時間も金も惜しまず、本屋に通える自分でありたい」からそうしているのだ。
得体のしれない人間からではなく、本の価値が解って本を大切にしている人達に喜んでお金を支払う自分でありたい。このような素晴らしい本屋を経営し続けてくれてありがとう、と行動で示せる自分でありたい。大学生の一日の読書時間が10分以下とされている時代において、読書にも本選びにも時間を使える自分でありたい。
理由は後から自分で生み出した物だ。

他人が用意した理由に従い続けていると、自分とは何かという事が見えなくなってくる。
「本当の自分」が解らなくなるが、解らないのは当然過ぎる程当然である。
何故なら、サルトルに言わせればそんな「本当の自分」なんてものはそもそも用意されていないのだから。自分というのはあくまでも自分の決断によって後から作り上げていくもの。

他人に優しくする自分でありたいのか、
挨拶すらしない無愛想な自分でありたいのか、
毎日キチンと整理された部屋に住む自分でありたいのか、
部屋にゴミが散乱してようと気にしない自分でありたいのか、
折角の休みの日に頭ヒートさせながらブログ書く自分でありたいのか、
昼過ぎに起きてダラダラし続ける自分でありたいのか、

そういった、一瞬一瞬の決断の全てが、自分という存在を形作っている。
そう考えると、人生に対してゾッとする程大きな責任がのしかかって居る事に気付いてしまう。
大きすぎる責任ではあるが、これは同時にちょっとワクワクする事でもある。
何故なら、どんな決断であろうとも「どういう自分でありたいか」という基準に従っている限り、それが正解なのだから。
何が正しくて何が間違った決断なのかと迷う必要は一切なくなる。
そこには、他人が用意した人生では味わえない、ありとあらゆる可能性が無限に拡がる世界がある。

いかなる極限状態に陥ろうともこの自分の基準、
自分はどういう人間でありたいか、を自由に決める権利を剥奪する事はできない。
最後にして最大の武器は死ぬまで残されている。
この「いかなる極限状態」というのは具体的にどれ位の極限状態を想定しているのかというと、
第二次世界大戦時のユダヤ人強制収容所の中くらい。

ユダヤ人のフランクルは強制収容所に入れられるとき、文字通り全てを奪われた。
服や書きかけの原稿は勿論、自由も、家族も、尊厳も、名前すらも奪われて番号で呼ばれる存在に。
そんな状況に陥った囚人達がどのうように振舞うのかというと全ては一人一人の人間にかかってた。
囚人でありながら看守と一緒になって囚人を苛める側に立つ人間。自暴自棄になる人間。
どんなに苦しい状態でも仲間を元気付けようとする人間。希望を失い衰弱死する人間。
因みにフランクルは、この収容所を出た時にすると決めた講演の様子を思い描く人間であり続けた。
これほどの極限状態でも、この自由だけは奪えなかった。

「本当の自分」が解らないから自分がどんな人間でありたいかなんて解らないと、
頓珍漢な事を言っている暇は無い。
その「本当の自分」は、これから自分の決断で作り上げていかなくてはいけないのだから。
今回の記事はここまでで終了。

それでは、次回の記事までごきげんよう。

コメント

  1. 川村 純 より:

    最近、自分の悩みが、簡単に言うと合理主義と実存主義の対立であるということがぼんやりと浮かんできて、読書の傍この文章を見たとき、やはりそうだと思いました。
    分かりやすい解説をありがとうございます。

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