何故哲学を学び続ける必要があるのか?
知るか! そんなの俺が一番教えて欲しいわッ!
今まで散々ブログで哲学を取り上げておきながらの衝撃的な告白。
哲学が好きで哲学書を読んでいるんじゃないの? と思われるかも知れませんが、
実は格別好きという訳ではないのですよ。
好きではないどころか、ハイデガーとかは嫌いに分類されるかもしれん。
この「嫌い」というのは、幼児が「ママの事なんか嫌いだっ!!」という様な、
自分の事を理解してくれないからという、自己中心的で幼稚な怒りなのでちと恥ずかしいのだが。
ハイデガーの本は結構買い揃えている。
「存在と時間」が全然理解できないのは仕方ないと納得はしているものの、
「哲学とは何か」とか「形而上学入門」等の初心者向けのタイトルでありながら、
お前全然入門させる気無いだろと突っ込まざるを得ない本もやはり理解できない。
当たり前の様にギリシャ語で解説されているし、訳者の苦労は並大抵の物ではなかろう。
ハイデガーは、自分の思想を解り易く伝える事を極端に嫌い、
やたら重厚で意味深な言葉を並べ立てるから仕方ないといえば仕方ないのであるが。
今まで沢山の哲学書を買って読んできたが、
面白いと思えた哲学書は、指で数えられる位しかない。
ショーペンハウエルの「読書について」
スチュアート・ミルの「自由論」
オルテガの「大衆の反逆」
以上だ。思ってたよりずっと少なかった!
蔵書をザッと眺めながら必死に面白かった哲学書を探してみたのだが、
この3冊しか見つからなかったよ。
この3冊はもうページを捲る手が止まらず、最初から最後まで通読しきった。
しかも繰り返し繰り返し再読してしまった本。
再読する度にまた面白い発見がある奥深さを持つ。
結構読んできたつもりではあるが、まだまだ全てを理解したとは言い切れない。
だからこれからも再読する事になるだろう。それぐらい面白い本だ。
なら他の哲学書は面白くないのかというと、面白くない。
いや、面白いは面白いのだが出てくる感想は、キツイ! 重い! 辛い!
等の方が圧倒的に大きいので、
真昼は太陽の光が強すぎて月や星が見えないが如く、
面白いという感想は霞みすぎてとても意識レベルでは気づけない。
じゃあ何でそんな修行僧の様な思いをしてまで哲学書を読んでいるのかというと、
人生をより良く生きたかったら哲学書を読めという教えに従っているからだ。
なんとも消極的で自主性のかけらも無い理由ではあるが、
全然理解できなくても読み続けているあたりは偉いと思う。
自分で自分を褒めてやりたいよ。
しかしまだ人生をより良く生きている実感は無い。
そんなつかず離れずな関係で付き合ってきた哲学だが、
この度本気で哲学と付き合っていく必要が出来てしまった。
なあなあで付き合ってきた腐れ縁の幼馴染に交際を申し込む様な物か。
何故生きていく上で哲学が必要なのか。
これを機会に徹底的に哲学を哲学していこうと思う。
生きる為には哲学が必要。
先ず前提として生きるとは何か?
これはオルテガが大衆の反逆にて曰く、
「生きるとは、何かを為す過程に他ならない」
この定義に反論する人はそんなに居ないと思う。
世の中には野球をする為に生まれたり、マンガを描く為に生まれたり、
世界を平和にする為に生まれたりと様々な事をする人で溢れているが、
余計な物を一切合財捨象して、抽象化すればオルテガの定義に行き着くと思う。
何をする為に生まれてきたのかは解らない。それでも何かを為す為に生まれてきた。
生きるとは、その何かを為していく過程である。
これを前提に話を進めていくので、
この定義に反論がある場合以下の考察は全部無意味な物になる。
とりあえず同意して頂いたと仮定して話を進めていきます。
何かを為す、つまり行動するのに必要不可欠なのが哲学である。
哲学という判断基準が無かったら、いかなる行動も起こせない。
これは順を追って説明していきましょう。
例えば旅行に行くとしましょう。
北海道に行こうか、沖縄に行こうか、はたまた海外に飛び出そうか。
時間と資金の制限を無視できるのであれば、それこそ無数に選択肢がある。
その無数の選択肢の中から、たった一つを選び取る判断基準がなくては、
どこにも行く事は出来ない。その判断基準となるのが哲学だ。
いやいや、哲学だなんてそんな大げさな事考えた事無いよ、
と言われるかもしれませんが、誰もが持っているのが哲学です。
日常会話でも良く良く観察してみれば、
その人がどんな哲学に従って行動しているのか解りますよ。
例えば、勉強嫌いな高校生あたりが言い訳としてよく使う、
「こんな事勉強して何の役に立つんだよ」という言葉。
ここで注目して欲しいのは、「役に立つ」というキーワード。
つまりこの高校生は、
「役に立つ事こそ素晴らしく、役に立たない物に価値はない」という哲学を持っている。
このような考えを道具主義(プラグマティズム)と言います。
有益な物こそ真理である、という考え方です。
この道具主義者が複数の選択肢から何を為すか選ぶときは、より役に立つ方を選ぶ。
試験勉強で役立つ、受験に役に立つ、就職に役に立つ科目を重点的に勉強し、
他の科目は一切切り捨てる事ができる。
「そんな事やったって、何の得にもなりやしない」という言葉を発する場合。
その人が従っている哲学は、合理主義です。利益を求めて損失を避ける。
複数の選択肢を比較検討し、一番費用対効果が高い選択肢を選びます。
「そんな苦しい事は絶対にやりたくない」という言葉を発する場合。
これは功利主義に基づく発言です。
人間の本質は、快感を求め苦痛を避ける事だと考える哲学の一派です。
心理学も、この哲学をベースに人間の行動を分析しています。
一番快感が増え、一番苦痛を避けられる選択肢を選ぶ事になるでしょう。
この「○○主義」というのは、良く聞く割に意味が解らない言葉の代表格ですが、
何を一番重要視しているか、という意味に捉えて頂ければオーケーです。
「資本主義」というのは資本が一番重要だという考え。
「マルクス主義」というのは、マルクスの教えが一番重要だという考え。
「聖書至上主義」は、教会の勝手な教えではなく聖書の教えこそ一番重要だという考え。
何かを為すという事は、何を為すか選ぶことと同義だ。
そして複数の選択肢の中からたった一つを選ぶ場合。
「何が重要で何が重要でないか?」という判断基準が無かったら、
絶対に選ぶ事は出来ない。つまり行動する事が出来ないのです。
「ピュリダンのロバ」をご存知ですか。
とあるロバの右側に、餌の干草がある。
そして同様に左側にも、全く同じ距離に同じ量の干草がある。
このようなシチュエーションに立たされたロバはどうなるのかというと、
どちらの餌も選ぶ事が出来ずにその場で餓死するという話です。
なんて馬鹿なロバだと思うかもしれませんが、人間はこのロバを笑えない。
人間も、自分の中に確固とした優先順位が無い場合、
このロバと同じく、その場に立ち尽くす事となるのだ。
この事に関しては、とても解り易い動画があるので紹介します。
本当は物書きの矜持として文章だけで説明したいのですが、
この動画以上に上手く説明する力を持っていないので仕方ない。
百聞より一見。
この動画の4:56の時点からピュリダンのロバの実践例が見れます。
一切の判断基準が無い選択肢に囲まれた人間がどうなるのか?
最後の男性がその場から一歩も動けず呆然と立ち尽くす様は、
まさにピュリダンのロバに他ならないですね。
「俺は美人のお姉さんが一番大事だ!」という主義の持ち主なら、
他ガン無視でお姉さんの落し物を届けただろうし、
「私は年配の方を大切にする」という主義の持ち主なら、
おばあちゃんの仕掛け人の所にいった事でしょう。
しかしその様な明確な行動基準が無かったので、皆その場に立ち尽くした。
何が大事か解らない、どの選択肢も違いが解らないのであれば、
いかなる行動も起こせないのです。
何故なら、行動するとは、何をするか選ぶ事だから。
その優先順位を決める為の判断基準が、○○主義という哲学である訳だ。
更に突っ込んで言うと、何を選ぶかの判断基準である思考を変えれば、
当然行動も変わっていく。
現実を形作るのは、その人の行動だ。
そして行動を生むのはその人の判断基準である哲学的な思考。
「思考は現実化する」の言葉に代表されるように、
成功哲学ではあなたの考えを変えれば人生は変わりますみたいな教えがある。
この教え自体は、何も間違った事は言っていない。
しかしこの言葉を読んだ読者が間違った解釈をするから悲劇が起きる。
「思考は現実化する」の「思考」というのは、
この行動を変化させるレベルの思考の事ですよ。
頭の中で妄想すればそれが現実になる、
という勝手な解釈をするから現実が何も変わらないのです。
それは「思考」ではなく単なる妄想なのだから。
哲学的素養が無い人が成功哲学を読んでも、
時間と金の無駄にしかならないと思う。
さて。
ここまでの所を一旦まとめておきましょう。
先ず、生きるとは何かを為す過程である。
そして何かを為すには、何を重要な物とするかの判断基準である哲学が必要。
故に、生きる為には哲学が必要。以上、証明完了Q.E.D.
ここで綺麗に記事を終われれば最高なのだが、
上の結論を出した事に伴い、厄介な問いが自然に発生してくる。
行動する為には、何を為すか選ぶ為の判断基準が必要だ。
ならばこの判断基準を選ぶ為にはどの判断基準に従って選べばいいのか?
ここから判断基準の無限遡行が始まってしまう。
順を追って説明しよう。
行動する為の判断基準を便宜上、判断基準Aと名づける。
次に、判断基準Aを重要な物として選ぶ為の判断基準Bが登場する。
ならば今度は判断基準Bを選ぶ為の判断基準Cが必要になり以下無限ループ。
今頭の中で大混乱している思考を、なんとかむりくり言葉に閉じ込めたので、
一体どれくらいの読者に伝えられたのか怪しい。
上の方で「本気で哲学と付き合っていく必要が出来た」と書いたが、
筆者が今頭を抱えている問題がこれなのだ。
「自分は何に従って生きていけばいいのだ?」と。
行動するには、従うべき価値観、判断基準が必要なのは解った。
では、どんな価値観・判断基準を選べばいいのか?
そこに「正解」は無い。何を選んで何を為そうが全てが自由。
以前の記事で紹介したサルトルの、
「人間は自由の刑に処されている」という言葉が重くのしかかっている。
なんと苦しく辛い刑であろうか。
今まで「何が大切か?」という事は他人が全て用意してくれた。
「勉強が一番大切。沢山勉強してテストでいい点取りなさい」とか、
「みんな仲良くが一番大事。クラスの和を乱さず助け合って生活しなさい」とか、
「仕事が一番大事。毎日遅刻せずにやってきて、キッチリ仕事をこなしなさい」とか。
それは何とも不自由で、他人に従う奴隷の生き方であったが、
代わりに家畜の様な安寧がそこにはあり、選択の苦悩は無かった。
しかし全てを自分で自由に選ぶと決意した瞬間に、
今までの人生で経験した事が無い程脳がヒートアップし、
考えなくてはいけない事、つまり哲学せねばならん事が山ほどできてしまった。
今まで選べなかった選択肢が山ほど沸いてきて、しかも「自由に」選んでいい。
死ぬほど働くのも自由だし、ずっと働かずにいるのも自由。
その結果大金持ちになったり体を壊すのも自由だし、貧乏で飢え死にするのも自由。
一体に何を選んで、何に従って生きていけばいいのか。頭がフリーズ寸前だ。
国や会社から命令されるがままに行動して、不満をグチグチ垂れ流す方がよっぽど楽である。
こりゃぁ、確かに自由から逃走したくもなるわ。
神を殺し、共同体を解体してきた近代化以前の生き方にはもう戻れない。
何の疑いもなく神の教えに従い生きていた時代は幸せであった事だろう。
現代という時代は、全てを自分で選びその責任を全部自分で負わねばならない時代だ。
自分は何を選び取るべきか?
それを知る為に、今までのような消極的な動機ではなく、
本気で哲学に取り組む必要が出てきたのだ。
考える事。
それが現時点での筆者の唯一かつ最大の武器である。
とんでもないイバラの道が用意されていそうだ。
それでは、次回の記事までごきげんよう。