近代はデカルトから始まった。
これに対して反論してくる人はそんなにいないと思われる。
近代を勉強するのであれば、デカルトから始めるのが良さげだ。
ではこのデカルトが一体、近代以降の人間にどの様な影響を与えたのか?
それは我々現代人とは無縁の話ではない。
それどころか、我々の思考の根源に強力な楔を打ち付けている。
哲学史には必ず載っているデカルトであるが、実は数学史にも出てくる。
関数のグラフでおなじみな、あのX軸Y軸の座標はデカルトが発明したものであり、
「デカルト座標」とも呼ばれている。
実に素晴らしい発明をしてくれたものである。
このデカルト座標なしで高校の数学や物理をやらねばならないとしたら、ゾッとする。
ご存知の通り物を放った時に描く線を、読んで字の如く「放物線」と呼びます。
この放物線を測定しようとしたら複雑過ぎて難しいのだが、
X軸とY軸の運動をバラバラに分解して、最後に統合すると、実に簡単に導き出せる。
高校の授業でひたすら計算しまくってきた事が思い出される。
複雑な物は、それを構成する要素ごとバラバラにして、
個別に導き出した解を最後に統合すれば理解する事が出来る。
このような考え方を「要素還元主義」といいます。
文脈から切り離し、形式論理を多用する事によって、
矛盾を回避する実に分析的な思考である。
この考え方は現代人である我々にも根強く残っている。
成功哲学なんかで良く言われてますね。
解決するのが凄く難しい問題にぶち当たったらどうすればいいか?
それは、解決可能な大きさになるまでバラバラに細分化し、
それを一つ一つ解決していけば、自動的に成功してしまう。
解決できないのは細分化が足りないだけだから、
更に細分化を推し進めていけば達成できない目標はなくなる。
実に科学的で合理的な考え方ではないか。
形式論理の世界に留まる限り、反論の余地は無い。
問題があったら、その全てを潰してしまえば解決する。
このように合理的に考えられる人間を、現代人は「頭がいい」と考える。
アポロ計画では、人間を月に送る為に解決すべき課題が十万近くあったそうだが、
それらの全てを解決してきたから成功できたとの事。
巷に溢れかえっている成功本のルーツはデカルトにあった訳だ。
学問も細分化していき、専門化していった。
もはや専門家は、自分の専門外の事は門外漢になる程に。
「数学者」という肩書きでありながら、数学の全てを知っている訳ではない。
関数の専門の数学者は、幾何の事はサッパリ解らなかったりとか。
アンドリュー・ワイルズが「フェルマーの最終定理」を遂に証明したが、
その論文を本当の意味で理解できる人間は世界に10人もいないと言われている。
楕円方程式だの谷山=志村予想だの、数学のあらゆる領域に橋をかけて、
縦横無尽に動き回らねばならないからだ。
個別の島、専門化された領域を知り尽くしているのは勿論の事、
それらの島に橋をかけて縦横無尽に動き回れるだけの力も必要。
バラバラの要素に還元しても、それを統合できる力が無いと意味は無い。
このデカルトから始まる要素還元主義。
実に合理的でこのお陰で近代以降の科学や文明は発達してきた訳だが、
この科学的な手法にはやはり限界や無理があるのではないか、
と、ベイトソン等を勉強するにつれてその疑問は深まっていきます。
密接不可分で様々な要素からなりったっている生態系を、
そもそも要素ごとバラバラに細分化できる物なのか?
例えばかつての3月11日の大震災。
自然現象は誰にも止められないから仕方ないとして、被害が拡大した責任は誰にあるのか?
政治家や役人か? 原発を作った東電の人間か? メディアか? 専門化集団か?
連日テレビでは、責任者として祭り上げた人間を糾弾し続ける放送が流れる。
今もなお遺族の会が、慰謝料を求めて責任者を訴える裁判が続いている。
この種の疑問を、ベイトソンは特定の人間集団を責めるのではなく、
文化を構成するパーツ間の相互作用の問題として提示しなおした。
ここ最近の記事で散々書いている生態系、エコロジーの問題ですね。
もっともベイトソンの生態学を知る以前から、
あの大震災での被害を要素ごとに還元し、
その内の一つの要素でしかない特定の人間集団に、
全ての責任を押し付ける言葉にならない不気味さは直感的に感じていた。
しかもそれが当然の事として、糾弾する側が「正義」とされるおぞましさも一緒に。
複雑に絡まりすぎて問題を要素ごとに還元できないからこそ、
「リセット願望」なる物も生じてくる。
会社を辞めて、ケータイのアドレスも全部消して、古い物も一切合切捨てて、
今日から生まれ変わった新しい私が始まるの♪ みたいな。
一切の生態系から離脱した「個」になりたい衝動。
まあそんな物は絶対にありえないとすぐに気付いてしまうだけだが。
この要素還元主義を知ってから自己啓発書や成功本を見渡してみると、
やはりグロテスクである。
今までの記事では言葉足らずだったが、本自体がグロテスクという訳ではなく、
その本が生み出そうとしている人間がグロテスクである。
例えば体の一部だけ筋肉モリモリマッチョマンな人間がいたとしたら。
ジョジョ3部の車のスタンド使いみたいに、
腕はポパイやシュワルツネッガーみたいに筋肉モリモリなのに、
体は骨と皮だけのガリガリ君だったとしたら相当な不気味さを感じると思う。
体を鍛える時に、部分だけ鍛えまくってもパフォーマンスは向上しない。
むしろ下がる。
野球のボールをより速く、より遠くまで投げたい時はどうするか。
腕で投げるんだから腕だけ鍛えまくればいいんだろうという話ではない。
実際には腕や足の末端の筋肉ではなく、肩や肋骨や背骨周り、
さらには腰の筋肉を統合して使いこなせねば速い球は投げれない。
要素に還元し、部分だけを鍛えまくったとしても望む結果は得られない。
メリットがあるとすれば鍛えまくった上腕二頭筋を見せ付けて、
オネーチャン達に「キャーステキー」と言われる位だろう。
この様な部分のみを最適化する事を薦めているのが、
巷に溢れる自己啓発書や成功哲学な訳です。
読者がその手の本を読む目的、
今回は「幸福になる為」に統一しておきましょう。
個人的には、ショウーペンハウエルが言う
「幸福とは幻想で、苦悩こそが人生の本質である」
という言葉に共感していまうような人間なので、
幸福になってどうすんだという思いはあるが、
話が無駄に長くなるので今回は割愛。
話を進め易くする為、皆幸福になりたくて成功本や自己啓発を読むとします。
「お金持ちになる方法」なるタイトルの本を読む場合、
「お金持ちになれば私は幸せになれる」という前提がある。
「出来る男の仕事術」みたいな本を読む場合は、
「仕事が出来るようになれば私は幸せになれる」という前提。
「もう人間関係で悩まない」という本だったら、
「人間関係が上手くいけば私は幸せに」という前提。
幸せを構成する要素をバラバラに還元し、
その一部の要素を解決する事に特化させた自己啓発書。
部分最適の最たるものである。
そしてこの手の本が生み出す人間は、
腕だけが筋肉モリモリマッチョマンな人間みたいに、
実に不気味でバランスを欠いたグロテスクな人間だ。
どんだけ読んでも幸せにはなれないと思う。
腕だけ鍛えてもスポーツのパフォーマンスが向上しないように。
「○○さえあれば私は幸せになれるのに」と、
他の要素を切り捨てるエコロジーガン無視の考え方。
ベイトソンが、その著書「精神の生態学」にて曰く、
われわれの文明では、短期的な利益が得られる方向へ物事が進み、
そしてその進路が堅固にプログラムされてしまった。
これが長期的に見て破局に向かう道であったことが、いまやっと見えてきている。
その手のノウハウを学べば、短期的には利益になるのだろう。
「売り上げを10倍にするセールストーク」とか。
しかし、他の要素を犠牲にしたり無視したりする部分最適の道は、
必ずエコロジーを破壊し、長期的に見れば破局への道である。
成功本や自己啓発書は、人生全体のエコロジーと調和してこそ意味がある。
でもそんな成功本や自己啓発書なんて無いよなという考えなので、
やはり自己啓発書はグロテスクである。
デカルトの要素還元主義から生まれた自己啓発書。
実に科学的で合理的ではあるが、その限界や不自然さも見えてきてしまった。
全く意図しないままシリーズ化してしまった「近代と自己啓発」の記事であるが、
今回で多分終了です。
近代について書きたい事を書き綴っていたら、こんな形になってしまった。
それでは、次回の記事までごきげんよう。