自分を知る事の苦しさと克服法

自分を知るという作業を始めたら、あまりのキツさにやはり投げ出しそうになった。
ここまでは予定通り。キツいって事は、事前に解っていた。
今まで散々支払い避けていたツケを払うのだから、雪だるま式に膨れ上がっている。
自分を知る事の難しさと苦しさを事前に知る事は有用なのではと思い、
ハイデガーを手引きに少々書き残しておきます。

相変わらずハイデガーの本はまだ読めないので孫引きの形になるが、
ニーチェやショウペンハウエル等、
多くのドイツ哲学を翻訳した西尾幹二が、その著書『国民の歴史』において、
ハイデガーが提示した3つの退屈を書いている。
ハイデガーは『形而上学の根本諸概念』の中で、退屈の概念を3つの形式に分類した。

第一の退屈は、「殺風景な片田舎の駅で列車を4時間待つ」
これは特に説明の必要は無い、誰しもが経験する手持ち無沙汰の退屈ですね。
この退屈を埋める為に何でもいいから手を出したい。
だから駅の売店では雑誌が売れまくるし、スマホのアプリはダウンロードされまくる。
テレビを見ている時もCMになった途端、目まぐるしくカチャカチャとチャンネルを切り替える。
現代人は皆忙しい。一秒たりとも退屈な時間を作ってはいけないと考えている。

続いて第二の退屈は、「仕事を中断して人の家に客として招待され、晩餐にあずかり、ワインを楽しみ、談笑し、深夜になって帰宅して、出かける前に中断した仕事の前に座ると、ふと、楽しかったけれど、あれはやっぱりほんとは退屈していたのだ、という思いが脳裏をかすめる」
自分では楽しんでいると思っていたが、それは結局退屈を覆い隠すだけの物だったと気付かされる。
学校の試験の日が近づいてくると部屋の掃除がしたくなる心理とでもいいましょうか。
退屈な仕事や勉強をやらされている時に、
「こんなのが俺の人生の何に役立つというんだ! 俺にはもっとやるべき事がある!」
と、勉強嫌いな人間の典型的な言い訳をしながら別の事をやって、
これこそが俺のやるべき事だと誤魔化して熱中してみたが結局退屈していた事に気付かされる。
退屈を紛らわせる行為その物が実は退屈していた事に気付く。

通常、我々の退屈というのはこの2つの退屈を振り子の様に行ったり来たりを繰り返す。
使命だのミッションだの天からのコーリングだのを自覚している人間なんて、
それこそ僅かしかいないのだから、人生は壮大な暇つぶしであるとも言える。
この2つの退屈は何かをやる事で誤魔化せるが、そういった暇つぶしが一切きかない退屈がある。

それが第3の退屈、「日曜日の午後、大都会の町々を歩いていて、思いがけず突然なんとなく退屈になる」
これの大切な所は「なんとなく」退屈になるのであって、何かのきっかけで退屈になるのではない。
別に大都会とか歩いていたとか状況は全然関係がないのだ。
ハイデガーはこの第3の退屈こそが本来的根源的な退屈であるという。
これは危機に瀕している人間存在本来のあり方からの呼びかけであり、
救済を求めているシグナルである、と実にハイデガーらしい仰々しい言い回し。
この退屈は気晴らしが一切許されない。
第1や第2の退屈は、仕事なり遊びなりで忙しくする事で気晴らしが出来るが、
一旦この退屈に襲われてしまったら、何を見ても聞いても心は晴れやかにならない。
何をやっている最中も漠然とした不安や退屈がネットリと絡みつき続ける。
どことなく全てのものが空虚に感じられてしまう瞬間だ。

哲学にとっては、この深い退屈に目覚める事こそ肝要だとハイデガーは繰り返し語る。
この深い退屈に襲われたら、抑えたり避けたりせずに、
じっとこれに耐えて待ち、本質的な物をそこから聞き取るのが肝要なのだ、と。
そんな鬼の様な事を言い放つ。そりゃぁ、哲学者でまともな死に方する奴は少ない訳だ。
こういう状況に追い込まれない限り、わざわざ存在の根源からの言葉に耳を傾けないから仕方ない。
自分のコアを知るというのは、恐ろしく『退屈』な作業になっている訳だ。

この退屈は病的な人間だけが襲われ、健常な人間には無関係なのかというと、俺はそうは思わない。
現代に生きている現代人であれば、誰もが発症予備軍である代物だと思っている。
ハイデガーの言うこの第3の退屈というのは、多分フランクルが言う所の『実存的空虚』の事だ。
実存的空虚とは何か。フランクルの元に届いた一通の手紙を引用しよう。

「私は22歳です。学位を取得し、デラックスな自動車を持ち、経済的にも保障されています。その上で、持て余すほど多くのセックスと権力とが私の意のままになっています。ただ私はどうしても疑問に思わずにはいわれないのです。一体それら全てにどういう意味があるのであろうか、と」

この『意味』がスッポリ抜け落ちた事による言葉にならない虚無感。
この状態を、フランクルは実存的空虚と名づけた。
先進国だけでなくアフリカでさえ実存的空虚は増大し、
それも特に若い大学生の間で増大し続けている。
説明はされていないが、大学生の間で増大している理由は実感として解る。
子供の時は親や学校から『意味』を与えられているし、
大人になって会社勤めをしたらそんな事を考えている暇がなく、
何の疑問もなく会社が与えた『意味』を追求し続ける事になる。
意味を与えられるのがスッポリ抜け落ちた時期が大学生の時期だ。
この時期は自力で意味を見出さねばならない。

何故現代人に実存的空虚が発生するのかと言うと、
人間は動物の様に自分の為すべき事を本能から告げられる事はないし、
現代人は最早何を為すべきを伝統や共同体から告げられる事はない。
生まれた時点で「あなたは農民になる為生まれた」「あなたは商人になる為うまれた」と、
自分の生まれてきた意味を与えられていた時代に実存的空虚は発生しない。

この実存的空虚はある日突然やってくる。
それこそハイデガーの言うように、ある日街を歩いている瞬間かもしれない。
今までガムシャラに頑張ってきたが、それに何の意味があったのか? と。
しかしその瞬間こそ自分の根源を知るチャンスであり、心の声にじっと耳を傾けるべき時なのだ。
自分を知るという作業は、この恐ろしいまでの退屈に耐えなければならない苦行なのだ。
キリストでさえ誰もいない荒野で40日以上孤独に過ごさねばならなかったのだから、
しかるをいわんや凡人である我々においておや。
しかし社会の中で生きている我々現代人が、
40日以上も引き篭もるなんて出来るはずもなし。
ハイデガーなら「やれ」と言い放つんでしょうけどね。

この実存的空虚を克服する為に、
孤独の中で根源からの声に耳を傾けるハイデガー的な手法は、
出来る範囲出来る時間の中でコツコツやっておく必要はあるが、
それすら無理なのであれば、忙しい中でも出来るフランクル的な手法を紹介しておきます。

実存的空虚の行き着く果ては何かというと、自殺です。
「一体これ以上生きる事になんの意味があるというのか?」と。
人生に疲れ果てた2人の人間がたまたま同時にフランクルの前に座っていた。
2人とも「人生にはもう何も期待できない」と語る。
そこでフランクルが行った事は、2人にコペルニクス的な転換を遂行する事だ。

「私は人生にまだなにかを期待できるか?」ではなく、
「人生は私に何を期待しているか?」とフランクルは問う。
たったこれだけの違いだ。人生のどのような仕事が私を待っているかと問うだけなのだ。
この問いにより、片方の人間は書きかけの論文が待っている事を思い出し、
もう片方の人間は、連絡の取れない外国に住んでいる子供を思い出した。

もし自分が実存的空虚に襲われ、
やる事なす事全てから意味が抜け落ちて苦しんでいるのであれば、
誰かの役に立つ事をやり続けましょう。
自分の問題は一旦ほったらかして、自分より困っている人間の問題を解決する。
その瞬間、あなたの行動に『意味』がもたらされる。

どんな仕事であれ、それを求めて喜ぶ人間がいるから成り立つ訳だ。
自分の商品のお陰で喜んでいる人の顔を思い浮かべれば、やらされ仕事にも『意味』を見出せる。
それが出来ない工場労働者みたいな仕事程、実存的空虚になりやすい。
一体これに何の意味があるのだろう、と。

自分の事ばかり考えて苦しんでいる状態ならば、
まずは自分の事は置いといて誰かの役に立つ事、
自分が期待されている事を淡々とやり続けましょう。
自分を知るという事は、完全なる孤独の中だけで完結できる作業ではないのだ。

それでは、次回の記事までごきげんよう。

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