天知る、地知る、我知る、人知る。
今回取り上げたいのは中国古典の『後漢書』から。
昔、楊震(ようしん)という高潔で知られた人物がいた。
この楊震がかつて世話をした知り合いに会ったのだが、
その知り合いがお礼というには大金すぎる金を渡してきた。
言うなれば賄賂と言っても差し支えない。
「ヘッヘッヘ、お代官様、この事は誰も知りません故どうぞお納め下さい」
「グフフ、越後屋、お主も悪よのう」
と、なっていたら歴史に残る事は無かったであろう。
この時に楊震が返したのが冒頭の言葉。
天知る、地知る、我知る、人知る。
天が知っていて、地が知っている。
そして私が知っていて、貴方が知っている。
どうして誰も知らないと言えようか。
なんとも高潔で清廉な人ですねぇ~、で終わらせられる話ではない。
中国人は徹底した現実主義者だ。
現世利益をもたらさない精神論なんぞ、一瞬で歴史の激流に飲み込まれて残らない。
ここまで歴史の淘汰に耐えてきたのは、それ相応の価値があるから。
それを読み解いていこうというのが、今回の記事の目的。
前半部分を日本人的に訳すなら「お天道様が見てる」とか「エンマ様に舌抜かれる」になる。しかしこの言葉で大事なのは後半部分の「我知る、人知る」の所。
もっと突っ込んでいうのであれば、「我知る」の部分だ。
例え世界中の人間を騙す事が出来たとしても、
自分自身を騙す事は絶対にできない。自分に隠し事をするのは不可能なのだ。
他人を騙す事はその手の人達にかかれば簡単な事なのだろう。
そういった詐術が誰でも学べる世の中だ。
その手の本で良く言われている他人を騙す最重要なポイントは、
「先ず自分自身が信じ込まないと、他人を信じ込ませる事はできない」
という物。
ゴミみたいな商品を必死で最高級の商品だと信じ込んでいるから、
お客に信じ込ませる事が出来る、と言う訳だ。
お客を騙したかったら、先ず自分を騙せ、と。
本心は全然信じていない物を無理矢理信じ込ませる事ができるのか?
という事について今回の記事では言及しません。
俺はそれは出来ないと思っているので、今回はその前提で話を進めていきます。
自分を騙す事は不可能だ、という立場です。
難しい、とか非現実的だ、とかではなく「不可能」です。
それが可能な人は精神病のカテゴリに入ってしまう。
サイコパスが簡単に人を騙す頭脳と魅力を持っているのも多分そうだ。
本心ではやりたくない事を無理矢理やっていたとしても、
「私はこれが大好きなんです!」と言って他人を誤魔化す事は容易い。
しかしどんなに騙せたとしても、本心はやりたくないって事を知っている。
人知らずとも我知る。
上っ面はあっちに向かい、本心はこっちに向かい、それぞれ別方向に進む。
車を運転する時、右のタイヤは右へ向かい、左のタイヤは左に向かったらどうなるか?
車は停止するかタイヤがぶっ壊れるかだろう。
本心を押し殺してやりたくない事をやり続けた場合、
「何故か解らないが」途端に無気力に陥り、何も出来なくなってしまう。
ある日突然「もういいや・・・」という精神状態になる。
停止するかぶっ壊れるか。自分を騙すツケは高くつく。
本心がやりたい事を訴え続けているのに、
自分を騙し続けてやりたい事をやっていないのだとしたら、
相当不健康な状態に陥っていると思っていいです。
体が食べ物を求めているのに何日も食べていないとか、
睡眠を求めているのに3日間貫徹とか以上に不健康な状態です。
体の声に耳を傾けるだけでなく、心の声にも耳を傾けましょう。
そもそもやりたい事なんて無いんだという状況だったとしても、
自分を騙す事だけはやめましょう。
自分騙してやりたくない事をやり続けても、心が死ぬだけです。
やりたい事が見つからないのであれば、
やりたくない事をしっかり見極める事が重要。
そうすればやりたい事を見つけ易くなる。
あなたはルビンの「杯」という絵をご存知ですね。
何勝手に話し進めてんだ思われるかもしれませんが、
かなりの人が知っている超有名な絵です。
レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」とか、
ムンクの「叫び」程有名ではないと思いますが、
少なくともピカソの「ゲルニカ」よりは有名だと思う。
グーグルで検索すれば、一発で納得できますよ。
「ああ、この絵ってそういう名前だったのかぁ」と。
検索キーワードは、
ルビンの「杯」
です。ここからは絵を見た前提で書いていきます。
一つの絵で「杯」と「向かい合う顔」に見える絵ですね。
片方の絵を描いていくと、もう片方の絵が自動的に浮かび上がってくる。
一方の輪郭を明確にしていくと、対極にある物の輪郭も明確に出てくるのです。
「やりたい事」と「やりたくない事」の関係もこれと同様に考えられる。
やりたくない事をハッキリと明確にすればする程、
やりたい事も明確に見えてくる。
やりたくない事をヴェールに包んで境界線を曖昧にしたままだから、
いつまで経ってもやりたい事が見えてこない。
だからせめて、やりたくない事は極力やらない、
という所から始めてみたらいかがだろうか。
そこが全てのスタート地点。
いきなり全部やらない、
なんて事が許される素敵な環境にいる人ばかりではないだろう。
今「許される」という表現をしたが、
やりたい事をやりたいだけやり続けるには、
それを「許される」だけの実力と周囲の支えが必要なのです。
周囲に一切貢献せず、勝手気ままに振舞っても許されるのは赤ん坊だけ。
アメリカンな成功哲学で良く言われるような、
自分のミッションを見つけてコーリングを見つけて
それにコミットメントしましょう! なんて事はいいません。
そうではなく、自分に嘘を付くのを辞めてみませんか、という提案です。
どんなに上手に騙そうとも「我知る」なので、絶対に騙せません。
自分を騙し続ける利子は高いです。
それでは、次回の記事までごきげんよう。