大事なのは、”最高”じゃなくて自分らしさ

「大事なのは、”最高”じゃなくて自分らしさ」

ジャッキー・チェン 『マイスタント』

今回取り上げるのは、言わずと知れたジャッキー・チェンの言葉。
あまりにもいかした言葉なので、そのまま記事のタイトルにしてしまった。
ジャッキーが本を書いているという訳ではない。
物書きが文字で自身を語る様に、映画俳優は映像で自身を語る。

今回紹介するのは、
ジャッキーの作品作りの方法や心構えを記した映像『マイスタント』。
ニコニコ動画で全話見る事が出来るので、記事の最後にリンクを貼ります。
誰にも邪魔されず一人で見るよりも、
みんなでツッコミながら見たほうが楽しい実にニコニコ向けの動画だ。

高い場所から飛び降りるアクションをする時、
ハリウッドではエアバックを使うが、
ジャッキーは「リンゴ箱」と呼ばれる専用の箱とマットを使う。
要するにそれって、ただのダンボール箱の事じゃん!
「今日は君の為にスタントを用意したよ」
僕の為に? うわぁそれはありが・・・・・・・・・・・・無理!!
2階くらいの高さで背中から飛び降りるなんて出来るか!!
等々ツッコミ所満載でコメントが賑やかだ。

アクション映画を作らないのに、
アクション映画の作り方を学んでどうすんだと思われるかもしれないが、
どんな世界であれ一流の人間からは学べる事が多い。
一流を一流たらしめる自身の哲学を惜しげもなく披露してくれているのだから、
学べる物は学びとるべし。

単純にノウハウ的な物だけを求めている人でも、
この作品中で述べられた「アイディアの作り方」は役に立つだろう。
豊富なアイディアを次から次へと繰り出すのがジャッキーの魅力の一つだが、
そのアイディアはどの様にして生み出されているのかも披露している。

作り手がこの様に自身の手の内を晒す作品は同様な物に、
ジョジョの奇妙な冒険で知られる荒木飛呂彦先生が書いた、
『荒木飛呂彦の漫画術』という新書がある。
この中で語られているマンガの技法。
光の描き方や風の描き方といった具体的過ぎる方法は、
マンガ家になるつもりが無い俺には何の役にも立たないが、
それ以外の所は実に学びが大きかった。

荒木飛呂彦は、天性の才能や独特の感性だけで売れているのではない。
しっかりと考えて計算しつくし、売れるべくして売れているのだ。
ぶっ飛んだ才能だけで売れる事も出来るのだろうが、
それだけだったら単発で終わり30年近くも『売れ続ける』事はできない。
そして売れ続けなかったら、読者がどんなに荒木飛呂彦のマンガを読みたくても、
新しい作品が連載される事はなく、読み続ける事ができない。
本当に読者の事を心底考えているのであれば、
売れるマンガを描かなくてはいけない訳だ。
売れるかどうか関係なく、ただ単に自分の描きたい物を描くだけの作品を、
荒木飛呂彦は「アート」と呼び、それは「少年マンガ」では無いと断じる。
この本だけでも記事一本書けそうだが、それは書く時間と意欲があったら。

今は話をジャッキーに戻そう。

この映像にはやたらとハリウッドとの比較が出る。
「ハリウッドだと馬鹿高い予算を使うが僕たちが使っているのは・・・・」
って感じで。
ジャッキーに意見できる立場の人間が一体何人いるのかは解らないが、
おそらく色々な事を今まで言われまくってきたのであろう。
一体いつまでそんな古臭いやり方を続けているのか、と。
いつの時代でも最新のノウハウ、最新のテクニックと、
「最新の」という枕詞を至上命題とする人間はいる。
古いやり方に固執してないで、流行に乗れ、と。
それに対する苦悩も、いつの時代にもつきまとう。

ジブリの映画『魔女の宅急便』でも描写されていた話だ。
作中で「あたしこのパイ嫌いなのよね」というセリフがあった。
このパイが何を象徴しているのかというと、
いつまでも古いやり方でアニメを作る宮崎駿の作品の事だ。
時代の流行ガン無視で自身の作品を作り続ける宮崎駿。
おばあちゃんが作った昔ながらのニシンのパイ。
これを魔女のキキは風邪をひきつつも、雨に濡らさない様に必死で運ぶ。
それを「今時の若者」である届け先に必死で運んで言われた一言がこれ。
「あたしこのパイ嫌いなのよね」と。

これは、必死でアニメを作って届けても時代の流行にのれず、
今時の若者に全然受け入れられない宮崎駿の自虐を含んだエピソードな訳です。

ジャッキーも「あたしこのパイ嫌いなのよね」と言われた事が多々あったと予想できる。
それらに対するアンチテーゼとして生み出されたのがこの映像なのだろう。
勿論、素晴らしい映像作品を作る後進を育てる為に作った面はあるだろうが、
それらは全て二次的な目的だ。この映像を見ているとそう感じる。
ぶっちゃけこれで後進が育つ事等全然期待していないだろう。
タイトルが「一流のスタント」とか「ハゥ・トゥ・スタント」ではなく、
「マイスタント」と名付けられている事からもそうだ。
あくまでも自身の政策やボリシーを表明する事が第一の目的。

そしてこの映像の最後の最後で出た締めくくりが記事冒頭の言葉。

「大事なのは、”最高”じゃなくて自分らしさ」

あくまでもこれは僕のやり方だ、と。

カンフー映画に一番大きな影響を与えたのは、ブルース・リーであろう。
彼を知らない人でも彼の言葉、「考えるな、感じるんだ(Don’t think,fell.)」
を知っていたり、派生の改変二次ネタを知っているくらいだ。
ジャッキー自身も、ブルース・リーに大変憧れていた。

カンフー映画ではブルース・リーの死後、
彼の後釜となる人材が求められていた。
そっくりさんを起用した作品や駄作が量産された。
ジャッキーも後継者として期待されたがどれも成功せず。
その反省を踏まえ、第2のブルース・リーではなく、
あくまでもジャッキー・チェンの作品を作り上げていく事を決意。

ジャッキーにしかできない、
ジャッキーならできる、
ジャッキーのキャラを生かしたコミカルなアクション。

ジャッキーのファンはそれらが大好きだから彼の作品を見るのだ。
決して第2のブルース・リーを見に来ている訳ではない。
これらを踏まえると上の発言の重みが少し増しますね。

「大事なのは、”最高”じゃなくて自分らしさ」

それが素晴らしいやり方かどうかではなく、あくまでも自分らしいか否か。
自分らしさを失ってまで、周囲が推奨するやり方をやる事に価値があるのか。

「自分で自分の事をコントロールしていると実感している人程、人生の満足度が高い」
というのが、心理学の見解。
つまり「働いている」人は満足度が高いが、「働かせられている」人は満足度が低い。
「勉強している」人は満足度が高いが、「勉強させられている」人は満足度が低い。
能動的な行動なのか受動的な行動なのかが、人生の満足度を左右する。

ここら辺は自分の人生振り返ってみればいくらでも思いあたる事ですね。
部活で毎日10キロ走れとか命令されるとヤル気が全然湧かないのに、
鍛える為に毎日10キロ走ってやる、とかだといくらでも走れる。
赤の他人に「この本を読め」とか言われて読まされているんだとしたら、
どんなに読書好きでも読む気は失せてしまう。

「あたしこのパイ嫌いなのよね」と言われたからって、
自分のやり方を捨てて他人のやり方で映画を「作らされた」なら、
それはジャッキーにとって苦痛以外の何物でもないであろう。
そしてその方向へはすすまなかった。
自分らしさを失ってまで、『最高』の物を作ろうとはしなかった。
あくまでもジャッキーにしか作れない、ジャッキーらしい作品だけを作ってきたのだ。
ラオウみたいに「我が映画人生に一片の悔いなし!」と叫んで引退できた事であろう。
最後まで『自分の』人生を歩んできたのだ。

毎度オリンピックやらワールドカップやらの度に、
全国各地で「感動した!」というコメントで溢れかえる。

しかしこれは100パーセント間違いだ。
「感動した!」とコメントしている人達の中で、
本当に感動している人なんかただの一人として居やしない。
何故100パーセント断言できるのかと言うと、
これは「感動とはなんぞや?」という個人の定義付けの問題ではなく、
文法上の問題だからです。

テレビを見て「感動した!」と叫んでいる人達がいうべき言葉は、
「感動した」という能動的な言葉ではなく、
「感動させられた」という受動的な言葉で表現するのが文法上正しい。

他人の人生、他人のストーリー、他人の活躍をみて感動させられているだけ。
本当に感動したかったら、自分の人生で何事かを成し遂げるしかない。
オリンピックで優勝して「感動した」人間は世界でただ一人。
その優勝した選手本人のみです。
それ以外はただ「感動させられた」に過ぎない。

自分の人生で本当に満足したいなら、感動したいのであれば、
『自分らしさ』を手放す事は出来ない。

なんの拘りもなく自分らしさを手放して、
ホイホイ他人のやり方を真似できる人もいるだろう。
しかし、ジャッキーや宮崎駿みたいにそれが絶対に出来ない人間もいる。俺もそうだ。
他人のやり方を真似するのは難しすぎて出来ないのだ。
技術的に難しい、って意味ではないですよ。

生理的に難しくて出来ないのだ。

生理的に難しくて出来ないというのはどういう事か?
他人のやり方を真似て自分のやり方に組み込むというのは、
いうなれば臓器移植手術で、他人の臓器を無理矢理自分に移植するようなもの。

激しい拒絶反応がおきます。

自分らしさを失ってまで、一瞬で他人の臓器を移植するツケはでかい。
他人を消化して吸収して自分の血肉を化すプロセスに、
とても時間がかかるのが自分という人間だ。
やっかいな生き方を選んでしまったが、文句は無い。
「選ばされた」のではなく「選んだ」のだから。
いつかは考え方が変わったり弁証法的な解決方が見つかるかもしれんが、
それまでは自分の人生で感動して満足する為にも、自分らしさは手放せない。

それでは、次回の記事までごきげんよう。

参考動画

結構長いので、時間がある時にどうぞ。

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