成功者を哲学する

「成功したかったら成功者の真似をすればいい」
そのような事が成功哲学の世界では言われている。

「学ぶの語源は真似ぶだ」等と、
どれくらい信じていいのか根拠の怪しい豆知識もしたり顔で語られる。

しかしそれだけで成功者になれるのだったら、
何故世の中には成功者ではなく、
猿真似しかできないお猿さんが蔓延しているのだろう?
成功する人間とお猿さんの間には、どのような違いがあるのか?

結論から先に書くと、その人に哲学的な素養があるか否かだと考えている。
哲学的な素養が無い人間では、成功哲学を理解する事も実践する事もできない。
成功者が「何を」やったのかはそれ程重要ではない。
大事なのは「何故」やったのか?
成功者達は、どのような哲学に従ってその行動をしているのか?
その哲学を突き詰めて理解し、
その哲学に従って行動する事が成功者の真似をする本当の意味だと考える。
「何故」やるのか解っていれば、「何を」やるかは全然問題ではない。
何をやるかは、その哲学に従って自分で考えればいい。

成功者は皆寄付をしているからと言って、
それを真似して自分も寄付をすれば成功するとは限らない。というか、多分成功しない。
「何を」やるかばかり真似して、「何故」やるのかは全然真似していないからだ。

色々具体的に考えていきましょう。
例えば、成功者はどんな服を着るのでしょうか?

ビジネス書の世界では、身なりを徹底することを教えている。
仕事のできる男は立派なスーツを着ている、と。
確かに、ボロボロの服を着ている人に、仕事を頼みたいとは思わない。
俺の知らない世界だが、世の中にはオーダーメイドで何百万何千万というスーツがあるらしい。
「またまたご冗談を」って感じで、いまだにそんな世界がある事を信じていませんがね。
服装にこんなにも金をかけられるというアピールも出来るのだから、成功はしやすくなるのだろう。
私はこんなに稼いでいます! と、預金通帳を見せびらかす品格のない振る舞いと違って、
スーツならば自分がどれくらい稼げる人間なのかを上品に伝える事ができる。
リクルートスーツとブランドスーツの違いも見分けられない俺みたいに、
見る目が無い人には全然伝わりませんが、
そういう世界で生きている人達には服装だけで実力が見えるのだろう。

世の多くの成功者達が、立派なスーツを着ている。
なのでそれを真似して「お金をかけて立派なスーツを着ましょう!」というのが、
成功本の類ではまことしやかに語られている。
これが成功者に必須の条件なのかどうかを語る前に、反例を取り上げてみましょう。
ちょっとこちらの写真を見てください。

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言わずと知れたスティーブ・ジョブズの写真ですね。
ジョブズは成功者か否か? 愚問過ぎて聞く必要すらないですね。
世のビジネス書を読んで成功者になる為に、
なけなしの金で立派なスーツを買っている人達をあざ笑うかの如く、
なんとも安っぽい服装で世界規模の成功者になってしまったジョブズ。
この写真をみてようやく気付いたのだが、
世界一プレゼンが上手い男であるジョブズのプレゼンは、
動画共有サイトに行けば日本語字幕つきで見放題だが、
どのプレゼンも確かにいつも同じ服を着ていた。
例外は大学卒業式の学帽被って行ったスピーチくらいか。
グーグルでジョブズの画像検索をすると圧巻です。
いつも同じ服を着ている。どれもユニクロに行けば売ってそうだ。
ユニクロに売っている超リーズナブルな変身セットで、君も今日からスティーブ・ジョブズだ!

同様の成功者の例は他にもある。
例えば、フェイスブックの開発者であるマーク・ザッカーバーグもそうです。
これまた画像検索をすると圧巻だ。
灰色のTシャツ姿がズラズラと一覧に並ぶ。
これが世界を動かした成功者とは思えない程のラフな格好。
フェイスブックの開発者ではなく、
近所の兄ちゃんですって紹介された方が納得がいく。
町ですれ違ってもまず気付けない。

さてさてさて。
成功者を真似すれば成功できるという話だが、
これら対極の成功者の例を見せられて一体どっちを真似すればいいのだろうか?
立派な服を着れば成功できるのか?
それとも毎日同じラフな服を着れば成功できるのか?

一体どっちの真似するのが正しいのか?

――――と、わざわざ太字で強調した訳ですが、
今までの記事を読んできた読者のあなたには、
上記の問いはなんともトンチンカンな問いであると気付いて欲しいです。

「正しい」とか「間違っている」とかは、全て文脈によって決まります。
絶対的な善や悪は存在しません。文脈次第では善も悪になる。
上の2つの教えは、どちらも正しいし、どちらも間違っているとも言える。
成功する為にはスーツを着なければいけない人もいれば、
スーツなんか着てたら成功できなくなってしまう人もいる。
どういう文脈を設定するかだ。
この事に関しては、ベイトソンが実に面白い問題を出している。

勉強が大っ嫌いな子供がいたとしましょう。
そこで母親は、勉強したらご褒美に大好きなアイスクリームを上げると約束した。
さて、ここで問題だ。

1、この子供は、勉強を好きになるか嫌いになるか?

2、この子供は、アイスクリームを好きになるか嫌いになるか?

3、この子供は、母親を好きになるか嫌いになるか?

さて、ここでビシッと「正解はこうです!」と言えば読者のあなたはスッキリするのでしょうが、
この問題に正解はありません。全ては文脈次第で、コロコロと結果が変わります。
なんとも正解が解らずモヤモヤしたものが頭に残るでしょうが、そこら辺は頑張って哲学してください。

何度も書きますが、大事なのは「何を」やるかではなく「何故」やるか?
何故やるかが解っていないと、猿真似しかできないお猿さんになってしまう。
あっちへフラフラ、こっちへフラフラと、真似する対象を変えまくってさまよい歩く難民の誕生だ。

ここで、具体的な文脈を設定して考えて見ましょう。
多分神田昌典の本だったと思うが、その本で読んだエピソードがある。
神田昌典のクライアントのコンサル事例の話だ。

とある社長の話なのだが、その社長は自分が経営している工場に行くと、
毎回毎回とパートのおばちゃん達に捕まって、
「社長さん、ちょっと手伝って下さい」と、一緒に働くハメになるのだ。
思わず笑ってしまった。やはりどこもそうなのか~~。
色々バイトをした経験がある人なら解ると思うのですが、
古参のパートのおばちゃんってのは、店長とか社長より発言力が大きい事が珍しくない。
特に若い人だと、年配のおばちゃんに頭が上がらない。
しかもおばちゃん達は女グループの最大派閥を掌握しているから、
おばちゃん達に逆らうと組織で孤立してしまうなんて事もしばしば。

自分以外の人間にやらせる為に金出して雇っているのに、
社長自ら工場で働く困った事態に陥ってしまったのだ。
これでは社長がやるべき仕事に支障が出る。
そこで神田昌典は「これからは私服ではなく、スーツで工場に行きなさい」とアドバイス。
そしたら、おばちゃん達のお誘いがピタリと止んだそうだ。

この社長が仕事で成功したかったら、立派なスーツが必要不可欠。
立派なスーツというのはどれくらい立派なスーツかというと、
おばちゃん達が「あら、こんな高そうな服を汚させちゃ悪いかしら」と思って、
社長に工場労働させるのを躊躇うくらい立派なスーツ。
汚れようが構わないラフな格好だと、社長いえども気楽に頼めてしまうのです。
工場で働くのは、専用の作業着来たおばちゃん達がやるべきもので、
スーツを着ている社長には社長がやるべき仕事がある、
というメッセージを一言も喋らずに伝える事ができる訳だ。
立派なスーツが無くては成功出来ない人は、スーツを着なくてはいけない。

大事なのは「何故」やるか?
真似して立派なスーツを着るにしても、
何故「自分は」スーツを着ると成功できるのかちゃんと説明できますか。

続いて、対極の服装をしているジョブズやザッカーバーグについて考えてみましょう。
何故彼らは毎日同じ服を着続けるのか。
俺も最近になってようやくこの考えに至ったのだが、
ジョブズやザッカーバーグが同じ服を着るのは『意志力の浪費を抑える為』だと考える。

選択には、全て意志力を必要とする。迷うと更に意志力を消費してしまう。
出かける時に「今日はどの服を着て行こうかな」というのは、
それだけで無駄に意志力を消費してしまうのだ。

「今日はどの服を着ていこうかしら」というのは、
恋する乙女にとっては人生を左右する大事な判断だが、
ジョブズやザッカーバーグにとっては実にどうでもいい事である。
そして、そんなどうでもいい事に意志力を使ってしまってたら、
仕事に回す大事な意志力が無くなってしまい、大きな事は成せなくなってしまう。

彼らには、世界を変えて世界を面白くするという、明確過ぎるほど明確な使命がある。
その使命に関係のない事は、全て「どうでもいい」事なのだ。
どうでもいい事には一切の意志力を使わない。
いつもと同じ服を、なんの迷いもなく『自動的に』選ぶだけ。

たかが服を選ぶくらいの労力を惜しんでも・・・・・と思われるかもしれませんが、
その積み重ねを侮ってはいけません。貴重な意志力を散財するツケはでかいです。
小さな消費を積み重ねていった結果、
自分にとって本当に大事な決断を下して実行する意志力が無くなっていく。
本当は日常のあらゆる判断を例にして掘り下げていくつもりでしたが、
「服を選ぶ」というたった一つの例を掘り下げていっただけで、この長さの記事。
とても書ききれないし、書いても読みきれませんね。
自分がどれくらいの意志力を垂れ流しにしているか、自分で気付かないのは黄色信号だ。
ちなみに赤信号は、前回書いた意志力を回復させる意志力すら無い無気力状態。

服選びだけでなく他の事柄も同様に、迷うってのは意志力を無駄に消費する。
素早く決断すれば、本来失う必要が無かった意志力だ。
迷えば迷うほど、問題解決に取り組む意志力が無くなって何もできなくなる。
立派な服を着ないと成功できない人ならともかく、
そうでないなら服選びなんてどうでもいい事に意志力を使ってたら成功は遠ざかる。

個人的には、上のジョブズの写真を見た時俺は凄い親近感が湧いた。
俺が着ている服は、上から下まで全部ユニクロの服だ。しかも同じサイズ同じ色。
服をしまっている場所は金太郎飴みたいに、どこからとっても同じ服。
普通靴下は片方に穴があいたら、もう片方も捨てなくてはいけないのだろうが、
俺の靴下は金太郎飴方式なので、別の靴下から片方持ってきてまた履ける。
今日は何を着ていこうか迷うのは、季節の変わり目に長袖と半袖どっちを着ようか迷うくらい。
どこで服を買うかも迷わないし、何を買うかでも迷わない。
服のせいで意志力を無駄に消耗する事はないですね。

勿論俺にも、立派な服を着たほうが成功できる局面もあるのだろうが、
コマメにブラシをかけるメンテナンスが欠かせなかったり、
しまうのに手間隙かけてカバーを被せないといけない服なんて買ったら、
ストレスで意志力の消費スピードがマックスだ。
馬鹿高いスーツを着た日には、雨が降ったら濡れないように、
神経すり減らして意志力を浪費しながら歩かなくてはいけなくなる。
汚れようがズカズカ歩ける服を着ている時の消費具合とは大違い。
俺にとっては、立派な服買って意志力を無駄に消耗するデメリットが大きすぎる。
そんな事するくらいなら、ユニクロで統一したほうがいい。
もし俺が「正装で来い」とどこかに招待されたら、
ユニクロのTシャツとチノパンで赴くことになるだろう。

そんな事を考えてこのスタイルにした訳ではないが、
これは意志力のマネジメント的にはかなりの効果があったのか。
知ったのはこの記事を書こうと思った時だよ。

全く意図せずして俺はジョブズの真似をしていた訳だが、
当たり前の様にジョブズの様な大成功とは無縁である。
服選びを真似しただけでジョブズになれるなら苦労は無い。
後は何を真似したらジョブズになれるのかと考えるが、
「何故」やるのかという哲学さえ理解していれば、
「何を」やるべきかはいくらでも自力で思いつける。

キーワードは、「こういう時ジョブズだったらどう考えるか?」である。
多分であるが、ジョブズはいわゆる庶民的な事で迷ったり悩んだりはしなかったはず。
「子供の教育ローンをどうしよう」とか、
「老後の年金をどうしよう」と悩んでいる姿が思い浮かばない。
金持っているんだから当然だろとツッコミが入りそうだが、
多分金もって無くても悩まなかったと思いますよ。
そんなどうでもいい事で意志力を消費させる愚かさを知っているジョブズなのだから。

ジョブズには世界を変えるという大切な使命があった。
そしてその使命に関係の無い事柄は、全てどうでもいい事であり、
どうでもいい事には一切意志力を使わないし使わせない工夫をしている。

「あらやだ、お宅の所のスティーブさんって毎日同じ服を着てますわね。
 服を買うお金にも困っているみたいで大変ですね、プークスクスwwww」
と、近所のあばちゃん達に馬鹿にされるなんて、それこそどうでもいい事。
服選びを自動化して、車の運転みたいに何も考えずに着替えられる事の方が大事なのだ。
そして服以外にも、どうでもいい事を自動化して、
余計な意志力の消耗を抑えて居た事が容易に予想できる。
それが、大切な事に意志力を注ぐのに必要な事だから。

どんな成功哲学の本でも「目標を明確にしろ」と書かれている。
上記のジョブズの例を踏まえた上でこの教えを見ると、その大切さが良く解ってくるはずだ。
大切な事にのみ意志力を注ぎ、それ以外のどうでもいい事には極力注がない。
ではどうやったら大切な事とどうでもいい事の見分けがつくのかというと、
それは明確な目標の存在が不可欠だ。

自分の目標に近づける事は大切な事だし、
目標から遠ざけるものはどうでもいい事。
明確な目標という物差しなくして、事の重要度を測る事はできない。

そして、明確な目標を設定したかったら、自己との哲学的な対話が欠かせない。
自分は一体何をしたいのだろう? 
何をする為に生まれてきたのだろう?
自分が得意としている事や強みは何だろう? 等々。

そして、哲学的な対話をするには、かなりの意思力を必要とする。
それこそ、起きている間は一日中問い続けねばならないのだから。
意志力の無い人間には哲学的な対話をする事はできません。

この「哲学的な対話」と、
「余計な事には意志力を注がない」は、
どちらかが変化すれば、もう片方にも影響を与える循環構造になっています。

哲学的な対話で目標が明確になればなる程、無駄な意志力の消耗を抑える事ができる。
そして、意志力の消耗を抑えれば抑える程、対話に使える意志力が増えていく。
増えた意志力をまた対話に使って、目標を更に明確にすれば、
益々余計な消耗を抑えて、対話に使える意志力がまたまた増えていく。

意志力が余って出来る事ややれる事、やりたい事が増えてくれば、
目標や使命もその都度変わっていくことでしょう。
初めは「洋画を字幕無しで見れるようになりたい」という目標でも、
それが出来るようになると、今度は英語で話してみたい、
外国人の友達を作りたい、海外に一人で行ってみたいなど、
どんどん目標が更新されていくはずです。

目標が更新されていないという事は、
上記の循環が起こっていないという事でもある。
この循環、卵が先かニワトリが先かでいうなら、
意志力を節約する方が先だ。
まずは、歯を食いしばってでも意志力の垂れ流しを抑え、
哲学的な対話が出来る程の意志力をなんとしても確保する事。
それさえ出来る様になれば、後はグルグル勝手に循環していきます。

あなたがどんな目標を目指しているかに関わらず、
意志力を節約して使うべき所にのみキッチリ使う方法を学ぶ必要があります。
そうすれば後は、自分との哲学的な対話で問題を解決していけるだけの自力が身に付きますから。

それでは、次回の記事までごきげんよう。

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