一生懸命努力するとデブになる?

一個人が、現に現に自分がもち、またもちうるかもしれぬ全ての関心や目的を無視して、自分に内在する意思の血潮の全てをある対象に注ぎ込み、この目的に向かって全ての欲望と力を集中させる時、個人の全重量をこめられたこの関心を情熱と名付ける事ができます。
そう名付けた時、世の大事業は情熱なくして成就されない、といわねばなりません。

ヘーゲル『歴史哲学講義』

やたら長いヘーゲルの引用から書き始めてあるが、
ホントに引用したかったのは最後の1行。
「世の大事業は情熱なくして成就されない」って所だけ。

だったら最初っからそこだけ引用してろよという話なのだが、
前半部分は「情熱とは何か?」という定義付けの部分なので、
後半部分を紹介したかったら、抱き合わせ商法的に前半部分も引用せざるを得ない。
個別販売はお断りされています。

で、今回はヘーゲルについてずっと語るのかというと全然そんな事はなく、
タイトルにも書いた通り、頑張るとデブになる、という可能性について書いていきます。
「風が吹けば桶屋が儲かる」的な論理的飛躍をすれば、
仕事で成功するとダイエットに失敗するとも言える。
それがホントなら、世の成功者達はデブで溢れかえり、
図書館の伝記コーナーは肥満の表紙で埋め尽くされる事になるが
そんな事は無いのでちゃんと詳しく説明を。

行動経済学のバイブルであるダニエル・カーネマンの著書『ファスト&スロー』にて、
面白い実験結果が紹介されている。

被験者は、チョコレートやクッキーの誘惑に抵抗しながら、
ラディッシュやセロリ等、清く正しい野菜を我慢して食べさせられる。
この後に、頭をフル回転させねばいけない難しい課題を与えられると、
いつもより早くギブアップしてしまうのだ。

この実験が何を意味しているのかというとだ。
強い意志を発揮したりセルフコントロールの努力を続けるのは疲れる、という事です。
我慢して清く正しい野菜を食べ続ける事に意志力を使いきった結果、
問題に注げるだけのエネルギーはもう残っていない。
意志力というのは限り在る資源なのです。
しかも消耗が激しく、すぐにガス欠を起こす燃費の悪さ。
ガス欠になった人は、いつもより早く「ギブアップしたい」という衝動に駆り立てられます。

我慢して無理矢理何かをやるほど、意志力は消耗されていく。
本心ではブチ切れているのに寛大に振る舞おうとするとか、
他人によく見られたいが為にやりたくも無い事を無理してやるとか。

消耗された兆候は実に多種多様に現れます。
ダイエットをやめてしまうとか、衝動買いに走るとか、
やたら怒りっぽくなるとか、大事な所でお粗末な判断を下すとか。
要するに、人間らしさを失って動物っぽくなるって事です。
考えてみれば当然なんですけどね。

人間と動物を分ける要素の一つに理性の力がある。
動物は本能の赴くまま衝動的に行動するが、
人間は理性の力でセルフコントロールをする事が出来る。
しかしこの理性の力が消耗しきって無くなってしまったら、
それはもう動物と変わらない。誘惑に勝てなくなる。

歯を食いしばりながら頑張って一日中働いたとしたら、
夜は寝っころがってテレビ見ながら酒飲む程度の意志力しか残されない。
今日も全国のキャバクラは、理性の力がゼロになったお父さん達で溢れかえっています。

仮に、あなたが今ダイエットをしているとしましょう。
その場合、仕事等で一生懸命努力して意志の力を使いきってしまうと、
おいしいスイーツを腹いっぱい食べたいという、
動物的本能に立ち向かう意志力はもう残っていません。

しかしそこで、いや、私はなんとしてもスリムな体型を目指すんだ!
という強靭な意志を発揮してダイエットを続けたとしたら、
今度は仕事をこなすだけの意志力がなくなってしまう。
意志力は限りある資源なのです。

一大決心をし、何かの目標を決めて計画を立てる時。
例えば、誰しも1月1日には今年の一大目標を立てる事でしょう。
「毎朝10キロのランニングをするんだ」とか、
「今年こそは自分の事業を立ち上げるんだ」とか。

ワクワクする夢を見ながら計画を立てているこの時が、
一番エネルギーが有り余っていて意志力に満ち溢れている状態な訳です。
この状態が続く前提で計画を立てるから、大抵の新年の抱負は挫折する訳ですね。
「大丈夫、今年は出来る! こんなにもヤル気に満ち溢れているんだから!」と、まるでボジョーレ・ヌーボーのキャッチコピーみたいに毎年意気込みを語る。

『一生懸命努力する』
『強靭な精神力で困難を乗り越える』
『石にかじりついてでもやり遂げる』

みたいに、意志力「だけ」を拠り所にして計画をたてる事は、
年金「だけ」をあてにして老後の人生計画を立てる事に等しい。
思ったより貰えないですよ。「え、これっぽっちしか支払われないの?」と。

何かを成し遂げようとする時、強靭な意志力を必要とする計画なら個人的には赤信号。
自分の意志力の無さはよ~~く知っている。
やらねばならない事があったとしても、
一日中ダラダラゲームしたりニコニコ動画に入り浸ってしまう駄目人間だ。

しかしそんな自分が、目標を立てるハメになってしまった。
先日とあるコミュニティに参加したのだが、
そこで「1ヶ月の目標を宣言し、それをやる」という課題を与えられた。

それを聞いた瞬間「あ、こりゃぁ、やばいもんに巻き込まれたぞ」と、
こういう時だけは冴え渡る怠け者の第六感が最大級のスクランブル信号を発信し、
早くもコミュを抜け出して引き篭もりたい衝動にかられてしまった。
しかしコミュの主催者は「逃がしませんよ」と宣言しているし多分宣言通りに成し遂げる。

怠け者の直観が危険信号を発信するという事は、
これを成し遂げたらもう怠け者ではいられない、という事でもある。

自分を変えて何かを成し遂げたいという気持ちと、
このままダラダラ怠けていたいという気持ちがぶつかりあい、
シーソーゲームの始まりだ。どっちも本心だからかなり迷う。

「まあ、1ヶ月だけなら・・・・・・・・・」
という心の声に後押しされ、とりあえずやる事にした。
半年一年は無理でも、1ヶ月だけなら
最悪雀の涙ほどの意志力で乗り切る事もできるだろう。
それ以外の事はボロボロで、心もギスギスする事になるだろうが。
そうならない為にも頭を使う必要がある。
1ヶ月間ずっと強靭な意志力でゴリ押すのは無理。
「苦しいけどなんとか頑張って乗り切るんだ!」と決心し始めたら赤信号。

一般的な対策としては、ルールを決めてそれに従うというのがある。
やろうかな、やらないかな、と迷う事に大事な意志力を使うのではなく、
ルールを決めて問答無用でそれに従う。
意志力ってのは、このルールを設定する事に使う訳だ。
しかしそんな自己規律があるならこんな怠け者になっていない。

そんな俺でも達成可能性がある方法があるのかというと、ある。
冒頭に書いたヘーゲルの言葉がそれを示している。

伝統的な心理学の世界では、人間が行動する動機を2つに分類しています。
<闘争型>のモチベーションと<逃走型>のモチベーションだ。

闘争型ってのは、肉食動物のモチベーションです。
獲物が欲しいから走る、という欲望に向かうモチベの事。

それに対して逃走型というのは、草食動物のモチベーションです。
食べられるのは嫌だから走る、という恐怖から逃げる為のモチベの事。

この2つのモチベーションで人間の行動の理由は大体説明できるのですが、
これだけだと上手く説明できない行動もでてくる。
そこで生まれてきた概念が、<情熱型>とでも言うべきモチベーション。
端的にいうと、やりたいからやるモチベの事ですね。

ここで一番大切なのは「やりたい事をやるのに意志力は必要ない」って事です。
子供が3DSをやり続けるのに強靭な意志力を使っていますか?
もうやめなさい! と、どれだけ恐怖を与えてもやり続けます。
寝食を忘れて夢中になれる事があるなら、それは止める方が難しい。

どんな欲望や恐怖も、情熱には敵わない。その意味において、「世の大事業は情熱なくして成就されない」というヘーゲルの言葉は正しい。

欲望や恐怖から生まれた行動は、簡単に諦める事ができますから。
意志力が枯渇した途端「もう疲れたから休みたい」という動物的な欲望に上書きされる。
死の恐怖でさえ「こんな苦しい思いするなら死んだほうが楽だ」
という人間を止める事はできない。
情熱だけが偉業を成し遂げる。

これから1ヶ月間かけて目標を達成する事になってしまった。
「よし、やってやるぜ!」と決心する前に俺が考えておかねばならない事がある。

「それは本当に、本心から自分がやりたい事か?」

やりたい事なら突き進む。
やりたくない事ならいくらでも遠慮なく前言撤回して方向転換を辞さない。
最初のゴールに辿り着く事ではなく、
どこのゴールでもいいからそこに向かって歩き続ける事を最重要課題としている。
成し遂げたら色々楽しい事になってそうだ。

それでは、次回の記事まで御機嫌よう。

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