哲学のススメ ~そうだ、哲学書を読もう~

哲学には自分勝手に発明されたおびただしい述語があって、これが通り抜けられない垣根のように、普通の人間の理解力や言語能力の領域から哲学を遮断している。

ヒルティ 『幸福論』

ビジネス用語等が顕著なのだが、やたらと意味不明な専門用語を使って会話したがる人間がいる。
「本日のアジェンダはCS向上の為に必要なプライオリティをシェアして云々かんぬん」

自分で書いておきながら意味不明だ。

何故この様な話し方をするのか?
そりゃぁ、人によって色々な理由があるのでしょうが、
上記の例の様に全く相手に伝えるつもりが無いケースの場合、
理由は一つしかないだろう。

カッコイイ(と思っている)からだ。

多分それ以外の理由は無い。
他人に向けて言葉を発するのは、他人に自分の考えを伝える為だ。
そうでなかったら、独り言や殴り書きのメモで充分。
そうでありながら、他人に伝えるつもりが微塵も無い言葉を使うという事は、
自分の言葉を見せびらかす事だけが目的化していると考えてよかろう。

上記の様な言葉遣いは、自分の考えを伝えるという目的は果たさないが、
「俺ってこんな難しい言葉も知ってるんだぜ。どうだ凄ぇだろ」という目的は果たすかも知れない。
まあ、実際にはむしろバカに見られる事請け合いであろうが。
難しい事を「本当に」理解しているのであれば、他人に解り易く伝える事が出来るはずだし。

ちなみに哲学の世界では、ビジネス用語の比にならないくらい難解な専門用語で埋め尽くされる。
その現状について糾弾したのが記事冒頭で引用したヒルティの言葉だ。

哲学はやたらと難解な専門用語を並べ立てて、一般人を遠ざけている。
引用だけだと、どういう文脈でヒルティが冒頭の言葉を述べたのか解らないだろうから、
少々補足を。

タイトルの『幸福論』からも解るとおり、ヒルティは幸福の為に哲学を使うべきと考えています。
苦悩する人々が、幸福に生きる為にも哲学は力になる。
闇の中で苦しみ迷う人々に、理性の力で光をもたらす事こそ哲学の使命だ、と。
ところがヘーゲルにおいて近代の頂点に達した形式主義の哲学は、その使命を果たしていない。
人々の魂の飢えを空虚な言葉で誤魔化し続けるのみ。
実際にヒルティのこの部分のページを読んでいると、
行間からヒルティの「静かなる怒り」がヒシヒシと伝わってきます。
ちゃんと哲学者としての使命を果たせ、と。
どんな素晴らしい英知を述べていようとも、
専門用語という分厚い城壁で囲んでいたら普通の人は入れない。
一番恩恵を受けるであろう人達を拒絶してどうするのだ。
筆者は、ヒルティがその様に述べていると読み取りました。

孔子曰く、「辞は達するのみ」
言葉というのは伝わりさえすればいい、という意味です。
というか、伝わらなかったら言葉を発する意味が無い。
自分を良く見せる為だけに美辞麗句や小難しい言葉を並べ立てるのは愚の骨頂。

しかしだ。

ここからは、ヒルティに反論して哲学者達を弁護する側に立とうと思います。
先に述べた格好つける為だけに横文字まくしたてるような人間を弁護をする余地はないのですが、
哲学者の場合弁護しておかねばならない事がいくつかある。

哲学者が難解な専門用語を使うという事は、
それらの専門用語を使わざるを得ないだけの理由があるから使っているのです。
ただなんとなく使っている訳ではない。
一般的な言葉では説明しきれない事を説明しようとしたら、
厳密に意味を定めた専門用語を使う以外に無いのですよ。

感極まった人間が良く言うのが、「言葉にならない」というセリフ。
実際、世の中の事象に対して言葉というのはあまりにも少なすぎる。
表現しきれない事の方が多いのだ。

しかもその数少ない言葉も厳密さに欠けるのが殆ど。
例えばですね、ちょっと「犬」を思い浮かべてみて下さい。

ここで筆者が思い浮かべた「犬」と、読者のあなたが思い浮かべた犬は、全然違うはずです。
どんな犬を思い浮かべましたか?
それは柴犬かもしれないし、チワワかもしれないし、ダックスフンドかもしれない。
場合によっては、アニメで見た犬を思いかべた人もいるだろうし、
「権力の犬」みたいな人間が思い浮かんだかもしれない。
そうなってくると、とてもじゃないが具体例を全部ブログに書くことは不可能ですね。
思い浮かべた犬は一つとして同じ物は無い。
同じテレビCMを見てるからソフトバンクのお父さんが被る事はあるかもしれませんが、
筆者が思い浮かべた犬と同じ犬を思い浮かべた人は読者にはいないはずです。

筆者が思い浮かべたのは、17年間一緒に過ごしてきた飼い犬です。名前は「シロ」。
「シロ」がどんな犬なのか、写真を貼れば皆同じ映像を脳内に描く事ができますが、
これを言葉だけで伝えろと言われたら、それはまず無理です。
原稿用紙何十枚何百枚を使って描写したとしても、どこか違う「シロ」が伝わってしまう。

しかし、筆者の家族だったら「シロ」という「専門用語」を使うだけで、
皆全く同じ犬を思い浮かべます。
我が家で「シロ」と言ったらもうそれは世界にたった一匹しかいませんから。

これが、専門用語を使わざるを得ない理由です。
厳密に物事を伝えたかったら、厳密に定められた専門用語を使うしかない。
「犬」みたいに一般的な言葉では、「シロ」について語る事ができない。

確かに「シロ」は「犬」ではあるけれども、「犬」は「シロ」ではない。
それはもう全然違う生き物になっている。

哲学者が本当に伝えたい事を伝えたかったら、日常語はあまりにも力不足。
解り易い日常語で語ることは出来るのかもしれないが、
それはもう本来の意味とは全然違っている。
だから真剣に読者に伝えたかったら専門用語を、
場合によっては自分で生み出した造語を使うしか伝える方法がない。
そうでないと全然違うものが伝わってしまう。

だから、哲学者が言っている事を本当の意味で理解したかったら、
向こうが解り易く説明してくれるのを期待するのではなく、
こちら側が頭を鍛えて全力で理解しにいくしか道が無い。
解り易い日常語で説明されたら、それはもう別の物になっている。
「シロ」を「犬」と説明したら別の生き物になってしまうように。

カッコつけるためだけに専門用語を使いまくるのは、
物事の本質を理解して説明する事ができないただの馬鹿だ。
だからと言って、全部を解り易い言葉で説明すればいいという物でもない。
「つ~かマジでさぁ~、俺マジで超うけて~、もう超笑い止まんなくて」みたいに、101匹わんちゃんに出演する犬の数よりも少ないボキャブラリーで伝えられる事なんぞたかが知れている。

だいぶ昔の話になるが「超訳 ニーチェの言葉」という本がベストセラーになった時期があった。
今その本のアマゾンレビューを見てみると、もうボロックソに叩かれまくってますね。
原著の難解さは微塵もなくなり、誰でもスラスラ読める程簡単な日常語のみで書かれてる。
しかしそれ故、もはやニーチェの原型を留めずニーチェの伝えたい事まで微塵も無くなっている。
ニーチェのネームバリューを利用した翻訳者の自己表現本なのだから、
ニーチェファンの怒りはごもっとも。
哲学者が難解な言葉を使うのは使わざるを得ない理由が絶対にあるのです。
それらをごっそり削ぎ落とし、
伝えたい事まで削ぎ落としていく事は極めて乱暴な態度に他ならない。

死ぬほど頭を使って生み出された文章を理解したかったら、
こちらも同等かそれ以上に死ぬほど頭を使い、理解できるまでに成長するしか無い。
哲学書を読む理由はそこにある。
何か「使える」知識を手に入れてやろうとかいう態度だと、読書の体験が濁りだす。
哲学とは答えを受け取る事ではなく、問いを生み出していく営みに他ならない。
哲学者が哲学した結果生まれた足跡を「思想」というが、
哲学書を読む理由は思想をコレクションする事ではなく、
あくまでも自分自身で「哲学する」事である。

その意味において哲学者の言葉を並べ立てただけの市販の哲学史は、
正確にいうと哲学史ではなく思想史だ。

「ニーチェはこの様に語った」とか、
「カントはこの様に考えた」とか、

それらの本を読んでも、ウンチクを語れる様になるかもしれないが哲学できる様にはなりません。
むしろ、家庭教師の大学生のニーチャンに聞いた豆知識を、
ドヤ顔でクラスメートに自慢する中学生みたいに痛々しい事になりかねん。
自分の力で「哲学した」形跡が微塵も無い受け売りは実につまらない。
淡々と思想を並べるだけのつまらない文章はウィキペディアに任せておけばいい。

何故人は食べ物を食べるのか?
生きていくのに必要な栄養素を摂取する為、というのであれば、
普段の食事は実に無意味な事だらけで非効率的という事になってしまう。
栄養を摂取する為だとしたら、わざわざ料理を作って食べる必要は無い。
必要な栄養素の分だけサプリ等を食べればいいという話になる。

いや、最終的には一切食べる必要すらない。
点滴で直接体内に注入するだけでも、
必要な栄養素が入っていればちゃんと生きながらえる事は出来る。

しかしそれで体は育つのだろうか?

使えば使う程鍛えられ、使わないと一気に衰えるのが体の原則。
もし点滴だけで栄養を摂取する様になったら、消化器官や顎は一瞬にして衰弱していく。
しまいには、点滴を外したらもう生きていけない程に弱り果てるだろう。
サプリメント等、殆ど内臓を使わない食べ物もそうだ。
食事の目的は、栄養を摂取する事だけを目指しているのではない。

哲学書というのは、言ってみれば食物繊維のような物である。
生きるのに必要な栄養は全然含まれていません。
しかも栄養が含まれていないだけでなく、消化も吸収もできない。
だから、何かを摂取してやろうとかいう目的で哲学書を読むと失望する事になります。
そんなもんありませんから。

だがそれがいい。
食物繊維だあるからこそ、内臓が鍛えられ強靭な体を育む事ができるのだ。
あくまでも、自分で哲学して頭を鍛える為に読むのであって、
栄養タップリな思想を摂取する為ではない。

読者自身の消化器官を一切使わずに摂取できる本というのは、
いうなれば離乳食の赤ん坊や、
衰弱しきった病人や老人でも食べられる食べ物みたいなものだ。
そんな本ばかり読んでいたら、益々頭が衰弱していきますよ。

「超訳 ニーチェ」みたいな本は、
原型を留めなくなるほどグツグツ煮込んだお粥を、
フーフーして、はいアーン、とさせられている気分になる。
俺は赤ん坊じゃねぇぞ! と。

「読んだらすぐに使える知識」とか、
「馬鹿でも読める」みたいな本は、
売れるかもしれないけど読者に何も残しません。
むしろ読者を衰弱させます。

しまいには読む事すら出来なくなる。
新聞や雑誌の広告でお馴染みの、
「イヤホンを突っ込んで聞き流すだけで英語がペラペラに!」
というスピードラーニングみたいな物は、
最早点滴でしか生きていけない病人状態になっているという事。
生まれてから何十年も日本語を聴き続けているはずなのに、
日本語に翻訳された哲学書を読めないのだから、
どれだけスピードラーニングを聴き続けても、
理解力だの思考力だのは身につきませんよ。

確かに哲学書は難解で、普通の人間を門前払いにしている。
しかしこちら側が真剣に取り組んだ場合、その見返りは絶大だ。
といってもその見返りは本の中に栄養として用意されているのではなくて、
あくまでも自分自身の力で生み出したものである。
それ故、自分の血肉となり、いつでも引き出せる知恵として残る。
だからこそ、挑む価値はあります。

それでは、次回の記事までごきげんよう。

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