ノートと山積みの本を抱えてコーヒー屋に行った時の話だ。
「紅の豚」のエンディング歌詞の如く、コーヒーを一杯で一日居座る。
店からしてみれば、この上なく厄介な御仁であった事であろう。
前回の記事で、フロムやシュタイナーやサルトルを読んでいると書いたが、
何故この三人を突如読みたくなったんだろうと思って共通点を探していたら、
一本の軸で繋がっている事を発見した。おお、エウレカ。
全くバラバラに見えたこの3人の共通点が見えた。
キーワードは「自由」である。
シュターナーは「自由の哲学」という著書を書き、
フロムは有名すぎる「自由からの逃走」を書き、
サルトルは「人間は自由の刑に処されている」との言葉を残している。
現代人は「自由」と聞いただけでそれは素晴らしい事だと考えるのに対して、
フロムもサルトルも自由を手放しに素晴らしい事とは考えていない。
黙っていれば気付かず幸せに生きていけたものを、
無理矢理開眼させて問題を提示してくるのだから、
哲学者というのは本当に厄介な存在である。
コーヒー屋でこの考えに思い至り、
次のブログの記事はこれにしようとノートに色々書き込んでいた時の話だ。
ふと顔を上げると、パスタを運んでいるバイトのお姉ちゃんの姿が見えた。
どうも疲れ果てているのか、表情は辛そうだし、歩き方もフラフラだ。
別に何事もなく俺の目の前を通り過ぎ、俺も気にせずまたノートの方に顔を向けた。
…………………………………………………………あれ?
おかしい! ちょっとこの変化は何かがおかしいぞ。と気付いた。
一体何が起きたのかという話だが、逆である。
何も起きなかった事がおかしいのだ。
もし今までの俺だったら、自動的に反応してたはず。
(おいおい、雇われの身の上なんだから仕事中はシャキッとしろシャキっと)
って感じで、心の中で労働者としての心得を呟いていたであろう。
もしくは、自分がオーナーの立場だったら何て言うべきだろうかと夢想するかもしれん。
「君、疲れてるからってお客様の前でダラダラしない!」
みたいな叱責を飛ばしているかもしれん。
しかしそんな事は一切無く、疲れ果てたバイトの姉ちゃんが目の前通り過ぎるのを、
何も気にする事なく眺めていた。
近代を学べば、自分の考えている事に気付けるようになる。
見える世界が変わってくるというのは、こういう事なのか。
少なくとも、コーヒー屋で見える世界は変わって見えた。
上記の叱責の言葉というのはどこから来るのかというと、
これこそまさに「デカルト的な思い上がり」に他ならない。
精神と肉体は全く別々の独立した「モノ」であり、
強き精神で、弱き肉体を支配するという近代的な価値観から生まれてくる。
「休みたい」「ダラダラ」したいという肉体的な享楽に流されるのは駄目人間で、
それを律してキビキビ働く事を強制するのが理性的な人間だと。
客もバイトも雇用主も、現代人である我々は皆、
この考え方が共有されているから上記の様な叱責が成り立つ。
例えどんなに疲れていようとも、理性の力でシャキっと働く事は出来る!
だからダラダラしないでシャキっと働け! それが出来ないのはお前の心構えの問題だ!
みたいな感じで、これが「正しい」と信じられている訳だ
言われたほうもこの考え方が根付いているので、
「頑張れない自分は何て駄目な人間なんだろう」みたいに落ち込む事になる。
その考えを生み出す「前提」を微塵も疑う事無く、自動的に反応する。
行動経済学でいう「ファスト思考」のみで思考する訳だ。
俺がコーヒー屋で自動的に反応せず、無反応だったのは、
近代的な価値観で考えるか否かを、自分の意思で選択する自由があったから。
もし選択肢が無かったら、必然的にバイトの姉ちゃんに愚痴る事になっていただろう。
機械の如く自動的に。
自分の中の近代的価値観を気付ける様になったのは大きい。
気付いてさえいれば、あえて近代的価値観で考えるか別の考えをするかを、自由に選ぶ事ができる。
確かマズローだったっけか。
「ハンマーしか持っていない人には、全てが釘に見える」という言葉があるが、
自分の思考のパラダイムが近代的価値観一つしかないというのはそういう状態。
心と体の関係であるが、体が疲れ果てている時に笑顔で接客なんて無理ですよ。
笑顔になれないのに意志の力で無理して笑顔を作ったら、
北朝鮮の子供の様な泣きそうな笑顔という不気味な代物が出来る。
筆者がかつて居酒屋で働いていた時の話だ。
一日14時間以上の激務を週6日やり続けて毎日が疲労困憊。
そんな中で店長は「笑顔で接客しろ!」と毎日怒鳴りつけてきた。
肉体的にも精神的にも余裕が無い中で言われてたので、
あれ以上言われ続けたらブン殴る事になっていたかもしれん。
考えても見てください。
「笑顔になれ! 笑顔になれ! 笑顔になれ!」
と怒鳴りつけてくる人間と一日中一緒に働いていて、
笑顔になれる変態がどこに居るというのだ。
体だけでなく心も休まらないのだぞ。
今にして振り返ってみれば、
店長は全ての問題を近代的なアプローチのみで解決しようとしていた人間だったな。
ハンマーしか道具を持っていない状態なのだ。
それは店長個人の問題ではなく、
その様な人間を生み出している現代社会に責任がある。
ある意味被害者な店長をブン殴る事態にならなくて、本当に良かった。
ハンマーだけでなく、別の道具も持っていたら?
コーヒー屋で、生気の無い表情でフラフラ歩いてた姉ちゃんに、
近代的アプローチ以外で変化を促すとしたらどんな選択肢があるだろう。
そんな事を考えていたら、アイディアがいくらでも出てきて面白かった。
折角重~い思いして持っていた本を読む事もなく、ひたすらノートに書き綴る事になったのだ。
そのコーヒー屋の店主の立場で考えてみた。
店主の目的は、勿論利益を上げる事。
この前提を疑って「そもそも利益を上げる事は必要なのか?」と問いかけてもいいが、
それをやっていくと無限に前提を遡る事態になってしまうので、ここがスタート地点。
利益を上げる為には、沢山の客に沢山のコーヒーを何度も買ってもらわねばならない。
その為の数ある要素の一つとして、店員の接客態度もあるだろう。
しかめっ面のバイトしかいない店よりも、笑顔で接客してくれるお店の方が、
サイフの紐が緩くなる可能性は高いかもしれん。
ダラダラ歩くバイトよりも、キビキビ歩くバイトの方が、しっかりした店に見える。
そこで店主は、あの生気の無い表情で疲れ果てたバイトの姉ちゃんを、
店の利益の為に何とかしないといけないと考えたとしよう。
そこで、近代的なアプローチを取ったとしたらどうなるか?
つまり、多くの現代人がやる何も考えない自動的な反応を取ったらどうなるか。
おそらくそのバイトを呼び出して、デカルト的な心身二元論を説くのだろう。
「君、仕事中は頑張って貰わないと困るんだよ」
「お客様の前に出るんだから、そんな疲れた表情じゃなくて笑顔で」
「疲れてるって? レジの鈴木さんを見てごらんよ」
「鈴木さん週6日で働いているけど、頑張って働いてるでしょ」
「みんな疲れているのに頑張っているんだから、君も頑張って貰わないと」
全てを精神力で解決しようとする事になるだろう。
肉体に限界はあるが、精神に限界はないという少年マンガ的な考え。
意志の力をフル動因すれば肉体はコントロールできるのだから、
それをしない君は頑張りが足りない、もっと頑張れ、と。
しかし心と体は一つだ。健全な精神は健全な肉体に宿る。
細やかな心配りや笑顔なんてのは、体力に余裕があるからこそ出来る物である。
疲れ果ててイライラしている時に、他人に優しくするのは至難の業。
出来たとしても、どこかで限界が来て糸の切れた操り人形みたいに倒れる事となる。
燃え尽き症候群ってやつですね。
若しくは逆に「キレる」という現象が発生する事にもなるだろう。
エコロジーを無視し過ぎるアプローチは、長期的に見て破滅への道だ。
この近代的なアプローチは実に楽で何も考えなくていい手法だ。
バイトを呼んで叱責し、全ての責任をバイト個人に押し付ける事が出来る。
それで店主は自分の責任を果たしたと自己満足に浸れる。
「俺があんだけ言っても解決しないのは、バイト君の意思の問題だ」と。
そして改善しない「駄目な」バイトは解雇して、新しい優秀なバイトを雇えばいい。
機械のパーツを交換するが如く。
しかし、生態学的なアプローチはその様に考えない。
その個人の行動に全ての責任を押し付けるのではなく、
環境と個人の相互作用の問題として考える。
個人を叱責して笑顔になれと言い放つのではなく、
笑顔になってしまうような環境を作ってみてはどうだろうか。
そう考えてみると、アイディアなんてのはいくらでも湧いてくる事に気付くだろう。
疲れ果てると笑顔になんてなれないのだから、
疲れる前にこまめに休憩の時間を設置するとか。
なんなら、休憩室には店主自腹でミスタードーナッツを買って置いておくとか。
疲れた時は甘い物。
それでバリバリ働いてくれるんだったら、安い福利厚生ではないか。
一人あたりの作業量を減らすために、バイトを多く雇うって方法もある。
疲れると言っても、肉体的なハードワークだけが疲労の原因ではない。
ミスする度に怒鳴りつけてくる上司と一緒に働くだけで、精神的な疲労はピークに達する。
店主である自分はそのような態度で接していないか考える必要もある。
場合によっては職場の人間関係も見直して、配置とシフトをこまめに変えるとか。
恋する乙女なんてアイディアも思いついた。
男でも女でも、惚れた異性と一緒に働く時は疲れ知らずで長時間働くものだ。
なので、店に新しく超イケメンのバイト君(彼女無し)を雇ってみるとか。
そのバイト君は仕事が出来るとか出来ないとかはどうでもいい。
むしろ物覚えが悪くて、
何回も女性バイトに「これってどうするんでしたっけ?」と尋ねる様ならなお良し。
それが恋の始まりになるかもしれん。
なら、どうやったらそんな超イケメンのバイト君(彼女無し)を雇えるのか。
そこまでのイケメンではないにしても、バイトの人数は必要だ。
大量の仕事を少人数でやらせたら、一人当たりの作業量が多くて疲労が溜まる。
しかし求人広告は無駄に高い。
それだったら、店で一番カワイイ女の子のバイトを疲れない楽な作業で頻繁に店に入れて、
店内に「バイト募集」の張り紙を貼っていた方が効果が高いかもしれん。
そしてその一番カワイイ女の子のバイトが、叱責されてた当の本人だったら面白いな、
という所までは考えた。
だとしたらその女の子は、店の足を引っ張る負債ではなく財産に変わる訳だ。
生態学的なアイディアをザッと書き綴ってみたが、
どれもこれも近代的な「合理的」「科学的」な価値観で測ると荒唐無稽な事ばかり。
最小限の人数で最大限働かせて最大限の利益を得るのが「合理的」な考え。
それなのに、余計にバイトを雇って支出を増やしたり、
休憩で作業量減らしてどーすんだって事になる。
勿論、これらのアイディアをやれば「これで店の売り上げがウハウハです」なんて事は言えない。
仮に利益が出たとしても、それは「科学的」に説明できる物ではないし、
科学的アプローチが宣伝文句としている「再現率100%です!」とは無縁の世界である。
大事なのは、物事を見るパラダイムは一つではないという事。
ハンマーしか持って居なかったら、全ての問題は釘に見えてしまう。
その事に気付けたのが、今回のコーヒー屋での体験であった。
パラダイムが一つしかなかったら、自分の考えや行動は「自動的に」決まってしまうが、
複数あればその中から選ぶ事が出来る。
以前書いた今年の抱負である「ファスト思考からスロー思考へ」の為にはそれが必要。
現時点ではこんなものですが、
更にパラダイムが増えていくとどの様に世界が見えてくるのか今から楽しみです。
その時には、もっと洗練されてて面白くて効果的なアプローチが出来る事を期待しつつ、
今回の記事はここで終わります。
それでは、次回の記事までごきげんよう。