自己啓発書はグロテスク  ~二元論を超えて~

前回の記事で、これからは近代について勉強すると宣言したはずが、
何故かサルトルやフロムやシュタイナーを読んでいる。

おいおいおい、ちゃんと計画通りにやらないと駄目だろうがという声が聞こえてくるが、
その考え方自体、まさに近代がもたらした考え方です。
時間軸を過去、現在、未来の一本の軸にして、
駄目な過去や現在から素晴らしい未来に向けて努力すべし、と。
人間を機械と同様に考え、計画通りに事を進める事を良しとする。
しかし人間は機械ではない。ロボットではないのだ。
現実の文脈から切り離されて作った計画通りにはならない事の方が多い。
そうでありながら、人間の方が計画に合わせて自己を変化させるというのは、
人間と計画の主従関係が逆転している。

昔サーカスでダンボール箱みたいな小さな箱に、
2人3人を隙間無くギュウギュウに詰め込むというパフォーマンスを見た事がある。
自分の体を箱に合わせる。まず普通の人に出来る技術ではない。
人間の方を計画という箱に合わせるのは、とても不自然な事なのです。
仮に出来たとしても、そこにはかならず「歪み」が生じてきます。

ベイトソン曰く、

芸術、宗教、夢その他の現象の助けを借りない、単に目的的な合理性は、
いずれかならず病に至り。生を破壊してしまう。

合理的に計画を立て、無駄な事は一切切り捨てて、
微塵も道を逸れる事なく最短距離を突っ走る・・・・・・・・
という生き方には無理がある。
エコロジーを無視しすぎているからだ。

エコロジーを無視するとはどういう事か。
工場をガンガン稼動させれば利益もガンガン上がるかと思いきや、
大気汚染や水質汚染で周囲の人間がドンドン公害病で死んでいき、
工場で作った製品を買う人間が誰もいなくなってしまった、みたいな感じですかね。

たとえ話なので因果関係が解り安いのを考えてみましたが、
実際の生態系は複雑すぎて意識ではとても捕らえきれない。

凄いベタな話ですけど、
起業して年収億単位の会社を作り上げる為にひたすら働いてたら、
何故か家族との人間関係が崩壊したり、
一番信頼してた右腕が会社の金を全部もって消えてしまったり、
突然の病に倒れたりなんて話は良く聞きますが、
これもエコロジーを無視しているから起こりうる事です。

このエコロジーの考え方を学び始めてから、
冒頭にも上げたシュタイナーの本を読み直してみると、新たな発見や学びがあってなお楽しい。
シュタイナーの言う「自分を全体生命の一部分と感じる事」の教えの素晴らしさがようやく解った。
読み直す度に新しい学びを得られるのが、良質な古典の条件ですね
そんな訳でデカルトを読むはずが、
シュタイナーやらベイトソンやらが面白すぎて中々手が回らない。
計画通りに事を進められないダメ人間の言い訳と思われそうであるが、
社会不適合者である事は自覚しているので、そこは反論しない。

ベイトソンが警鐘を鳴らすエコロジーを無視して、「単に目的的な合理性」を追求したのが、
巷に溢れる自己啓発書であり、今の著者にはかなりグロテスクな物に見えてきた、
ってのが前回の記事で書いた事ですね。
そこには、人間性という物を無視して機械と同等に扱う世界が広がっている。

何でもかんでも2つに分けて対立させる近代的な二元論から生まれる自己啓発書。
そこでは、強靭な「理性」が悪しき「本能」をコントロールし、
強き「意志」が享楽を貪ろうとする「肉体」をマネジメントする事を強要する。
自分の弱点や悪癖は駆逐すべき悪であり、徹底的に戦い抜いて、
それらを消し去れば善なる自分になれるとする。
異物は排除し、悪が滅びれば世界は良くなるという少年マンガ的な考えと同じ。

タバコや酒がやめれない理由は、自分の理性が弱すぎるからと考え、
吸ったり飲んだりする度に激しい自己嫌悪で益々自分の悪癖を憎んでいく。
「ダイエット中なのにアイスを貪る自分は何てダメ人間なんだ!」と。

最近話題になっている覚せい剤も、
本人の「意志」が弱いから依存するんだという考え方が「常識」であり、
意志の弱さをよってたかって糾弾する集団リンチの残酷さに誰も疑いを挟まない。
普通は誰だって集団リンチなんてしたら少なからず心が痛む。
しかし、それが「正義」ってのならば話は別だ。
悪を排除するのだから、むしろちょっといい事したな、って気分になるだろう。
「正義」の本質は快楽でしかなく、何も生み出せない大衆には最高の娯楽である。
ネットを見渡せば、今日も嬉々として正義の鉄槌を振りかざす大衆で溢れている。

この自己啓発の根底にある二元論の考え方を人間に当てはめる事は、
かなり不自然で無理があり、かならずどこかに歪みを生む。
そしてその結果、ベイトソンが言うように「生を破壊してしまう」。

自己啓発書的な考え方では、自分の中にある駄目な自分を排除すれば、
理想の自分になれると考えるが、その「駄目な自分」も含めて「自分」なのだ。
密接不可分であり、それを排除してしまったら自分は生きていけない。

近代医学も、この排除の理論である二元論で構成されている。
体の中の悪い部分、癌化した部分を手術で切り取ってしまえば治るという考えだ。
肺は2つあるから一つを切り取っても生きていけるそうだが、
心臓が癌になったからと言って心臓を切り取ったら、人は生きていけるのだろうか?

家族で問題が起きた場合は、誰か一人を諸悪の根源とし、
その一人を精神病院に監禁する。
組織で何か問題がおきたら、その問題を発生させた複雑な生態系は無視して、
癌細胞を切り取るかの如く責任者や問題児を追い払ってそれで良しとする。

そして個人にしても、本能のまま悪癖を貪る駄目な自分を、徹底的に憎み、駆逐し、
手術の様に切り取ってしまえば、素晴らしい理想の自分になれるのだろうか?
そこら辺については、実に上手く描写した映画があるので、
俺が長々書くよりもそっちの映画の紹介をしていこうと思います。

あなたは、映画「マトリックス」を観た事はありますか?
監督が日本のアニメが大好きな人間であり、
アニメ好きが実写映画を作ったらどういう作品ができるかというのを、
とても良く見て取れます。
もう何十回と繰り返し見る程ハマってしまった映画です。
「映画ってのは、金曜ロードショーとかで見るものであって、わざわざ金払ってまで観るもんじゃないよね」
と考えていた筆者が、映画館に数回通い、映画のDVDをシリーズ全部買い、スピンオフのゲームも買い、ボードリヤールの「シミュラクールとシミュレーション」という本が作品の世界観を作ったと聞いて、その本まで買って「難しくてサッパリ読めん!」と放り投げたりした映画です。

リアルタイムで観た高校生の時は、
単なるCGをフル活用したアクション映画としか観てなかったが、
心理学やら神話の法則やらを勉強して自分の中にパラダイムが増えてくると、
作品内に含まれたテーマが色々と読み取れるようになってきた。

そして今回記事で取り上げるのが、マトリックス3部作の最終回である、
「マトリックス・レボリューション」の最後の最後。
どのようにして決着がついたのかという、観てない人には壮大なネタバレを書いていきます。
まあ推理小説ではないから、ラストシーンを解説しても映画の面白さは損なわれないと考え書く。

マトリックスのストーリーを凄い単純化して説明すると、人間と機械の戦争です。
自我を持ったロボット達が人類に反逆するという、SFの王道ストーリー。
お互いの正義をぶつけ合う勧善懲悪の二元論構造。

機械の側が戦う理由は作中にて語られている。

「この星の哺乳動物は、本能的に周囲の環境と均衡を保っている」
「だが人類は違う」
「君たちはある場所で繁殖を始めると、資源を使い切るまで繁殖をやめない」
「君たちに似た有機体が、この星にもう一つ存在する」
「何だと思う?」

ウイルスだよ

「人類は、病原菌なのだ」
「君たちは地球にはびこる厄介なガンで」
「我々は」
その治療薬だ

お互い相手を完全に支配するまで、この戦争は終わらない。
シリーズが進むと複雑になってきて、単純な勧善懲悪では終わらなくなりますがね。
人間の街にも機械があって、それらがなかったら人間は生きていけない。
機械が無かったら照明は? 暖房は? 空気は?
人間を殺しに来る機械達を滅ぼして戦争を終わらせればハッピーエンドか?
長くなるので一気にカットしますが、そんな苦悩を抱えながら迎えた最終決戦。

最後は主人公であるネオと、ライバルであるエージェント・スミスの一騎打ちで勝負が決まります。
主人公のネオは救世主として現れた。
敵のエージェントはとても人間では太刀打ちできない相手で、
エージェントに見つかったら逃げろというのが唯一の生存策であったのだ。
しかしネオは、救世主として破竹の勢いで成長していく。
サイコキネシスが使える様になったり、時速800キロで空を飛んだり。
通常のエージェントでは太刀打ちできない程になっていく。
ならそれで圧勝かというと、そうはならない。
ライバルであるスミスも1秒毎にパワーを増していき、
ネオが強くなればなるほど、スミスもどんどん強くなっていく。
仕舞いには、ドンドン増殖していき世界中がスミスだらけになってしまうほどだ。

心理学、というか神話学の世界において、
物語における主人公のライバルや敵対者を「シャドウ」といいます。
読んで字の如く、影・悪者の意味です。

このシャドウというのは、人間の奥底に押し込められている負のエネルギーを象徴している。
自分自身の嫌いな部分、深いトラウマや罪悪感など、自分の中にある否定的な部分だ。
初年マンガ的な勧善懲悪の物語は、主人公がこのシャドウを消滅させてハッピーエンドだ。
悪は完膚なきまでに打ちのめして滅ぼすべし、と。

しかし、現実にはそう簡単にいかない。
この自分の中にある否定的な感情というのは、
抑えよう、排除しよう、消し去ってしまおうと意識すればする程肥大化していく。
緊張しないようにしよう、と思えば思う程手の震えは大きくなっていくし、
怒らないで寛容に振舞おう、と思えば思う程怒りは募ってくる。

凄いベタな言い回しですが、
「ピンク色のゾウを想像しないで下さい」
と言われたら、どう足搔いても頭の中でピンク色のゾウが浮かんでくる。
試しに上の言葉をお経の様に唱え続けてみたのだが、唱える程に頭から離れなくなってきた。

ここら辺は自身の体験を振り返って思い出して欲しい所です。
何か自尊心が傷つくような体験。
自分は数々の修羅場をくぐってきてちょっとやそっとじゃ動じないと思いたいのに、
些細な一言にビクついて夜も眠れないなったり。
自分は寛容な人間であると思いたいのに、
他人のちょっとした無礼な振る舞いで一日中イライラしたり。
そういう時に、「自分はこんな感情に振り回される人間ではない!」みたいに思い、
自分の中から排除したり消し去ろうとすればする程、その感情が大きくなっていき、
最終的には自分の全てを支配してしまう。

マトリックスで、主人公のネオが敵のスミスを倒すために強くなればなるほど、
スミスの方もそれに比例してドンドン強くなっていく描写はこれを象徴しています。
倒そうと頑張れば頑張るほど、より強くなったスミスに追い込まれていく。
最後はドシャ降りの豪雨の中で戦うのも、ネオの心理描写を表している。
シャドウ、つまり自分の中にある否定的な感情や認めたくない価値観等は、
消し去ったり排除できる代物ではないのです。

では、その問題はどうやったら解決できるのか。
その答えは、映画内でどの様に決着が付いたのかを観れば解ります。
ネオは、戦って戦って戦い抜いた後に完全に敗北してしまいました。
自身のシャドウに打ちのめされたわけです。
スミスはコンピューターとして、自身のプログラムを他人に上書きする能力を持っている。
上書きされた人間は皆コピーされてスミスになっていく。
世界中の人間がスミスになっていき、残りはネオ一人。
完全に決着をつける為、スミスがネオをコピーし始めたが、ネオはそこで抵抗しなかった。
これを映画館で見ていた時の絶望感はハンパ無かったですね。

これでどうやってエンディングを迎えたのか?
ネオが上書きされて完全にスミスになった瞬間、
いきなりネオが爆発して消滅したのだ。
そしてそれに呼応するように、他のスミス達も消滅していき、
最後にはオリジナルのスミスも消滅していき全てが元通りの世界に・・・・・・・・

文章だけで説明すると意味不明である。

まだマトリックスシリーズを観ていないのであれば、是非映画本編を観て欲しいところだ。
何もバカ高い本や分厚い論文を読み漁る事だけが勉強じゃない。
読み取ろうとする意思と読解力があれば、何を見ても何をやっても勉強になるものだ。
リアルタイムの映画館で見ていた時の筆者も意味不明であったのだが、
今ならどういう意味なのか良く解る。

自分の中にあるシャドウというのは、
その存在を認め、受け入れると霧が晴れるように消滅してしまうのだ。
本当に、今までどこに存在していたのだというくらい、霧散していく。
抵抗し、自分の中から追い出そうとすればする程強くなっていくのに、
認めて受け入れた瞬間、なんとも晴れ晴れとした気持ちになっていく。

マトリックスでも、ドシャ降りの豪雨の中で決着していたにも関わらず、
ネオがスミスを受け入れ、全てを消滅させた後はなんとも美しい朝日が昇り始める。
実に晴れ晴れとした見事な描写で幕を閉じます。

もし、自分の中に認めたくない、排除したい感情があったら。
それは抵抗したり殺そうとしたりしてはいけない。
そうではなく、一旦紙にでも書いて眺めてみればいい。
「あ~、俺ってこんな事にイライラしたり落ち込んだりしてしまう情け無い人間なんだなぁ」と。
それを認めたとき、今まで重くのしかかっていたはずのシャドウが、スッと軽くなるのを感じる。
実際それだけで結構な問題が解決してしまう。
仮に解決しなかったとしても、今までイライラやら不安に押しつぶされていたエネルギーを、
問題解決に使える様になるのだから、そこがスタート地点になる。

二元論的な勧善懲悪で、自分の中にある悪を殺そうとすればするほど、
苦悩し、葛藤し、絶望していく苦しい人生が待っています。
二元論的な自己啓発書では、そのような事を強制してくる。
弱き自己を排除し、感情に振り回される自己を殺せば、素晴らしい自分になれる、と。
しかしそれは、近代合理主義が生み出した病理の根源でしかない。
人間はそのように出来ていないのだ。
機械の様に、分離して取替え可能な要素で成り立っていない。
その駄目な自分や弱き自分も含めて「自分」である。

単に目的的な合理性は、必ず病に至り生を破壊するのだ。

それでは、次回の記事までごきげんよう。

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