今回書いて置きたいことは、意志力を発揮するには自由が必要だという話だ。
開始一行でもう結論が出てしまったので、これでこの記事を終わってもいいのだが、
不幸な事にここの管理人はたった一行で終わる話を長々書く気満々らしい。
まず、自由について知っている範囲で書いてきましょう。
世間一般で頻繁に使われていながら、
あまり意味を追求されない言葉の代表格ですからね。
皆曖昧なまま使って曖昧に理解されている。
自由とは素晴らしく誰もが欲しがるものだと思っている人には、
以前にも書いたサルトルの「人間は自由の刑に処されている」という言葉は、
トンチンカン過ぎて何を言っているか解らないだろう。
自由とはなんぞやという定義が違いすぎて話が噛み合わない。
自由という事に関しては、それこそありとあらゆる哲学者達が考えてきた事なので、
とてもじゃないが全部を説明する事は出来ないし、俺はほんの一部しか知らない。
なので今回はかなり絞って話を進めていきます。
今回取り上げるのは、『自由論』のスチュアート・ミル的な社会における人間の自由ではなく、
自由意志についての話です。
読んで字の如く、人間に自由な意志はあるのか?
決定論者達は人間の自由意志を否定する。
人間は、目に見えない糸で操られた操り人形の如く、
全てを運命に操られているがその操られている事にすら気付かない。
決定論者の代表格であるスピノザは、
「人間は騙されて、自分が自由だと考えているだけだ」と述べた。
「自分の行動は認識しているが、その行動を決定した理由を知らない時にだけ、
自分は自由だと考えていられる」
ここら辺は、日常で良く実感できる事だと思います。特に広告の世界がそうでね。
広告主が、自分が儲けるために世間に植えつけた価値観ってのがある訳ですよ。
例えばトヨタの広告である「いつかはクラウンに」とか。
初めはカローラ、次はコロナ、そしていつかはクラウンに、と。
お出かけするのに車が必要だから買う、ではなく、
経済的に成功した人間はクラウンを買うものです、という広告。
ここで経済的に成功した人間が「俺もそろそろクラウンを買うか」と思って買った場合。
その人は自分の自由な意志で購入したと言えるのだろうか?
一見自分で決めたかの様に見えても、
まるで操り人形の様に広告主の思い通りに動いているだけではないのか?
棒で突かれて直進するビリヤードの球と彼との間には、どれくらいの違いがあるのか。
操り人形の糸が見えていたら操られていると理解できるが、
糸が見えなかったら、まるで自分の意志で動いているかの様に見える。
この自分を動かしている糸を認識していないが行動は認識している時だけ、
自分は自由だと錯覚する事が出来る、というのがスピノザの主張だ。
こう考えて自分の行動を振り返ってみてみると、
どれだけ自分の自由意志で行動しているか怪しいものになってくる。
そんな自由意志なんぞありやしない、というのが決定論者の立場。
これは中々絶望的な観点だ。
こんな人生は嫌だ! なんとかして自分と人生を変えてやる!
という決意をするかどうかも「何か」に操られた結果だし、
自分で自由に人生を変えることはできず、全てはそういう決意が湧いてくるのを待つしかない。
こうやって俺がブログを書いているのも、俺の意志なんて関係ない訳だ。
そんな受動的な態度はヒーローとしてあるまじき態度である。
オルテガが『大衆の反逆』にて曰く、
「誰かがスピノザの言葉を引用してきたら警戒せねばならない」
なので俺もスピノザの言葉は、かなりの色眼鏡で警戒して見ている。
スピノザの述べている事が真理だったとしても、
それはあまり俺の人生に良い影響をもたらしそうにない。
結局は何が正しいか間違っているかの問題ではなく、
自分は何を選び取るのかという俺自身の問題だ。
自由に選び取れるのであれば、可能性がある方に賭けた方がいいだろう。
とは言っても、巷に溢れるスピリチュアル的な
「あなたは、大宇宙の流れに身を委ねれば全て上手くいくのです!」
という素敵な未来を約束する決定論を選ぶつもりも毛頭無い。
フランクル曰く「バラ色の宿命論よりは、冷静な活動主義の方がましです」なのだから。
俺は、どこの誰かも知れん人間の言葉ではなく、マブダチのフランクルの言葉を選びたい。
そっちを選ぶ人間でありたい。全ては個人のあり方にかかっている。
人間の行動は神や運命に全て決定されているのか?
それとも自由な意志で行動しているのか?
これらはどちらも成り立つというのがホッブズの見解だ。
ホッブズがその著書『リヴァイアサン』にて曰く、
「自由と必然は両立する」
例えばだ。
一週間以上何も食べておらず、餓死寸前の人間を大型ショッピングモールに連れて行き、
「さあ、ここに置いてある商品を好きなだけ『自由に』持っていっていいぞ」
という、超太っ腹な振る舞いをしたとしよう。
そしたらこの餓死寸前の人が何をするかは、必然的に決定される。
もう家電コーナーや洋服コーナーなんかはアウトオブ眼中で、
真っ先に食品コーナーに飛びつくに決まっている。
自由に選べる身でありながら、結果は必然的に決まっている。
もし、ニューヨークのスラム街を裸の美女が歩いたとしたら、
どんな結末が待っているかは予言者でなくても予言できる。
全てが自由な無法地帯で起こる事は、必然的に決定される。
人間を一切の制約が無い自由状態(ホッブズの言う自然状態)にしたら、
必然的に自分の利益を求めて殺し合いを始める「万人の万人に対する闘争」が起きるので、
自由を放棄して絶対君主に服従せねばならない、というのがホッブズの社会契約論。
ホッブズは、人間を自由にさせたら必然的に闘争が始まってしまうと考えている。
自分を縛る一切の制約が無い状態を『自由』というのであれば、自由と必然は両立する。
無限の選択肢を選べる状況でありながら、必然的に選択肢は決まってしまう。
色々選べるかのように見えながら、実際には自分の意思で自由に選ぶ事ができない。
果たしてこれは『自由意思』と呼べる物なのだろうか?
これを自由意思と呼ぶならば、
そこら辺に転がっている石ころの様に意志を持たない無生物でさえ、
自由意志を持っているという事になってしまう。
例えばだ。自分の手の平にボールを握り締めているとしよう。
手の平にある限り、このボールは自分の思いのままだ。
意志を持たないボールは、ペットみたいに勝手に逃げ出したり暴れたりしない。
しかしこのボールを手放した瞬間、
自分の意思とは関係なくボールは地面に向かって『自由落下』する。
このボールが地面に向かっていくのは、
ボールが「こんな所は嫌だ! 俺は地面に向かって突き進むぞ!」と、
自由意志で決定した結果だろうか?
一応訊いてみましたが、訊くまでもなく答えは決まってますね。
これは重力に従っただけであり、万有引力の法則に従っただけで、
自由意志の結果地面に向かった訳ではない。
ボールは重力の奴隷であり、法則の奴隷にすぎない。
そして奴隷に『自由な』意思など存在しない。
奴隷が何をするかは全て支配者が決定する事なのだから。
先のホッブズ的自由の例で出した、餓死寸前の人間。
餓死寸前の人間は、必然的に食べ物を目指して一直線に進む。
これは自由意志の結果ではなく、食欲の奴隷であり本能の奴隷でしかない。
重力に従って落下するボールと、この餓死寸前の人間にどれほどの違いがあるのか。
故に、ホッブズは「自由と必然は両立する」と主張した。
奴隷の行動は自由意志を持たないボールの様に、必然的に決定される。
巷に溢れるお金持ち本やお金持ちになりましょうというサイトでは、
「自由になりましょう」という事が散々謳われる。
「あなたはいつまでドレイの様に会社勤めをするのですか?
私のノウハウでウッハウッハ稼いで自由を満喫しましょう!
はい、セミナー代100万円」
そしてお金を稼いでしまえば、
毎日ご馳走食べて、好きなだけ寝て、美女とやりまくって、
一日中遊んで、何をするにも自由になります! と宣伝する。
しかしこんなのは本能の奴隷であって、全然自由ではない。
翻訳するならば、会社の奴隷を止めて本能や資本主義の奴隷になりましょう、という事だ。
この手の広告に反応する人達が大金を手にしたら何をするかは、
予言者でなくても予言できる程、必然的に決定される。
パイロットが乗っている戦闘機がどこを飛ぶかは解らないが、
野球のフライボールなら、落下地点に先回りできる程簡単に軌道を予測できる。
ボールの中にパイロットが居たら、全ての球技は成り立たないだろう。
余談だが、全ての国民が自由意志で行動したら国家も成り立たないだろう。
簡単にコントロールできる奴隷を育成する事が、国家教育の役割です閑話休題。
自由に選んだかに見えて、結局は本能や法則の奴隷に過ぎない。
果たして人間が自由になる方法はあるのか?
その方法はある、と主張したのが哲学者のカントだ。
ここでようやく本題に入れる。
この記事は意志力を発揮するには自由が必要だと主張する為の記事だ。
そしてその自由というのは、カント的な自由の事である。
カント的な自由なくして、意志力は使いこなせない。
肩パッドつけたモヒカンが「俺達は自由だぜ、ヒャッハー!」という、
世紀末的な自由とは対極に位置するのがカント的な自由である。
カントが言う自由はとても厳格で要求が多い。
本能の奴隷や法則の奴隷の時になされた行動は、
カントに言わせれば他律的な行動である。
他律というのは、自分以外の何かが決めた要因に従っている状態の事。
そしてカントの考える自由な行動とは、自律的に行動する事だ。
自律的な行動とは、自然が用意した命令や社会的な決まり事ではなく、
自分が定めたルールに従って行動する事である。
一切の制約から解き放たれる事を自由とする考えとは真逆で、
自分が定めたルールに絶対服従する事こそがカントの考える自由だ。
これは、人間にのみに許された人間だけが成しえる自由である。
落下するボールや本能の奴隷である動物に、この自由は不可能だ。
部活のトレーニングにしても、
「グラウンドを10週走れ!」と、
先生から命令されたから走る他律的な行動は不自由な行動だ。
しかし、これを自らの意志で、
「グラウンドを10週走る!」と決意し、
自ら決めた事に自ら従う自律的な行動であれば、それは自由な行動である。
カント的な自由は厳格すぎてキツイのであるが、なかなかに希望を持てる話でもある。
何故なら人はいかなる環境いかなる状況であろうとも自らの意志で自由になれるという事だからだ。
「会社を辞めて自由になりましょう!」
というのは、極めて貧弱で不自由な発想に他ならない。
こういう発言には「会社のせいで自由になれない」という前提が隠れているからだ。
会社に通うのも自由、辞めるのも自由、転職も自由、独立するのも自由。
そう考えるられる事こそが自由だと思うのだが、
何故か「自由の為には会社を辞めなくてはいけない!」という不自由な発想になる。
無限の選択肢の中から、たった一本しか選べない必然的な選択は自由と呼べるのか?
「毎日会社に通おう」と自分で決めたルールに自分で従っているのであれば、
その人は組織に属していながら自由である。
会社が不自由の象徴になるのは、「毎日会社に通いなさい!」と誰かが決めたルールに、
他律的に従っているからだ。ブラック企業時代の俺みたいに。
一見矛盾しているかの様に見えるが、
ルールに服従する事こそ自由であるというパラドックスが成り立つ。
勿論、そのルールというのはあくまでも自分で決めたルールの事だが。
それがカント的な自由である。
そして、意志力を発揮するにはこのカント的な自由が必要不可欠。
記事の最初に書いた結論をようやく展開する事ができます。
何かを行動を起こすには「これをやろう」という決意が必要不可欠。
そしてその決意を下すには、意志力が必要だという事は今まで散々書いてきた通り。
自分の意志でやる事は、全て意志力が必要なのだ。
何か事を為そうとする時、
「あれをしようかな、それともこれをしようかな」
とあれこれ考える事は、それだけで貴重な意志力と時間を消耗するのだ。
すぐガス欠になる貴重な意志力を。
ウィリアム・ジェームズ曰く、
「習慣的な行動が一切なく、すべてをいちいち思い悩んで決断しなければならない人間ほど惨めなものはない。そういう人間にとってはタバコに火をつけるのも、カップの飲み物を飲むのも、起きるのも寝るのも、あらゆる行為を始めるのも、全てが意志的な熟慮の表現なのである」
一回一回熟慮して何かをするとしたら、殆ど何も出来ずに人生は終わるだろう。
例えば朝起きた瞬間、習慣的な行動が無かったとしたら無数の判断が迫ってくる。
朝起きたらコーヒーを飲むのか? はたまた水を飲むのか?
ストレッチをするのか? ジャージに着替えてランニングに行くのか?
真っ先にパソコンつけてメールをチェックするのか?
はたまたソシャゲにログインしてログインボーナスをゲットするのか?
昨日のやりかけの作業を再開するのか? 今日の計画を立てるのか?
窓を開けて深呼吸するのか? 瞑想をするのか?
はたまた二度寝するのか?
長々具体例を読まされてウンザリしてきた頃でしょうが、
書いてる俺もウンザリしてきていますよ。
そして、これらを実際に朝起きて考えている人の頭の中は、
もっともっとウンザリしている事でしょう。
こんな事に意志力を消耗し続けていたら、行動力なんて沸いてくるはずが無い。
それを解決したかったら、ルールを設定してそれを習慣化する事です。
「朝起きたら、コーヒー用意して飲む」とか。
自分でルールを設定して、それに絶対服従する。
絶対服従なので、そこに意志の力は必要ありません。
「朝起きて調子のいい時はランニングする」とか、
「天気がいい時はランニングする」みたいに、
判断を加える余地を残してはいけません。
ランニングすると決めたなら、雨だろうが晴れだろうが、
疲れていようが快適だろうがやるんですよ。
気分がどうこうとかは関係ない。ルールには従う。
カント的な自由は厳格で要求が多いのだ。
タレントでもあり陸上選手でもある武井壮は、
毎日一時間のトレーニングの時間を設けている。
このトレーニングに、調子がいいだの悪いだの、やる気があるだの無いだのは関係ない。
どんなに忙しくても自分へのご褒美として、かならずトレーニングをするとの事。
やると決めたからやる。極めて自律的で自由な行動である。
厳格にルールを定める事こそ、もっとも意志力を発揮できる事を知っているのだろう。
もしこれが、「今日は疲れたからどうしようかな」と迷う事に意志力を発揮してたら、
散々熟慮した挙句にようやく重い腰を上げるので、
トレーニングだけで一日の行動が終わってしまう事にもなりかねん。
しかし彼は、トレーニングをしてもなお色々な活動が出来る程の意志力がある。
というか、一日の終わり際のもっとも意志力が枯渇している時間帯にトレーニングが出来るのは、
厳格なルールを定めてそれに服従しているからとも言える。そこに意志の力は必要ない。
一旦トレーニングを始めてしまえば、後は車の運転の様に自動で体が動く。
意外な事だが、成功者と呼ばれる人程厳格なルールを定めてそれに従っている。
例えば「やりたくない事は絶対にやらない」とか。
以前の記事で書いたジョブズやザッカーバーグの、
「毎日同じ服を着続ける」というルールもそうですね。
色々ありますが、共通しているのはあれやこれや迷う事に意志力を注がない点。
それさえ解っていれば、どんなルールでもオーケーという事になる。
2ちゃんねるの創始者であるひろゆきの話で面白いのがある。
ひろゆきは、外食する時何を頼もうかを一切考えない。
メニューを見て一番安い料理を注文するというルールを決めているのだ。
金をメチャクチャ持っているくせに、やけに庶民的である。
しかしそのクセ、他人に奢って貰う時は一番高い料理を頼むと決めているのだから、
やっぱりひろゆきはひろゆきである。
どうでもいい事には一切意志力を消費させない。
ルールを設定して黙ってそれに従う。
昔の記事で長期連載するハメになった「迷ったらキツイ方を選べ」という教えも、
意志力の消耗を抑える為に必要な教えだ。迷う事に時間と意志力を使わない。
それさえ抑えておけば、別にキツイ方を選ぶ必要は無いのだが、
キツイ方が進化論的には正しいのでキツイ方を選ぶ。
買い物をする時、安い方と高い方のどっちを買うか迷った場合、
高い方が金銭的にキツイから正解という事になるが、
迷いに意志力を消費させないのが目的であれば、
ひろゆきの様に一番安い奴を買うというルールでも効果は同じ。
でもどうせだったら進化しましょう、という提案です。
カント的な自由に従って意志力を発揮するには、
誰かが決めたルールではなく、自分で決めたルールに自分で従う事。
ではどんなルールを決めればいいのかという話だが、
それはご自由に、としか言い様が無い。
参考にするのであれば、自分の理想としている人間は、
どのようなルールに従って行動しているのかを調べてみましょう。
他人の成功法則というのは、この参考にする時使うもの。
あくまでも参考程度であって、あくまでも自分で考えなくては使えませんがね。
どんなルールでもいい理由は、結局はその人の「あり方」の問題だからです。
自分はどんな人間でありたいのか?
キルケゴールの言う「その為に生き、かつ死ぬ事を願うような理念」に従った、
実存主義的なルールであればそれでいい。
「どんなに忙しくて疲れていても、家族との時間を大切にするパパでありたい」とか、
「周囲の人間がどんなにだらけていても、規律と品格のある自分でありたい」とか、
そういう自分の理想の『あり方』を体現するルールを決めてみましょう。
そしてそのルールには絶対服従する。
それこそが自由であり、意志力を発揮するのに必要な行為です。
それでは、次回の記事までごきげんよう。