徳は孤ならず、必ず隣あり

以前の記事で行動力について書いた手前、
書いた本人が色々な事に挑戦しない訳にはいかないだろう。

経済学の観点から行動力に言及した記事で、
「意思決定費用」と「外部費用」について書いた。
意思決定費用というのは、読んで字の如く何かを決定するのにかかる費用。
そして外部費用というのは、その決定に影響を受ける人々を統治するのにかかる費用。
この両者はトレードオフの関係で、片方を安く抑えるともう片方が値上がりする。
いかにして意思決定費用を安く抑えるのかというのが、その記事で書いた事。
以上、復習用の解説終わり。

それを早速自分で実践してみた訳だ。
その結果、凄い昔に夢中になっていた趣味を再開した。
その趣味というのが、全くもって人生で何の役にも立たない!
趣味で稼いでいくみたいな道とは無縁の世界。
正真正銘『趣味』の世界。
やらねばならない事が山積みの身の上で、そんな事をやっている暇は無い。

だがそんなの関係無ぇ。

だって、やりたくなっちゃったんだもん。
やりたい事ならやるしかないでしょ。
日本で数百人しかやっていない超マイナーな趣味の世界。
その世界を文章だけで説明しても、とてもあなたに伝えられる自信は無いのでカット。

この趣味はゲームとかアプリみたいにフロムの言う『受動性を与える刺激』ではなく、
生産者となって生みの喜びを味わう『能動性を与える刺激』なので、俺の中でゴーサインが出た。
やればやるほどに、充実感と生きている喜びが満ちてくる。
エリアーデの言う『聖なる時間』に投入できる世界だ。
俗物に塗れた現世で生きる為にも、この聖なる時間に没入してバランスを取る必要がある。
他人から見たら実に下らない趣味だが、俺には神聖な宗教的儀式だ。
このバランス感覚によって、俺の健全な成長が促される。これはゴーサインだろ。
もっともそんな御利益が無かったとしてもやっていたけど。
少なくとも、ブログ記事のノリとテンションが以前と変わる事は間違いない。
いい方向に行くかどうかは別として。

以前の記事でも引用したが、ベイトソン曰く

芸術、宗教、夢その他の現象の助けを借りない、単に目的的な合理性は、いずれかならず病に至り。生を破壊してしまう。

生を破壊しない為にも、人生で全く役に立たないこの宗教的儀式は必要不可欠。
近代合理主義なら、目的地を一点に集中しその他の全てを無駄と断じるのが正しいのだろうが、
生態学的には、やりたい事は全部やるのが正解だ。
こんな回り道ばかりで目的地に辿り着けるのか怪しいが、
今は道中を楽しんでいます。存分に。

大好きな趣味なのにかつて足が遠のいた理由は、
自分で書いた記事を元に自分を分析してみたら解った。
外部費用を抑える事ばかりに注力したせいで、
意思決定費用がインフレしていたのだ。

その世界で実力がついて名が知られるようになり、
関わる人間が多くなってくると今度はそれらを失うのが怖くなってくる。
行動経済学で言うところの『プロスペクト理論』が働く訳です。
これは何かと言うと、
人は得ることの喜びよりも失う事の苦痛の方が大きく感じるという理論です。

例えば、7月29日で無償アップデートが終了するWindows10。
無料で手に入るお得なプランなのに、各地で強制アップグレードのクレームが多発。
しかし散々文句を言っておきながら、29日でもう無料で手に入らないとなると、
途端に今の内にアップグレードを済ました方がいい気がしてくる。
俺も散々要らないと思っていながら、一瞬だけちょっと迷った。
もう無料で手に入らないという失う恐怖の方が人は動く。

もっと身近な例で言えば、スーパーの有料レジ袋だ。
これもプロスペクト理論を活用して、購買者の行動を決定している。
今ジャスコでは、レジ袋を要求すると3円支払う事になっている。
たった3円であるが俺は袋を買わずに、素手で持つかリュックを用意している。
別に資源を大切にしているからレジ袋を買わない訳ではない。
家に着くまでのたった数分の為だけに3円払うのが、なんか勿体無いからだ。

ここで試しに脳内シミュレーションをしてみて気付いたのですが、
もしここで店員の言う事が正反対だったらどうなっているか。
初めから代金に袋代3円をプラスして、レジ袋が要らないなら3円返すとしたら?

①、「レジ袋が不要なのであれば、代金から3円お返しします」
②、「レジ袋が必要なのであれば、代金は3円増しになります」

①だとプラス3円だが、②だとマイナス3円になる。
もし①の場合「たった3円くらいどうでもいいよ」といって、レジ袋を断らずに貰うだろう。
そうでありながら、今現在ジャスコで言われている②のセリフの場合、
同じ金額のたった3円を惜しんでわざわざ袋を断る事になる。

「たった3円」を得る喜びは全然行動を変えないが、
「たった3円」を失う苦痛は俺の行動を変える。
得ることの喜びよりも、失う苦痛の方が大きく感じてしまう訳だ。
それを利用して、ジャスコは不要なレジ袋を使わずに済んでいると。
これがプロスペクト理論です。

話が脱線したので元に戻そう閑話休題。
俺はその趣味の世界で有名になった。
なんせ数百人しかいない狭い世界だから、
ちょっと努力するだけで目立って有名になってしまう。
関わる人間、影響を与えられる人間が増えてくると、
プロスペクト理論により今度はそれらを失うのが怖くなってくる。
失わないよう、関わる人間の外部費用を抑えようと尽力した結果、
意思決定費用がインフレしてしまったのだ。何を決めるのも億劫になる程。
イケイケのベンチャー企業も、大企業になって大量の従業員や顧客を抱えると、
途端に保守的になって冒険しなくなってしまうのと同じ現象です。

それさえ解れば、解決策も自然と沸いてくる。
大企業の地位なんぞ放り投げて、またベンチャー企業に戻ればいい。
そうすれば、存分に創作を楽しめる。
「なんとかして見ている人を楽しませねばならない」とか、
「他の人のお手本になるような物を創らねばならない」といった、
俺の行動力を縛り付ける鎖を全部解き放った。
外部費用なんぞ知った事ではござらぬ。
誰にも侵されない聖なる空間で、好きなだけ創作をさせてもらう。

それで引きこもり生活まっしぐらになるのかと思いきや、
面白い事にとことん夢中でやっていると、
今度はその趣味を皆で共有したいという思いが湧いて来る。
引きこもるどころか、ガンガン世界に向けて発信したくなってきた。

それでツイッターを活用する事にしました。
今まで勉強メモとして全世界で俺にしか理解できない、
自分だけのメモをツイッターに残していたのだが、
そこに趣味の世界について書き始める事にした。

創作活動の進捗具合や、
その業界の人間だけが反応する「あるあるネタ」や、
古参の俺が語る業界の歴史話など、
俺が書きたくて書きたくてしょうがない話をツイートし始めた。

そしたら、勝手にフォロワーが増えてきました。
発信する人間が少なすぎて、みんなこの手の話題に飢えてますからね。
検索機能でたどり着いたらしく、フォローされた。
そのフォローした人も当然この業界の人間から沢山フォローされているので、
その人が俺の投稿をリツイートした途端、一気にフォロワー数が増えた。
初めて通知の山が来たのでちょっとびびりましたね。
まあ、全国で数百人しか参加していない狭い世界なので、
その殆どがかつての顔見知りであり、同窓会の気分でしたがね。
「あ。あなたまだやってたんだ」と苦笑い。

フォロワー数が増えて来るとプロスペクト理論が働いて、
今度はフォロワーを失う事が怖くなってくる。
こんな事書いたら嫌われないかな、とか心配して行動が萎縮し始める。
最終的には、角が立たず実に当たり障りの無いどーでもいいツイートばかりに。
しかし今の俺はそんな事が無い。相変わらず好き放題書いている。
何故なら、今現在俺をフォローしている人達は、皆好き放題書く俺を見てフォローしたのだ。
それが読みたくてフォローしたのに、俺が書かなくなったらそれこそフォロワーは減っていく。
俺のやりたい事と、フォロワーが求めている事が一致しているので、思う存分やれる。
そこに外部費用の心配をする必要は無い。
俺が自分勝手にやりたい事をやるのが、一番周囲の人間の為になる行動だ。
ルソーが『社会契約論』で提示した理想の国家に近い関係で繋がっている。
一般意思を具現化した存在として、周囲の人間をリードしている。

かつての様に無駄に有名になって、周囲の人間の顔が見えなかった時とは違う。
今回は自分のコンセプトを明確に提示し、そのコンセプトに共感した人達だけが集まっている。
なので何をしたら喜ぶか、あるいは嫌がるかなんて、手に取るように解る。
俺が喜ぶ事をやれば周囲も喜ぶという素晴らしい関係だ。
微妙に食い違って離れていく人もいるだろうが、そういう人はむしろ離れていってくれた方がいい。
離れていく人を留めようとして、俺が自分のやりたい事を我慢して擦り寄ったりしたら俺の為にならない。そして俺の為にならないと、コンセプトに共感してくれた周囲の人間の為にもならない。
今の俺には、俺の為すべき事を為す責任が発生しているのだ。
関係を維持するのに「お友達料」が必要な「お友達」は要らないです。
余計な外部費用に割く予算は無い。
「仲間」は欲しいが「お友達」は要りません。

ツイッターのツールとしての面白さも色々書いておきたいが、
それはまた別の機会にして今回はここで終了。

それでは、次回の記事までごきげんよう。

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