何も考えず自動的にこの記事をクリックしてしまった人は、
まず上のタイトルを見て欲しい。
面白い文章を書こう、である。
これをテーマに記事を書くことは、俺にとってかつてないシンドイ事だ。
それは何故か?
ダイエットの本を書いた著者は、それからはリバウンドせず痩せ続けなくてはいけないし、
集客セミナーで稼いでいる人は、ずっと集客に困ってはいけない。
俺が上記のテーマで記事を書くという事は、
これからはずっと面白い記事を書き続けねばならないという自分へのプレッシャーだ。
しかし進化やヒーローについての記事で『迷ったらキツイ方を選べ』と、
散々偉そうに言っていた身の上なので、俺はこのキツイ方を選ばねばならない。
チクショウ! 余計な事書きやがって!
あんな事書かなかったら、今頃はのうのうと生きていられたのに!
面白い文章を書こうなんて、自分にプレッシャーをかける記事は書きたくねぇ!
でも書く。
この手の話題が書き辛いのは、著者適正の問題もある。
いくら表現の自由が認められた社会だからといっても、
人によって書いて良い事と悪い事がある。
ブクブク太った人間がダイエットの本を出してはいけないし、
貧乏人が金持ち本を書いてはいけない。
書くのは自由だけど、その場合読者から鼻で嗤われまくる事となるでしょう。
俺が今まで書いていた記事がつまらなかったら、この記事は嘲笑の的でしかない。
この著者適正に関して、ある時かつてなく勉強になるサイトを見つけました。
グーグルで検索していたら、コピーライター(自称)が書いているブログを発見したのです。
現役大学生でありながら、コピーの力だけで稼いで自由を満喫していますなるブログだ。
ブログのランディングページの一つに『セールスレター代行』というリンクがある。
俺が知ってから少なくとも一年以上は”緊急速報”のヘッドコピーが載り続けているレターだ。
そこには、僕がセールスレターを代行して、
あなたの望むだけの売り上げを達成してみせますと書かれている。
俺はこんなにも凄いセールスレターをかつて見た事がなかった。勿論悪い意味で。
何が凄いのかって、そりゃぁ言葉に出来ないくらい凄い。
セールスレターで宣伝して商品を欲しくさせてしまうのがコピーライターの仕事だが、
そのセールスレター代行のレターを読んでも、全く代行したいという気持ちが湧いてこない。
この程度のレターしか書けない人間にセールスレターを依頼するのは正気の沙汰ではない。
世界一大事な商品である自分自身を、
レターで売り込めないコピーライターに何の価値があるというのか。
どこの本で読んだ誰のエピソードかは忘れてしまったのですが、
参考までに(自称ではない)プロのコピーライターのエピソードを紹介します。
ネットが無く紙媒体の広告が主流だった時代。
そのコピーライターはある日新聞に、デートの申し込みの広告を出した所、
一瞬で400人以上の女性からデートの申し込みが殺到したという逸話の持ち主だ。
これがプロの実力ですよ。
この人が仕事依頼を受け付けます、という広告を書いたら依頼が尽きる事は無いだろう。
孔子曰く「三人居れば、必ず我が師あり」である。
良きを見てこれに習い、悪きを見てこれを戒める。
上記の自称コピーライターは毎日ブログを更新しているのだが、俺はこの人を偉大なる師匠と崇め、
フロムやフランクル等の名著を読む時間削ってまで、足しげく師匠のブログに通っています。
素晴らしい師匠の条件は、答えを与えるのではなく、問いを与える存在である事。
師匠のブログを拝見させて頂くたびに、尽きることの無い問いが溢れてくる。
「何故師匠の薦める商品は、こんなにも欲しくならないのだろう?」
「何故師匠の文章は、こんなにも知性と教養の無さが滲み出ているのだろう?」
「何故俺は、師匠のブログは読んでもメルマガは絶対に登録しないと固く決意したのだろう?」
そして、
「何故師匠の文章は、こんなにもくだらなくてつまらないのだろう?」
という疑問を寝ても覚めても真剣に問い続けた結果、今回の記事が生まれました。
師の存在に感謝します。
本当に面白い文章を書く人と比べたら、
俺はとてもじゃないが面白い文章を書こうなんて記事は恥ずかしくて書けない。
しかし下らない文章を書くことに関しては、
俺なんてとてもじゃないが師匠の足元にも及ばないので、
今回の記事を書く決意ができました。
問いだけでなく勇気も与えてくれる素晴らしい師匠だ。
まず、そもそも何故面白い文章を書かなくてはいけないのか?
理由は、そうしないと誰も読まないからだ。
現代人は皆忙しい。
テレビを見ている時も、コマーシャルになった途端に慌ただしくチャンネルを変え、
一瞬でも空白の時間ができようものなら即スマホを弄りだす。
寸暇を惜しんで情報を求める程に忙しい。
あなたの文章がつまらなかったら、数秒でスマホに手が伸びる事請け合いだ。
それって凄い暇人なのではというツッコミを強引に無視してとにかく多忙だ。
わざわざ文章を書く目的は、伝えたい事を伝える為だろう。
伝えるのが目的でなかったら、殴り書きのメモや脳内妄想で充分。
そうでなかったら『わざわざ』書いて、世に公表する必要は無い。
読み手をちょっと読んでみようかな、という気にさせないのであれば、
結婚式のスピーチや葬式のお経みたいに、だ~~れも聞かず何一つとして伝えられない。
伝えたい事も伝えられないこんな世の中じゃ、―――――ポイズン。
そして、伝える為の工夫や努力を一切しない主張を一方的にした場合、
選挙演説みたいに喧しくて耳を塞ぎたくなる代物になってします。
選挙演説みたいな文章ってのは、
いきなり家に土足でズカズカと踏み込んであなたの胸倉を掴みながら、
「このままじゃ日本は駄目になるぞ!!」とガーガーまくし立てる文章です。
いや、とりあえず帰れよ。日本よりも俺の家の方が先に駄目になっちまう。
自分は解りやすく伝える努力を一切しないのに、
相手には自分の事を理解する努力をしろと命令する傲慢な態度だ。
ハイデガーの様に、面白く書く気遣いが微塵も感じられ無い文章でありながら、
それでも熱狂的な読者が生まれ続ける文章が書けるのであれば、それでいいだろう。
しかしそうでは無い我々には、とりあえず面白く書く工夫をして、読者に読んで貰う努力は必要だ。
そうしないと、どんなに素晴らしい知識や情報があったとしても、それを伝える事ができない。
物書きのスタート地点は、先ず読んで貰う事から。
それが、多忙の中わざわざ自分の為に時間を割いてくれた読み手に対する礼儀でもある。
実際に文章書く前に、先ず抑えて欲しい大原則がある。
それは「文章は書き手以上の物にはならない」という事。
書き手自身がたいした存在でもないのに、素晴らしい文章を書く事は出来ない。
書き手を越えた文章は生み出せないのだ。
『何を』書くかよりも決定的に影響を与えるのは、『誰が』書くかという事。
言葉の凄さは、言葉その物というコンテンツに含まれているのではなく、
言葉を発する人間と受け取る人間の関係等の文脈、コンテクストに含まれています。
その意味において『言霊と言ってだね、言葉その物に力が宿っていて』みたいにしたり顔で言っている人は、全く言葉の力を理解しておらず、トンチンカンな事を言っているなと俺は考えている。
あんた本当は言葉の力を実感した事ねーだろ、って感じで。
以前の記事で魂の存在について言及しました。
ベイトソンは、魂と言うのはあくまでも環境との関係性の中にのみ存在すると述べた。
言霊というのもの同様に、あくまでも周囲との関係性の中にのみ存在します。
言葉そのものには何の力もありませんよ。
例えばだ。
「お前はとっとと死ね」
と、今俺がここで死ねと書いた訳ですが、これを読んで一体何人の読者が死にましたか?
死んだ人はちょっとブログのコメント欄に書き込んで、死んだ事の報告をお願いします。
言葉そのものに力が宿っているのであれば、
今ここで読者が黒死病にかかったみたいにバタバタと倒れていないとおかしい。
しかし言葉そのものには何の力も宿っていませんから、俺は死ねと書けた訳ですね。
しかしここで、俺と読者との関係性という文脈を加えると話が変わってくる。
もし読者の中に俺を神の様に崇め、
俺の発する教えはデルフォイの神託よろしく全て忠実に実行する人がいたとしたら、
もうその人はこの世には―――――
待て、早まるな。
生きろ、そなたは死ぬには早すぎる。
―――――よし、これでオーケーですね。
この言霊の力により、俺は今一人の命を救った。
なんというマッチポンプ。
何を馬鹿な事を言ってるんだと思うかもしれませんが、
この実例なら周囲を見渡すだけでいくらでも見つける事ができますよ。
最愛の恋人から「あなたなんか大っ嫌い!」と言われて自殺した人がどれだけいるのか。
色恋沙汰で自殺する人間は文学の世界に溢れているし、現実にも溢れてる。
赤の他人に何を言われても平気だが、恋人から言われたら自殺してしまう。
言葉その物ではなく、関係性という文脈の中にこそ言葉の力が宿る。
それが言霊の力です。
一日中「私はツイてるツイてる」という呪文を唱え続けても、
そこには何の力も宿っていないのだから意味はないですよ。
俺のマブダチとして何回もブログで紹介している精神科医のフランクルであるが、
そのマブダチがとある家を訪れた時の話だ。
その部屋には『運命に耐えようとする意志は運命よりも強い』という格言が飾ってあった。
その格言はどこに飾られていたのかというと、
家の持ち主が首吊り自殺をしたまさにその真上に飾られていた。
運命に耐えられずに自殺をした家主の真上に。
もしその家主が誰かに向かって、
『運命に耐えようとする意志は運命よりも強い!』と言ったとしたら、
一体どれだけの人間が運命に立ち向かうというのか。
フランクル曰く、
『存在はいつも、言葉より決定的だからです』
全てはその人の存在にかかっているのです。
どれだけ素晴らしい言葉を口先から並べ立てたとしても、
その人の存在以上に伝える事はできません。
すべてはメッセージを発する人間の存在にかかっている。
どれだけ素晴らしい文章を書ける技術を『持っているか』ではなく、
どれだけ素晴らしい文章を書ける『存在であるか』にかかっている。
素晴らしい文章を書きたかったら、素晴らしい存在にならなくては書けない。
その努力を怠って、小手先だけのテクニックや言葉で誤魔化したとしても、
それは絶対にばれてしまう。
存在がたいした事ないのに、豪華な格言やら美辞麗句でメッキを塗りたくった文章を、
我々は「痛々しい」とか「胡散臭い」と感じる。
マンガで覚えたカッコイイキャラのカッコイイセリフを、
自己と同一化して意味深に語る中学生の言葉ぐらい痛々しい。
コピーライター(自称)の俺の師匠が書く文章は全てにおいて胡散臭い。
大した人間ではないのに、言葉だけで自分を大きく見せようと必死だからだ。
言葉を大げさにする必要があるのは、現実の存在がしょぼい時だけだ。
現実が素晴らしいのであれば、一切語らず存在を見せるだけでいい。
要するに背中で語れって事ですね。
コピーライター(自称)の師匠は必死で背中を隠して、デカイ言葉で誤魔化そうとするから、
1記事残らず胡散臭い記事を、あんなにも量産する事が出来るのだ。
マルクス・アウレリウス曰く、
『善い人間のあり方如何について論ずるのはもういい加減で切り上げて、善い人間になったらどうだ』
文章の素晴らしさを決定するのは「何を」書くかではなく、
「誰が」書くかに委ねられている。
素晴らしい文章を書きたかったら、素晴らしい人間になれって事だ。
素晴らしい人間になれば、それはもう何気ない一言全てが名言となる。
言葉そのものに価値があると勘違いしている人間は、
その文脈から切り離した名言「だけ」を真似して痛々しい姿を晒す事になりますがね。
文章を書く人間の存在以上の文章は生み出す事ができないし、
無理矢理生み出そうとしたら、そこには必ず歪みが生じて不自然な文章が生まれる。
そして不自然な文章というのは、美味しくもないし栄養も無い。
添加物や化学調味料たっぷりの不自然な食品みたいに。
しかも胃腸に負担をかけて、消化し辛い上に吸収もできないときている。
そんな物を用意するくらいだったら、自然な文章を書いたほうがいい。
たとえ今現在の自分の存在がどれだけしょぼかったとしても、
無理なく自然な文章を書けば、伝わるものは伝わる。
美味しいかどうかは解らないが、胃腸はちゃんと吸収してくれる。
以上が、面白い文章を書く以前の大前提。
そもそも何を書くかと言うテクニック以前の問題。
生み出す文章の価値は、生み出す人間の存在にかかっている。
それを踏まえた上で、面白い文章を書くという事について話していきましょう。
どうやったら面白い文章を書けるのかという方法は、それこそ無限にあります。
しかしつまらない文章を書く方法はかなり絞られるので、そっちから攻めてみましょう。
つまらない文章の一番の特徴は「文章に主張が含まれていない」という事。
文章に主張が含まれていないとどうなるかというと、
読んだ後に「で? 結局あんたは何が言いたいの?」という感想しか出てこない。
文章を書く目的は、伝えたい事を伝える為だと先に述べた。
この『伝えたい事』を別の言葉で表すと『主張』になります。
主張が含まれて居ない文章は、ビーフの入っていないビーフカレーどころか、
カレーがかかっていないカレーライスである。
そりゃぁ、クシカツかと思って食べたらタマネギフライだった時の子供のような顔にもなるさ。
単なる事実の列挙は主張じゃないですからね。
その事実に自分なりの見解を加えたものが主張になります。
とりあえずマスコミをマスゴミと揶揄して叩いておけば、
大衆からの支持を得られるとして批判しまくっている人間がネットには溢れている。
その手の人間が主張している事に、
「マスコミは偏向報道をせず、事実のみを記すべきだ!」
という何ともトンチンカンなものがある。
臆面も無くこんな事を言ってしまえるぐらいに知性と教養の無い人間では、
仮にマスコミが事実のみを記載した場合、あんたは新聞もテレビも一切理解できなくなりますよ。
今現在において既に、マスコミが一切自分達の主張を書かず、
純粋に事実だけを述べているページがあります。
それは何かと言うと、毎日の東証株価のページです。
そこは、一切の主張が無い事実のみの世界。
株価のリテラシー(読み書き能力)がある人間なら東証株価を読んだだけで、
世界の動きとか経済の動向とかをかなり正確に読み取れるのであろうが、
殆どの人間は何も読めないし読みたくも無い。
主張が一切含まれて居ない文章というのは、これほどまでに面白くないのだ。
それでも「事実だけを書かれた」マスコミの報道を読みたいですか? というか読めますか?
ちゃんと読みとれるリーディング能力がある人ならそれは歓迎すべき事ですが、
あんな発言でマスコミを批判する人間に、
事実だけを見て何かを読み取れる程の知性があるとは思えない。
事実だけを列挙した文章というのは、
科学研究の論文とか歴史の年表とかウィキペディアみたいな文章です。
読んでて恐ろしくつまらない。
ウィキペディアでは、個人の主張を述べると駄目な記事としてドンドン訂正されていく。
一部には年表を見ただけドキドキハラハラできる変人もいるのだろうが、
殆どの人間は主張の一切無い文章は面白く感じられない。
面白い文章の絶対に必要な条件は、自分の主張を述べている事です。
そしてここで大事なのは、『自分の』主張だという点。
大衆の書く文章が例外なくつまらないのは、自分の主張が一切ないから。
どこかで誰かが言った事を、自分の主張だと勘違いして述べている。
だから大衆は皆他の大衆と同じ事を言っているし、それが大衆が大衆たる由縁だ。
現在は自分の主張を述べる為に、自分の頭を使う必要が一切無い。
何かのニュースを見た時、それに対して自分の頭を使って考えたりはしない。
まず真っ先にやるのは、まとめサイトを見てそれに対して皆が何を言っているかを見る事だ。
「これはけしからん!」と皆が言っているのを見れば「そーだそーだ」と同調し、
「これは素晴らしい!」と皆が言っているのをみれば「そーだそーだ」と同調する。
何か事件が起きたとき、真っ先に注目されるのはいわゆる『御意見番』と言われる人達だ。
御意見番の人達が世の中のついて語ってるのを見て、それを自分の主張だとする。
これはいい事なの? 悪いことなの? それを決めるのは御意見番の人達である。
大衆は誰も自分で考えようとはしない。
どれだけ自分の頭に汗を書かせて考え抜いたか。
どれだけ自分で自分の主張を生み出そうとして格闘した跡が残っているか。
それらの形跡が一切伝わってこない文章は、
どれだけ修辞的に優れていようと例外なくつまらないのだ。
今回の記事が面白いか否かは、全て俺の格闘の苦戦具合にかかっている。
今回の俺の記事は面白かったでしょうか?
もしコメント欄で「面白かったよ」なんて書かれよう物なら、
俺のテンションは天空の城まで舞い上がってしまいますが、
つまらなかったのなら、これからの記事はもっともっと面白い物にすると約束しましょう。
俺が今まで書いてきた記事の中で一番面白い記事は何かというと、それは「next one」ですから。
それでは、next oneの記事までごきげんよう。
(コピーライター(自称)の俺の師匠のブログだが、これは本当に勉強になるのでリンクを張ってあなたに紹介したいがそれはしません。もし師匠が、アクセス解析の逆探知でこの記事にたどり着き、何かの間違いで万が一にも面白い記事を量産してしまわれたら、それは俺にとってはデカ過ぎる損失だ。なのでどうしても知りたいという方は、メールアドレスを俺に教えてくれればこっそりとURLをお教えします)