自己啓発本を読む暇があったら、近代について学べ

随分と昔の話だ。
「ボンバーマンオンライン」というネットゲームがあった(過去形)。
今でこそソシャゲやDLC等ネットでゲームに課金する習慣は広まっているが、
ボンバーマンが運営されていた頃は、そんな事は無かった。
とても面白く、いつでも人で賑わっていたにも関わらず資金不足で閉鎖してしまった。
今でこそ復活して欲しいゲームナンバーワンである。

当時、そこで仲良くなったプレイヤーと話してた事で、今でも覚えている話がある。
そのプレイヤーの名前が「ジョルノ・ジョバーナ」というジョジョの主人公の名前だったので、
チャット機能で「ボラボラボラボラボラ!!」と話しかけたら、
「無駄無駄無駄無駄無駄!!」という返事が来たので一瞬で意気投合。
門外漢には意味不明な会話であるが、
ジョジョファンという文脈においてはちゃんと会話が成立している。
あまりにも仲良くなりすぎて、チャット機能で数時間話し込んだものである。

お互いの事を話している内に、彼は大阪人だという事が解った。
「大阪人ってあれだろ? 毎日たこ焼きと一緒にご飯食うんだろ?」
「そうそう、たこ焼きが無いと飯が食えずに・・・・・ってそんな訳あるか!」
と、本場のノリ突っ込みを聴く事ができた。
どんな無茶なネタ振りをしても返してくるあたりは、流石だと思いましたね。

因みに筆者は宮城に住んでいるのだが、
散々大阪をネタにして話を振っていたら、
あちらの方からも地域ネタを振られた。

「何で東北の人間ってのはあんなに大人しいんや?」と。

・・・・・・・・・・・・・・え?

大人しい・・・・・・のか?
生まれてから毎日東北人と顔会わせて生きてきたが、
東北の人間が大人しいと考えた事は無かった。
大人しい人もいればやかましい人間もいる。
地域ではなく個人の問題だろ・・・・・・と思いかけたが、
大阪人と比較したら、やはり大人しいかもしれん。

東北の人間は、
地元のスポーツチームが優勝したからと言って道頓堀に飛び込んだりしないし、
負けたからと言って乱闘を繰り広げたりはしない。
日本で初めて開催された2002年ワールドカップであるが、
そこで日本最後の試合は宮城で行われ見事負けてしまった。
その時は「東北以外で試合してたら勝っていた」と言われる位大人しい応援だったし。
テレビ等で見る関西出身のお笑い芸人や、大阪のオバちゃん等と比較すると、
東北でやかましいと呼ばれている人間は、あちらでは足元にも及びそうに無い。

ずっと東北にいたから考えた事もなかったが、
大阪などと比べると、確かに大人しい気がする。
何でなんだろうな、と少し考えてみた。
しかしすぐには解らない。なので適当にボケを振ってみた。

「東北の人間が大人しい理由はな・・・・・・」

「うんうん」

「喋る時に口を開けると・・・・・」

「開けると?」

「一瞬で口が凍っちまうからなんだよ!」

「ひぃぃぃぃぃぃぃっっ!!」

「あ、冗談ですよ冗談」

「って、冗談かい!!」

と、口からでまかせを言ったのだが、これはいい線行っているのでは? と思った。
その時は何故か脳が名探偵並にフル回転していたので、
次から次へとパズルの断片が音を立てて組みあがっていく音が聞こえた。

これだ! 東北人が大人しい理由は以下の通りだ!

大阪と東北を比較した時、一番大きな地域の違いは温度である。
こちらは雪国。夏でも川に飛び込むには少々の覚悟がいる気温である。
もし東北の真冬に、明石家さんま並にベラベラ喋る人間はどうなるか?

死にますね。

割と本気で。そんな環境で喋るとどうなるか?
まず、体内の暖かい空気がガンガン外に放出され、
そして放出した分、冷たい外気を吸って体の内部から冷やす事になる。
貴重な熱源を放出して冷気を取り寄せる。
いうなれば、窓を開けっぱなしにした部屋でストーブをガンガン点けるような物。
そんな部屋で温度を維持しようとしたら、物凄い勢いで灯油が減っていきます。
寒いと人は皆一様に口数が減ります。そうでなかったら生きていけないから。
しっかり口を閉ざして、熱が逃げないようにしなければならない。

東北で雪が降ると、皆家の前の雪かきをしますが、
雪かきの間中誰も口を開きませんからね。
始める前に「いやぁ、積もりましたね」と挨拶してそこからは黙々と雪かきです。

口数だけでなく、振る舞いにも変化は起きる。
極寒の中に晒された時人間の姿勢はどうなるか?
答えは「丸くなる」である。
これは人間というよりも動物全般に備わった本能ですね。
体を丸めて表面積を少なくして、少しでも熱を逃がさないようにする。
肘や膝は曲がり、背中も猫背になっていく。
そして大事なのは、その姿勢になったら後はひたすら「じっとする」事である。

寒い時は動き回った方が暖かいじゃん、と考えるのは、
暖かい地域に住む人間の浅はかさ。
一瞬で寒さが過ぎ去るのであればそれでもいいだろう。
しかし雪国の冬は長いのだ。
長い冬を乗り切るのに必要なのは、瞬発力ではなく持久力。
F1カーみたいに馬力のあるエンジンは一瞬で温まるが、一瞬でガス欠になる。
食料が少ない冬に無駄なカロリーを使っている生き物は、春まで生き残れない。

真冬を生き残りたかったら、口数を減らして体を動かさず、
余計なカロリーを一切消費しないようにしなければならない。
東北にもかつてはベラベラ喋る人間やアクティブに動く人間がいたのだろうが、
その様な人間は淘汰の歴史の中で全滅してもはや残っていない
生き残ったのは、あまり喋らず、動き回らず、表情も少ない人間だけ。

これが、東北の人間が大人しいといわれる所以だ!

というのを、考えながら打ち込んで説明していたら、
「おお、成る程!」と感心されたが、俺も感心した。
だから東北の人間は大人しいのか、と自分で自分の説明に納得してしまったのだ。

こういうのを研究する人間を何と言うのだろう? 民俗学者?
その民俗学者にこの話をして真偽を確かめてもらった事は無いが、
この仮説はかなりの反論にも耐えうる物だと思っている。
なんかこの手の文献を読んだ訳でもない。調べた訳でもない。
あくまでも自分の頭と自身の体験から生み出したオリジナル。
考える事って面白いなという貴重な経験でもあった。
手元の材料だけでもそれなりに説得力がある仮説を生み出せる物なのだな。
同じヨーロッパ人でも、地中海付近のイタリア人は陽気で、
北のイギリス人やロシア人が表情が少なく厳格な理由もこれで説明できそうだ。

さてさてさて。
ここで今回の記事を終わってもいいのですが、
ここから本題に入っていこうと思います。

上記の大阪人とのチャットをした時が、筆者の中に初めて
「東北人のアイデンティティ」「宮城県民のアイデンティティ」が生まれた瞬間でした。
それまで自分が、東北の人間だとか宮城の人間だとか考えた事は無かった。
全国都道府県の人間も、所詮は同じ日本人なんだから違いなんてないでしょ、と。
目の前に白人や黒人がいたら、見た瞬間に自分とは違う人間だと思うが、
他の都道府県の人間がいたとしても、何が違うのかなんて見ても解りやしない。
見た目が同じなんだから、同じ様に考えて同じように振舞うでしょ。

でも、話し込んでいる内に明らかに違う生き物だという事が解った。
ああ、俺は大阪人ではないんだな、と。
そして彼も宮城県民ではないんだな、と。

面白いのは、「自分」という人間を知る為には「他人」を必要とする事。
もし俺がず~~っと宮城の人間、東北の人間としか出会わなかったら、
自分は宮城の人間であるとか、東北の人間であると自覚する事は無かったであろう。
自分と違う他者、この場合は大阪人と出会ったお陰で両者の間に境界線が生まれた。
この境界線がアイデンティティという訳だ。

昔の記事でも書いたが、独立普遍の「確固とした自己」なんてものはありやしない。
あくまでもこの他者との境界性で自己という物は形成される。
その事を知らず自分探しの旅をいくたび繰り返そうが、そんな幻想は見つかりやしない。
ひたすら他者を拒絶する事によって成り立つ若者特有の「自分らしさ」という言葉は、
かなり偽善的で嘘くさい響きである理由も今なら良く解る。

自分の事を良く知らないという人間は、多分他人の事も良く解っていない。
これを逆に言うと、自分を良く知りたかったら、他人の事を良く知る必要がある訳だ。
少なくともひたすらに引き篭もって自分を見つめ続けたとしても、自分は絶対に見えてこない。
あくまでも、他者との比較によって浮き彫りにされていくのが自己という概念。

日本人という物を良く知りたかったら、日本人以外の存在と比較しなくては見えてこないし、
人間という存在を良く知りたかったら、人間以外の存在と比較しないと見えてこない。

そしてだ。

もし、我々「現代人」という人間はどういう人間かを知るにはどうしたらいいのか?
それは「現代」という時代とは別の時代の人間と比較する事によって見えてくる。
具体的に言うと、「近代」を学ぶ事によって見えてくる・・・・・というヒントを教わった。

現代人は哲学史的に分類すると「近代的個人」という分類になるらしい。
現代人の価値観・信念・常識といった概念は近代になって人工的に作られた物だ。
それ以前の中世の考え方と「比較」すると、より明確に浮き彫りになってくる。
本腰いれて勉強していく価値は大いにあるジャンルである。
というか、本腰入れて勉強しないと現代人という存在、
つまり「自分」という存在は決して解らない。
俺が大阪人と話しこむまで東北の人間という存在が全然解っていなかった様に。

これを勉強してみて世の中を見渡してみると、本当に面白い。
いかに現代人が近代に生み出された価値観で物を考えているかが良く解る。
近代思想の功罪はとてつもなく大きい。
近代思想のおかげで文明は大いに発達したが、
その近代思想のせいで大いに苦しみ、精神病の人間を多発させた。

勉強すると言っても具体的に何をどうやって勉強したらいいのか解らんだろうが、
独学でやるなら絶対に外せない参考書がある。
何はなくともこの一冊。

それは、国文社から出版されているモリス・バーマン著、
「デカルトからベイトソンへ」である。

大量にガンガン出版している本では無いから手に入りにくいかもしれんが、
時間と金を費やしてでも手に入れる価値は大いにある。
筆者の場合、ジュンク堂には売っていなかったので、
古書店の萬葉堂で7000円程で売っているのを買ってきた。
シミだらけなのに定価よりも高くなってるじゃねぇか!
畜生、流石萬葉堂だ! 本の価値を良~~く解っていやがる。
勿論買っちゃったけどね。

その数ヵ月後、ジュンク堂にて定価で売られているのを発見し、
思わずおぅ! と叫んでしまった事も今ではいい思い出である。
べ、別に後悔なんてしてないんだから。
本の原板は、使えば使う程擦り切れていくので、
初版本が一番くっきりと文字が印刷されていて古書としての価値も高い。
俺が持っている「デカルトからベイトソンへ」は初版本だもんね。
そこら辺の自己弁護は無視するとしても、
7000円以上の価値は充分にあったから全然損な買い物では無かった。

独学で近代から現代に至るまでの勉強をするのであれば、
今の所この本の重要度が一番高い。
まずはこの一冊で全体像を把握しておく事が結果として最短距離になる。

デカルトに始まり、ベイトソンで終わるまでの近代思想の流れが、
この一冊に凝縮されている。
手当たり次第に文献を読み漁っていたとしたら、
何十冊も読んでもまだ全体像が見えて来ない事を考えると、
この本の素晴らしさと有難さが本当に良く解る。
その道に精通したガイドの案内があるならそっちの方がいいのだろうが、
あまり金をかけれず独学でやるしかないのであれば、この一冊は外せない。

しかし絶望的なのは、400ページ近くある分厚い本でありながら、
あくまでも「参考書」でしかないという事だ。
「教科書」は別にある。
この本は膨大な文献に基づいて書かれている。
本の中に様々な書籍や人物名が書かれているので、
本気で学ぶとしたらそれらの書籍も読む必要がある。
デカルトとベイトソンは勿論、トーマス・クーンやらマックス・ウェイバーやら。
近代が生み出した現代の病理を知りたかったら、
R・D・レインや、ミッシェル・フーコーも外せない。
そちらの文献が「教科書」だ。

どれもこれも読むのに滅茶苦茶時間がかかる代物ばかり。
とてもじゃないが、手当たり次第に読んでいたら1年2年で終わる物量ではない。
それらを読まずに全体像を把握できるのだから本当に有難い本である。
そして自分が今必要とする文献、自分の今興味がある文献にあたって、
読み込んでいくのが長く続けるコツだと考える。

個人的には、自己啓発という物がどの様に生み出されたのかに興味がある。
巷のビジネス書コーナーを埋め尽くしている自己啓発本というのは、
近代思想から生まれ、もろ近代思想に毒された代物である。
著者自身、自分が毒されている事に気付いてはいないであろう。
読者も、その事を知った上で読むのと知らずに読むのとでは雲泥の違いがある。
近代思想を知った上で読むと、見えてくる世界が全然違う物になってしまいますからね。

例えばこの「デカルトからベイトソンへ」の、
第8章である「明日の形而上学(2)」を読み込んでいくと、
現在の自己啓発本がどの様な思想から生まれているのか良~く解ります。

自己啓発の世界で重要なキーワードが「自己管理」と呼ばれる心理技法だ。
アメリカでは、肥満や喫煙や不倫をする人間は管理職にはなれない。
「自己を管理する事の出来ない人間が、部下を管理できる訳がない」
と考えられているからだ。(「考えられている」って所がポイントですね)
だからこそオバマ大統領の禁煙失敗がニュースとして取り上げられる。

この自己管理というのは、まさにデカルト主義の典型である。
つまりそれは、精神と肉体は完全に分離しているという前提に立っている。
「精神」という自己が、道を外れた弱き「身体」を支配するという訳だ。

そこでは、不屈の精神で全てをコントロールしようとする。
詩人ウィリアム・ヘンリーの言葉でいう所の、
「我こそが我が運命の主人であり、我が魂の支配者」であれ、と強制する。
(このヘンリーの言葉はナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」でも引用されている)

意識のほんの一部である「意志」が、
人格の他のあらゆる部分と対抗して、
果てしない総力戦を行う事になるのだ。
これがどれ程部の悪い勝負かは解るだろうか。
いうなれば、社員が1000人いる会社で、
社長一人だけがヤル気に満ち溢れて朝礼で必死に発破をかけている状態である。
校長先生のカラオケ状態と何も変わらない。

この「自己管理」という考えはそのような決意を強制させる。
著者であるモリス・バーマンはその様な考えを、
「デカルト的二元論から生まれてくる類の思い上がりに他ならない」
と断言する。
自己啓発本を中途半端に読み込んで実践すると、
とても苦しい思いをする理由がこれである。

ネットを見渡すと、
「私は今まで千冊以上の自己啓発本を読んできました!」という、
謎の自慢をしている人間を時々見かける。
大抵はその後に、
「その私が厳選した成功法則をまとめたPDFを今ならたったの3万円で!」
という宣伝文句が続くが、それに一体どれ程の価値があるというのか。
その様な宣伝文句を聞くたびに、
今の俺の脳内では「ジェンガ」というオモチャの映像が思い浮かぶ。

ジェンガを知らない人は是非画像検索で「ジェンガ」と検索して欲しい。
積み上げたブロックを下から抜き取り、その上に更に積み上げていくというオモチャだ。
不安定な土台の上に更に土台を作り、
その土台を更に不安定にしてまた積み上げる無限ループ。

自己啓発本という不安定な土台を元にして書かれた自己啓発本を土台にして、
更に自己啓発本を積み上げそれを元にして書かれた・・・・以下無限ループ。
それはジェンガの様に実に不安定な代物でしかない。

何千冊という自己啓発本を読む暇と金があったら、
7千円出して「デカルトからベイトソンへ」を買った方がいい。
というか、この確固とした「土台」を知らずして自己啓発本を読み漁る事は、
有害な行為に他ならないと考える。
「無益」とか「無駄」ならまだいいんですよ。
そうではなく、「有害」ですからね。やればやるほど泥沼に嵌る。
人間を機械と同様に考え、フロムのいう所の「自己を疎外」していく過程に他ならない。
そして自己をコントロールできない「弱き意志」による自己嫌悪で更なる深みへ。
そしてその考え方に自分で「気付いていない」というのが恐ろしいところである。
中世と近代を学び、現代の考え・価値観を知る事は急務でもある。

ミッシェル・フーコーはその著書「監獄の誕生」にて、
近代社会の権力は外部にあって私達を抑圧しているのではなく、
軍隊や学校、工場や監獄での規律・訓練を通じて、
私たち自身が権力を内面化し、
自分で自分を抑圧しているのだと繰り返し述べている。
そこでの権力は物理的な暴力を加えるのでなく、
より生産的になるよう「生きさせる」のだ。

よき生徒は学校で「良い」成績を取り、
よき社員は会社で「良い」営業をあげ、
よき親は家で「良い」家庭をつくりあげる為に、
自己をコントロールする。
今の自分の行動は全部自分で決めていると思い、
微塵も自分を疑っていないのだとしたら、
それは近代の洗脳が実に上手く成功したからである。
洗脳されてる自覚はないから洗脳なのだ。
洗脳というと、何か如何わしい思想を植えつけるかの様に聞こえるが、
洗脳で植えつけられる思想は「常識」とか「当たり前」という言葉で表現されます。
常識だから深く考えない、当たり前の事だから疑いもしない。
だからいつまでも気が付かない。

「自分を管理できない人間が、部下を管理できるはずが無い」という言葉は、
論理的には飛躍しているのだが、特に疑われる事なく現代人に受け入れられている。
そんなの当たり前の事じゃないか、という具合にそこで思考は停止する。
しかしこの自己管理にしても、更にいくらでも掘り下げて考える事ができる。

そう、近代思想ならね。

何故「自己管理」という思想が誕生したのか? その必然性。
著書「アメリカのデモクラシー」で知られるフランスの思想家トクヴィルは、
19世紀初頭のアメリカを訪れ、アメリカが平等社会である事に驚いた。
ヨーロッパの様な身分制社会に不平等は存在しない。
貴族と平民はそもそも「別の」人間だと考えられており、
貧民は貴族と自分は「人として平等だ」などとは思ってもいなかった。
不平等が問題になるのは、身分の違いが無い平等な社会だけだ。
自分と相手が平等な人間であってこそ、
初めて両者間にある不平等が痛みを伴って顕在化される。

その意味において、「近代」とは隠されていた不平等を顕在化させ、
それへの耐えざる異議申し立てで既存の権威を次々と解体していく運動の事だ。
伝統的な共同体から解放された人々は、
次は先に取り上げたミッシェル・フーコーが述べた様に、学校や会社や監獄等の
「近代組織」に組み込まれる事になる。
しかしそれすらも解体されていき、最終的には「自分らしさ」こそが唯一絶対の価値になる。

余談ではあるが、この様に自己を抑えつける権力が全て解体された時代が、
「大衆の反逆」する時代である。
ポテトチップ等お菓子の袋を高い山に持っていった時の事を思い出して欲しいのですが、
抑えつける大気が薄い高山にもっていくと、お菓子の袋はパンパンに膨れ上がる。

同様に自己を抑圧する権力が無くなった人間は、
肥大化された自尊心でパンパンに膨れ上がってしまうというのが、
オルテガがその名著「大衆の反逆」で述べている主張である。
現代は自己が凡庸である事を知りつつ、
その凡庸なままの自己を世界に向かって押し通そうとする大衆で溢れかえる時代だ。

閑話休題。話を戻す。

20世紀初頭の頃は、まだマルクス思想など社会を変える思想が信じられた。
革命思想などの大きな物語だ。
しかし共同体を解体し続けた先に残ったのは、社会ではなく「私」を変える思想だ。
この小さな物語を「自己啓発」といいます。
この自己啓発の世界では人々は政治や経済等の社会には興味を示さず、
ひたすら自己の内面へと向かいます。
全ての問題は社会的な要因からではなく、個人の原因から生じるとみなされる。
「自己責任」という言葉が蔓延し、
社会的な構造でニートやフリーターを強いられたとしても、
それは社会のせいではなく全て「自己責任」で、自業自得だと信じられる。

自己啓発も初期の頃は「私が変われば世界が変わる!」みたいな理想も残っていましたが、
それすらも廃れて最終的には「こうすれば儲かる!」「こうすればモテる!」みたいな、
ひたすら利己的で実利的な方法論のみが残っていく。
それが今現在書店に並んでいる自己啓発本のルーツです。

「共同体から私へ」という価値観の変遷によって社会は大きく変わってしまった。
この私中心主義によって、革命は社会から内面へと向かい、
「自分探し」が人生の至上命題となる。
そしてこの生き方は、自分を土台にして立っているようなものだ。
自分を参照しながら自分の未来や生き方を決めるという、
先に述べたジェンガの様に無限ループの構造となっており、
物凄く不安定な生き方である。
そこでこの不安定な自分をなんとかコントロールする必要が生まれる。

それが「自己管理(セルフコントロール)」という概念が生まれる必然性です。

冒頭の方でも述べた通り、アイデンティティ(自分らしさ)というのは他者との境界線から、
いうなれば周囲との関係性から生じてくる。
そうでありながら、ひたすら周囲の共同体から自分を切り離して関係性を解体し、
ひたすら自己を土台に自己を積み上げていく現代の病理は深刻である。
その事を知らずに自己啓発本を鵜呑みにしていると、
精神の病みは更に加速される危険がある。

正しい読解力が無い人間が自己啓発や成功本の類を読んではいけない、
と言われた事がある。
それを聞いた時は、いや、別に読みたかったら読めばいいじゃない、
と考えていたのだが、今では俺も考えが変わってその教えに賛成である。
読まなくてもいいとかではなく、読んではいけない。
少なくとも、どの様な「土台」の上に立っているのか説明できないのであれば、
色々と危険で自分だけでなく周囲の人間をも苦しめる毒薬となりうる。

近代の成り立ちを学び始めたら、色々と見える世界が変わってきました。
今では自己啓発本がかなりグロテスクな様相を伴って見えています。
書きたい事が溢れすぎて、かつてない長さの記事になってしまったよ。
現在進行形で勉強中の身でまとまりのない記事になりますが、
発見した事はこれからも記事に書いていく予定です。

それでは、次回の記事までごきげんよう

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