進化とブランド ―電子書籍に見る進化の話―

電子書籍により、本のデジタル化が進んでいる。
しかもわざわざ専用の機器を買わなくても、スマホで見れる訳だ。
チラッとグーグルで検索してみたら「スマートホンが書斎になる」がキャッチコピーとの事。

確かに電子書籍は便利だろう。
その恩恵に授かった事はあまり無い身であるが。俺スマホ持って無いし。
スマホなら、お出かけする時紙の本みたいに重い思いをしながら持っていく必要はない。
流石にパソコンほどの容量は無いだろが、本棚1つ分くらいの収納スペースは充分あるだろう。
購入する時も便利だ。営業時間内にわざわざ本屋まで足を運ぶ時間と労力もいらない。
欲しい本は、サイトに行ってワンクリックの距離にある。

「これからは電子書籍の時代だ!」
「今電子書籍がアツイ!」

みたいな勢いで語られ、時代遅れの紙の本は消えていくかの如き語り口も聞く。
しかし占い師ではないが予言しよう。紙の本はこれからも消えません。
歴史を振り返ってみれば、似たようなケースはいくらでもある。
消える場合と消えない場合の違いもそこからちゃんと見てとれます。

例えば、かつてカラーテレビが登場した時代があった。
その時に言われたのは「もう白黒テレビの時代は終わったな」であったが、
確かに白黒テレビは最早この世から消え去ってしまった。

しかしそのホンのちょっと昔に全く逆のケースがあった。
白黒テレビそのものが誕生した時に言われたことが、
「これでもうラジオは無くなるな」であったが、
2016年現在においてもいまだ現役バリバリで店に並んでいるし、
無くなっていく兆しは一向に見えてこない。
未だに野球中継はラジオでしか聞かないという年配の方もいるみたいだし、
根強いファンがいる。

自動車が誕生したら馬車や人力車は消えていったが、
バイクが誕生しても自転車は無くなる事なく使われている。
こういった、消えてった物と残っていった物を見比べて抽象化していくと、
見えてくる法則がある。それは何かというとだ。

上位互換が現れた時古い物は消えていくが、進化系が現れた時は共存する時代が続く。

で、進化とは何かという話だ。
なんか進化というと、成長とか発展とかと同義語で語られる事が多いがそうではない。
進化というのは「多様化」と同義だ。

人間は猿から進化した訳であるが、なら進化元である猿は消え去ったかというとそうではない。
今なお猿やゴリラやチンパンジーは存在している。
全ての哺乳類はネズミから進化したが、
ならば進化した生物が地上を支配してネズミを駆逐したかというと、
未だにネズミは存在していてドラえもんの頭を悩ませ続けている。

動物が進化すると古い方は消えていくみたいなイメージを抱いている人がいるが、それは違う。
進化するという事は、古い方と新しい方がそれぞれ全く別の生存戦略で、
全く別々に生き抜いていくという事を意味する。
だから進化すると同時に多様化が起きていく。進化と多様化は同義語だ。

続いて上位互換は何かというと、それは同種族の間でなされる争いの事。
チンパンジー等、動物の群れには「ボス」がいる。皆ボスに従い、メスは全員ボスの物である。
ボスの条件は何かというと体が一番大ききかったり、一番力が強い事が条件。
そしてこの条件というのは、簡単にひっくり返る。

ある日どこかから、もっとデカくてもっと強いチンパンジーがやってきて、
旧ボスをケンカで倒したらその瞬間からボスの座は交代。
新ボスが全ての特権を奪って旧ボスは駆逐されていく。
そこからは新ボスがハーレムを築いて新しい時代が始まる。

先に出した白黒テレビとカラーテレビの例は、
新ボスが旧ボスを打ちのめして、旧ボスを駆逐したという話ですね。
上位互換が登場した場合、古くて力の無い方は世界から消えていく。

それに対してラジオと白黒テレビの例は、別種族での争い。
いうなれば人間とチンパンジーの争いです。
新ボスに追い出された旧ボスはこう考えた。
「ちくしょー! こんな野蛮なチンパンジーの世界で生きていけるか!」
と考え人間に進化した。
その結果、人間として全く別の生存戦略を使い見事に生き抜く事ができた。
人間になった事で、最早どんなに頑張ってもチンパンジーのハーレムを築く夢は叶わなくなったが、
別にそんな夢を叶えたいとも思わなくなった。
こうしてチンパンジーはチンパンジーの、人間は人間の生存戦略で今もお互い生存し続けている。
めでたしめでたし。

何度も書きますが、進化とは多様化の事です。
とある世界で生き抜く事が出来ない生物でも、
多様化して別の世界にいけば生きていく事ができる。
それ故先に書いた通り、
上位互換が現れた時古い物は消えていくが、進化系が現れた時は共存する時代が続く。
お互いの縄張りを侵食しないので、それぞれがぞれぞれの道を生き抜く事が可能。
縄張り争いをし始めたら、力の強い上位互換が勝って終了だ。
人間はクマの縄張りを狩場にしないし、クマも人間の縄張りには侵入しない。
お互いの縄張りを侵さない限りにおいて共存し続ける。
この自然の不文律を破った途端に、強い方が勝つ生存競争の始まり。

ではここで冒頭の電子書籍を取り上げてみましょう。
果たして電子書籍は紙の本の上位互換なのか進化系なのか?
俺自身は、進化系だと考えている。
なので、縄張り争いで淘汰する事なく、共存の時代が続いていくと予想している。
電子書籍では紙の本の代わりにならない。代替不可能な進化系となっている。

電子書籍が劣る一番の点は、その寿命だ。
情報を記録するメディアにまつわる深刻なジョークがある。
大雑把に書いてみましょう。

西暦20XX年。人類は核の炎に包まれた!
人類は激減。文明は崩壊。過去の歴史は全て途絶えてしまった。
生き残った未来人達は、過去の記録を求めて様々な記録メディアを捜し求めた。

まず発見したのは、パソコンのハードディスクやCD・DVDなどのディスクだ。
しかしこれらは熱にやられ、風雨にさらされ残された記録を読み取ることは不可能であった。

次に見つけたのは、ビデオテープ。
すっかり変形して伸びきっているはノイズは酷いはだったが、かろうじて見る事は出来た。

次に見つけたのは、本。
雨のせいで川原に捨てられたエロ本みたいにグニャグニャだったり、
所々破れたり、燃えて灰になっていたりしたが、そこそこ正確に読み取れた。

探せど探せど不完全な記録ばかり。
しかしたった一つだけ、一切劣化せずに完全に記録を残しているメディアがあった。

それは、古代人が文字を刻んだ石版であった。

――――――というお話です。
人類は、次世代に英知を残すため様々なメディアを使って残してきた。
そしてそのメディアにはとても面白い特徴がある。
それは、新しいメディアほど寿命が短いという特徴です。

古代人が残した石版はこれから数千年後もそのまま残るだろう。
中国古典が書かれた木簡や竹簡は、
2000年以上の時を越えて現代にその思想を伝えている。
紙の記録も、様々な国の歴史を伝えている。

それに比べてCDの寿命はたったの20年。
しかるをいわんやパソコンやスマホの寿命においておや。
あなたのパソコンに今あるデータは、10年後には何も残っていませんよ。
残したかったら、こまめなメンテナンスが必要不可欠。
定期的にバックアップを取ったり、新しい機種にデータを引っ越したり。
ほったらかしで何10年も持つ本とは大違いである。

古書店に行くと、俺の年齢よりも長生きしている本で溢れかえっている。
蔵書から古そうなの見繕って引っ張り出してくるなら、
人文書院の「サルトル著作集全七巻」は昭和36年発行。初版第1刷。
岩波書店の資本論第一版刊行百年記念の「マルクス資本論全四巻」は昭和42年発行。初版第1刷。
みすず書房のバートランド・ラッセル「西洋哲学史全三巻」は昭和43年発行の第21刷。

すでに50年以上前の本もありながら、なんの問題もなく読める。
少なくとも、俺の寿命より先にこれらの本の寿命が尽きる事はまずない。
ちなみにラッセルの西洋哲学史はお気に入りの一品だ。
今現在流通しているラッセルの西洋哲学史はソフトカバーのしかないが、
俺の持っているのはハードカバーなので頑丈でしかもとてもカッチョイイ。
無理やりケチを付けるなら、初版があまりにも古すぎて旧字体で書かれているのだが、
俺は旧字体を読めるので難なく現代語に翻訳できる。
旧字体を読めるのは、読書家としてささやかな自慢です。

文庫本やマンガ本は何10年もしたら紙が変色するわ糊付けは剥がれるわで、
流石に長年は持たないが、上質な紙でしっかり製本した本ならかなり持つ。
自分の残りの寿命を考えるなら実質永遠に読めるのと同義だし、それで問題無い。

スマホやパソコンやキンドルでは、本の寿命には敵わない。
いや、そこまで何年も再読しないから電子書籍でいいよってならそれで終わりだが。
しかし他にも電子書籍では紙の本の代わりにならない点がある。
それは耐久力だ。

東日本大震災の時、何度も本棚が倒れて部屋中に本が散乱した。
本に囲まれて死にたいと常々思っていたが、あやうく名誉の殉職をする所であった。
本棚から床に叩き付けられて、本に折り目が付いたりはしたが、
一冊も欠ける事無く今も読める状態を維持している。

これがもしパソコンやスマホやキンドルだったら?
実際にやってみる必要はないですが、本棚の一番上にパソコンを置いて、
勢い良く本棚ごと倒して床に叩きつけたら、それでも電子書籍は読めるのだろうか?
ポケットにスマホを入れて尻餅で壊すケースを結構見るが、
文庫本をポケットに入れて尻餅ついても特に問題なく読める。
パソコンの場合、ウィスルにやられて開く事すらできなくなったりもする。
本は紙魚に食われるくらいの被害しか出ないというのに。
電子書籍は本に比べて圧倒的に脆すぎる。

他にも色々な制約がある。
震災の最中は、水を貰うのに2時間とか3時間並ぶ事になった。
このご時勢、待ち時間は皆ケータイやスマホを弄るのが日常風景だが、
電気が復旧するまでは誰一人としてケータイを弄っている人はいなかった。
俺一人だけが給水タンクと本を持ってイライラする事なく気長に並んでいたよ。
日没と共一日が終わる生活で、あまりにも夜が退屈だからロウソクの明かりで本を読んだりもした。
電源が無くなったり、壊れたりしただけで一切の文章が読めなくなってしまう電子書籍。
しっかり読み込みたい大事な文章は紙に印刷しておきましょう。

そんな訳で、電子書籍は紙の本の代替を務める事は出来ません。
本の上位互換ではなく、全く別の方向に進化した全く新しい記録メディアです。
ですから、お互いの縄張りをそれほど侵食する事なく、住み分けて共存する時代が続くはず。
こういう時は紙の本を活用して、こういう時は電子書籍の方が便利だ、みたいに。

そしてここで面白い特徴を発見したのだが、
進化は多様化だけではなくブランド化とも同義である。
進化とブランドって構造がそっくり同じなのですよ。

もしブランドが出来ていない場合。
自分より素晴らしい上位互換が現れたら淘汰されて消えていく事になる。
しかしブランドが出来ていれば、自分より優れた物が現れても相変わらず生存していける。
「業界ナンバーワン!」という肩書きだけが売りの会社の場合、
追いつけ追い越せの過酷な生存競争に巻き込まれ、力の無くなった方から消えていく。
追い越されてナンバーワンの座を失った途端、
ボスの座を奪われたチンパンジーの様にすごすごと撤退する事を余儀なくされる。
ナンバーワンになれば、今までナンバーワンについてたお客もガッポリ自分の物。
旧ボスを倒せば、旧ボスが持っていた雌猿のハーレムが自分だけの物になるが如く。
人類はどんなに進化しても、結局やってる事は猿と何も変わっていませんね。

身近な例でブランドが無い企業の代表格を挙げるならコンビニですね。
コンビニって、この店じゃないといけない! って拘り持っている人はそんなに居ないでしょ。
「セブンイレブンのドーナッツしか買わない」とか、
「ファミマのチキンしか食べたくない」とか。
ぶっちゃけ一番近くにあって一番コンビニエントな店を利用するだけのはず。
家にいる場合は家に一番近いコンビニに行くし、
運転中は行路にあるコンビニに寄るし、
宿泊中はホテルに一番近いコンビニだ。
わざわざ遠出してまでお気に入りの常連店に通う人はいないでしょ。
レジにかわいいバイトの女の子を見つけたくらいの強力な理由が無いと。

自宅から一番近くのコンビニが閉店したら困るけど、
もっともっと近くに新しいコンビニが出来るんだったら、
別に閉店しても痛くも痒くも無い。涙の一滴もでやしない。
コンビニってのは上位互換が現れれば代替可能なのです。
あなたが死んでも代わりはいるもの。

しかしブランド化が出来ている場合、生存競争に巻き込まれること無く生き残って行く事が出来る。
業界ナンバーワンの足元にも及ばず、業界第2734位ぐらいであっても、
「私にはこの会社がナンバーワンだ!」と顧客に思われているならちゃんと生きていける。
業界ナンバーワンも、業界第1267位もそれぞれ淘汰する事なく共存し続ける。
ブランドさえできていれば。

実際、その人にとってのナンバーワンってのがある訳ですよ。
例えばスポーツトレーナーの世界で考えて見ましょう。
トレーナーという大きなくくりで考えれば業界のナンバーワンがいるはずですが、
業界といっても更に細かく複数に分類する事ができる。

プロ選手をバリバリ鍛え上げるハードなトレーナーから、
地域の老人や主婦に軽い運動を指導するトレーナーまで。
もし老後のボケ防止の為に運動する老人に、
業界ナンバーワンのバリバリ鍛えるハードなトレーナーがついたらミスマッチもいい所だ。
業界ナンバーワンの人間は、その老人にとってはナンバーワンではない。
軽めの運動で「運動って気持ちよくて楽しいですよね」と伝えてくれるトレーナーの方が、
その老人にはナンバーワンになるだろう。
その人にとってのナンバーワンというのはそれぞれ違う訳です。

近代合理主義的な考え方だと、実力を数値化して測定したくなる。
「あいつは10の力しか持って無いけど、俺は15あるから俺の方が5凄い」とか、
「毎月5の力を付け続ければ、1年で60になってあいつに勝てる」とか。
しかしそういう単純で直線的な考え方だと、過酷な生存競争に巻き込まれる事になる。
上位互換が現れた途端に今の地位をごっそり奪われていく。
工場にロボットが現れた途端仕事を奪われる労働者のように。
生存競争は一番体力がある者しか生き残れない。
そこまでしてボス猿の地位が欲しいのであろうか。

しかし進化して、別の生物になり別の生存戦略をとり続ける限り、
生存競争に巻き込まれて淘汰される事は無い。

生存競争ってのは言い換えると「ゲーム」になる訳だ。
ゲームの面白さは否定しないし、この歳になっても俺はゲームが大好きだ。
自分に実力が付くと、自分がどれくらい強いのか試してみたくなる。
誰かと競いあって、勝った負けたで一喜一憂する楽しさは面白い。
しかし道楽と生存戦略は別々に考える必要があるだろう。

「絶対に負けるもんか!」とか「なんとしてもあいつに勝ってやる!」という発言は、
上位互換を目指して生存競争を生き残ろうとする考え方だ。
しかし進化し続けていれば、勝っただの負けただのといった発想その物がなくなってしまう。
全く別の生物になっているのだから、他人と比較のしようが無いのだ。
その頃には、他人と代替不可能な「誰かにとっての一番」であるブランドと化している。

進化というのはブランド化と同義。
あなたが進化し続けている限りはブランド化されつづけ、
ブランド化され続けている限りにおいては、生き残る事は楽で楽しい物になっていく。
ではどうしたら進化できるのかというと、それは前回の記事でも書いた事を実践すればいい。

迷ったらキツイ方を選ぶ。

これで、絶えず自分にストレスをかけ続けていけばいいだけの話。
昔のストレスの記事でも書いた通り、
ストレスというのは無くしたり消し去ったりするべき物ではなく、
うまく利用して付き合っていくべき物。
ここら辺については補足の必要があるので、書きたくなったら書きます。
今回の記事はここまでで終了。

それでは、次回の記事までごきげんよう。

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