「才能」を定義する

何かを成し遂げるのに必要なのは才能か努力か?
この論争の歴史は相当に長いものになっていて、
今後も多分決着がつく事はないのであろう。

この手の話題を出すからといって、誰かと論争をしたい訳ではない。
そもそも筆者は、論争を仕掛けてくる人間や、政治団体とかは大ッ嫌いである。
自分の事は棚に上げて、あーしろこーしろと他人に自分の価値観を押し付けてくる。
正しい人間のあり方を他人に押し付けている暇があるなら、正しい人間になってくれ。

才能か努力か。
これについてはどっちが正しいのかは実はあまり気にしていない。
大事なのは、自分はどの様に考え、どのように行動するかだからだ。
筆者はどの様に考えているのかというスタンスを明確にして、
それについて書いていきます。

これについては、かなり簡潔に示す事ができる。

「才能がない人間が努力したって無駄」
「努力ってのは、人が言う程素晴らしいものではない」
「才能の無さを努力で補うのは難しい」

自分で書いておきながらなんですが、
あまりにも簡潔に書きすぎて、色々な反発と誤解を生みそうである。
どうしてこのような結論に至ったのかをこれから事細かに書いていくので、
判断はそれからにしていただけると、それなりに納得はいくかと思われます。

先ず書いておきたいのは、タイトルにもあるように才能の定義についてだ。
筆者は、才能という言葉を辞書的な意味で使っていない。
辞書的な意味だと、上手く説明できない事が多いので自分で定義付けた。
それは何かというと、

「夢中になって取り組む能力」

という定義だ。
ここで注目して欲しいのは、この定義に上手い下手の要素は入っていないという事。
あくまでも、ワクワクしながら夢中になって取り組めるか否か。それが全て。
寝食を忘れ、時間が過ぎるのがあっという間に感じられる程取り組めるのあればそれが才能。
周囲から止めなさいといわれ様とも、やり続けられるのであればそれが才能。
一日が終わる時に、願わくば明日も同じくやり続けられるように、と考えてしまう対象があるか。

およそ1万時間。
「一流」といわれるレベルに到達するのに必要とされる時間がおよそ1万時間。
一日3時間の練習を10年間続ける計算になりますね。
一体誰が言い出して、どれくらい根拠がある事なのかは解りませんが、
それなりの説得力をもった物言いではある。

当たり前の話だが、今日バットとボールを買って貰ったばかりの野球少年と、
10年間大リーグで活躍してきた野球選手のどっちが野球が上手いと聞かれれば、
誰だって野球選手の方だと答えるに決まっている。
数ある要素の中で、取り組んできた「時間」はかなり大きな要素だろう。

よく言われる事だが、「やれば出来る」である。
しかしこれは当たり前過ぎて特に意味を持った物言いではない。
やらずに出来る事があるはずも無い。
どんな事であれ、やり続ければいつかは出来るようになる。
問題は「やり続ける」事がとてつもなく難しいという事だ。

才能の無い人間は、すぐに止めてしまうので何事も身につかない。
しかし才能があるのであれば、いつまでもやり続けようとする。
だって、やりたくてやりたくてしょうがない事なのだから。
遊びの才能がある子供に向かって、「いつまでも遊んでいるな」と説教しようとも、
遊び続ける訳ですよ。

才能の無さを努力で補える程甘くはない。
一生懸命努力して勉強している人間は、勉強する才能の持ち主には決して敵わない。
努力して勉強している人間は、言いかえれば努力している時だけ勉強している訳だ。
「毎日2時間頑張って勉強するぞ!」と決意して、その2時間だけ勉強する。
しかし才能ある人間が、「たった」2時間で満足できる訳がない。
一日中その人の事を考える程恋している恋人がいるとして、
たった2時間のデートだけで満足ですか?
寝ても覚めても考え続け、しまいには夢の中にまででてくる様な恋人を相手にして。
他のどうでもいい時間を削ってでも、才能を発揮する時間を作り出そうとするはずだ。

才能があるかないかを測るキーワードの一つが「夢にまで見る」ですね。
朝起きてから寝るまででは飽き足らず、寝ている間ですら考える。
才能とは、「最も深い愛情である」と言い換える事も出来ます。

昔の記事で、ジャッキー・チェンの動画を紹介した事があった。
その動画をみれば、ジャッキーがどれ程映画の才能に溢れていたかが解る。
例えば、ジャッキーのアイディアの出し方について解説してるパートがあった。
そこでは、雑誌や新聞の切り抜きを壁に貼り、いつでも見れるようになっている。
ジャッキーは暇つぶしで雑誌や新聞を見ていないのですよ。
全ては映画を作る為。
映画を作る為に雑誌を見ているし、映画を作る為に新聞を見ている。
おそらく、生活全てが映画を作る為、に集約されている。
映画作る為に飯食ってるし、映画作る為に旅行いって写真とってるし、
映画作る為に人と出会っているし、映画撮る為に寝ている。
アイディアメモをサイフの中にいれて、買い物の度にそれを見ている。
つまり映画を作る為に買い物をしている。

これを見て、「うわぁ、大変そうだな」と思う人間では絶対に敵わない。
才能の無さを努力で補おうとするからその様な考えに至る。
努力というのは疲れるのです。息が続かないのです。
「映画を作る為に、毎日10時間のレッスンと勉強をしてます!」
という努力で太刀打ちできる世界ではない。
たった、1日10時間。それも強靭な意志力が続く範囲まで。
それに対してジャッキーは一日24時間。
しかも努力なんて一切していない。「普通の」生活をしているだけ。

いわゆる「引き寄せの法則」に努力が要らない理由と、
そして何故多くの人は全然人生変わらないかの理由がこれでもある。
多くの人は努力しかしてませんから。
寝る前と起きた直後に、自分の理想が叶った所を想像するとか。
一日10分だけ自分の理想を考えて、
残りの23時間50分は全然関係無い生活をおくる。
引き寄せられる訳ないじゃん。
これを努力で補おうとすると、起きてる間はず~~と
「私はツイてるツイてる」と呪文の様に唱え続ける不気味な人間が誕生する。
努力は要らないって教えなのに、努力してどうすんだって話です。
本は丁寧に正しく読みましょう。

もう一日中その事で頭が一杯になる程夢中になれる対象があるなら、
それがあなたの「才能」です。
ヘタクソだけど絵を描くのが楽しい、ずっと描いていたい! と思えるのであれば、
その人には絵の才能があります。
上手い下手で才能は測れません。あくまでも、夢中になって取り組めるか否か。
夢中になって取り組めるのであれば、技術は後からついてくる。
仮についてこなかったとしても、好きでやっているのだから何が問題か。
そのような結果ではなく、あくまでも過程その物を楽しめるのが才能です。

ゲームの才能がある人間は、勝てるから楽しい訳ではない。
勝つ喜びだけでなく、負ける悔しさも含めてゲームの楽しさだから続けている。
たとえ負けたとしても、もうワンゲーム! とすぐに挑戦してしまう。
結果だけを求め、負けた途端に止めてしまう人間にゲームの才能は無い。

個人的な話になるが、筆者は高校時代倫理の授業が大好きだった。
暇さえあれば教科書を読み込んでいたし、
教師に突っ込んだ質問をひたすらにしまくったり。
教科書なんていつまでも取っておくものではないが、
この倫理の教科書だけはいまだに手元にある。
これは凄く便利な本だ。
ギリシャから現代に至るまでの、主要な哲学者とその思想を、
わずか2ページ以内に凝縮する力技。
おかげで、読んだ事が無い哲学者についても、それなりの事を返せる程度には。
哲学史の流れを掴めている。
思想的に偏りがある出版社の教科書なので、
やたらとマルクスとルソーに力が入っている点は気になるが、
それを踏まえてもなお素晴らしい本である。
そんな高校生だったので、当然倫理のテストは毎回良かった。
他の生徒みたいに歯を食いしばって嫌々努力した事は一度も無い。
ただ楽しんで読んでいただけである。筆者には倫理の才能があった訳だ。

逆に、必死で歯を食いしばって努力した世界史だの政治だのは、
もはや頭の片隅にも残っていない。いい国つくろう鎌倉幕府くらいか。
頑張ったと言っても試験期間のほんの一瞬だけしかやってないのだから当然か。

努力ってのはいう程素晴らしい物ではないですよ。
努力で身につけたものであなたの人生を豊かにするとか、
周囲の人間の力になれる事なんてほんと微々たる物です。
所詮その程度の物。才能のある人間には敵わない。

もしあなたに才能があるなら、それはガンガン伸ばすべきだと思っています。
才能が無いというのであれば、作るか探すところから始めなくてはいけませんが。
個人的には、どんな人間にもなんらかの才能があると信じています。
ここでしっかり考えて欲しいのは、上手いか下手かは全然関係ないという事です。
なぜか業界の超一流と比較して、「俺には才能がないから」というのは間違いだ。
あくまでも、自分がワクワクして夢中になって取り組めるか否かの一点のみ。
寝食を忘れて取り組めるのであれば、それは間違いなくあなたの才能です。

それでは、次回の記事までごきげんよう。

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