その執着心が意志力を奪う

身の回りを事細かにチェックしていくと、
気付かない内にあなたの意志力を奪うものが溢れている。
実際、チェックしてみたら驚くと思う。というか、驚いた。
貴重な意志力を垂れ流しである。

俺自身が気付いた事を書いていってもいいのだが、
個別・具体的過ぎて他の人に当てはまるものなのか怪しい。
例えば俺は、100円ショップのボールペンなんて使っていたら、
それだけで意志力を浪費する事に気付いたので使い所を選ぶ事にしたのだが、
こんな具体的な事を書いてもあなたの役に立つかどうかは解らんので、
ここでこの話を終わろう。

もう少し多くの人に当てはまるであろう事を見つけた。
色々な人を見て気付いたのだが、意志力を奪う思考がある。
それが、タイトルにも書いた『執着心』だ。

執着心が強い人ほど意志力が少ない。
つまり、中々決断せず、中々行動せず、やっと行動したと思ったらすぐに諦める。
なかなか火が着かないだけでなく、着いたら着いたで火付きが悪い。
燃料である意志力が常に枯渇寸前だ。

何かに執着するには、莫大な意志力を必要とする。
執着というのは、もう頭の中がそれで埋め尽くされ、他の事を考えられなくなる状態をいう。
ず~~と何かを考え続けているという事は、ず~~と意志力を消耗し続けているという事だ。
意志力は思考の燃料であり、意志力がゼロになったら思考する事も出来ない。
最終回の矢吹ジョーみたいになっていたら、頭の中まで真っ白だ。

どんな人でも、思春期真っ盛りな時は執着心の塊だったと思うのですよ。
大好きな異性にメールやらラインやらを送る時。
書いたはいいものの、このメールを送ろうか送らないか散々迷って迷って、
震える指を送信ボタンに伸ばしては引っ込めて、
ようやく決心がついて好きな子にメールを送ろうものなら、もう結果への執着心でいっぱいだ。

ちゃんと読んでくれたかな? 俺の事好きになったかな? 嫌いになったかな?
あの人は俺の事をどう思っているんだろう? なんて返事してくるんだろう?
もう30分もたったのに何で返事をくれないんだ!?
ひょっとして嫌われちゃったのか!? あの言葉使いが駄目だったのか?
それとも言葉が足りなかったのか?
早く! 早く返事を!!

これ以上書いて若き日の自分の傷口に塩を塗るのは辞めておこう。
それが優しさというものだ。
こんな状態になったら、文字通り他の事に手が回りません。
一日中メールの事しか考えられなくなり、それだけでエネルギーが無くなっていく。
これは、結果に執着した故に生じる出来事です。
「別に返事が来ても来なくてもどうでもいい」
と思っている相手だったら、メールの送信ボタンを押した瞬間にもう忘れている。
結果に執着しているから、大学の合格発表までドキドキし続ける受験生みたいな事になる。

もう一度確認しますが、執着とはもうそれ以外考えられなくなる状態の事だ。
なので結果に執着するというのは、もう結果以外考えられなくなっている状態。
上手くいったのか? 失敗したのか? 成果は出てるのか? いつ結果が出るんだ?
知りたい知りたい知りたい! もうそれ以外考えられない! 早く、早く結果をくれ!!
適齢期ギリギリの独身女性並の余裕の無さで迫ったら、そりゃぁ結果の方も逃げていくさ。
「素敵な女性だなぁ」と思った男性ですらドン引きして逃げていくぞ。

これは単に確率の問題だが、あなたが今、
行動力がなく、決断力も無く、忍耐力も無いのだとしたら、
その原因は簡単に示す事が出来ます。
それは、執着心が強すぎるからです。
何か行動を起こしたら、一瞬で結果が出ることを求めすぎている。
そんな事に貴重な意志力を使っているので、
意志力を源泉とする行動力も決断力も忍耐力も無い。

勉強したら、すぐにテストの点数があがる事を求め、
なんかのノウハウを実行したら一瞬で人生が変わる事を求め、
なんかの作品を世に出したら、いきなり口コミで広がり大絶賛の嵐が巻き起こる事を求め、
本を読んだら、一度読んだだけで内容を全てをマスターする事を求め過ぎている。
その様な振る舞いは、シュタイナーに言わせれば「行動に対する愛が無さ過ぎる」。
行動するのは目的の為の手段に過ぎないという訳だ。
目的を達成できない手段に価値は無いわけだから、簡単に諦める事ができる。

意志力を節約して使うべき所でキッチリ使う為には、執着心を手放す必要がある。
何かをやり終えたら、結果なんて忘れてさっさと次の行動を移す。
いちいち結果なんて気にしてたら、
好きな子にメール送った時の若き日の俺みたく、ずっと悶々として過ごす事になりますよ。
なかかな行動できない上に、良い結果が出ないと一瞬で諦める根性の無さ。
しかも諦めているクセに、キッパリ忘れるどころか未練タラタラで執着し続ける悪循環。

ここから話しておきたいのは、ならばどうやったら執着心を手放せるかという話だ。
論理的には凄い簡単な話で、結果に執着しないようにするには結果を求めなければいい。
つまり、行動を何かの結果を得るための手段にするのではなく、
行動その物を目的にする事。
カントの言う仮言命法ではなく、定言命法に従って行動する事。

仮言命法とは、Xが欲しかったらYをせよという命令の事だ。
「良い成績が欲しかったら勉強せよ」とか、
「人に好かれたかったら常に笑顔でいろ」とか。
勉強するのはそれ自体が素晴らしいからではなく、あくまでも目的の為の手段に過ぎない。
そしてその様な条件付きの善さは、普遍的な道徳法則なりえないというのがカントの主張。
今回は道徳ではなく意志力の話なので、深くは突っ込みませんがね。

それに対して定言命法とは、無条件で、目的を一切持たずに何らかの行動を命じる事です。
何かを達成するからとか、役に立つからとかいう条件抜きで、善いものはそれ自体において善い。
カント曰く、

「汝の人格においても、あらゆる他者の人格においても、人間性を単なる手段ではなく、常に同時に目的として扱うように行為せよ」

というのが、カントの有名な(有名か?)一節ですね。
意志力という文脈で考えるのであれば、
何かの行動を起こす場合は、
その行為自体が目的でありゴールであるように行動せよ、という事だ。
カントだと堅苦し過ぎるので、以前にも引用したシュタイナーの言葉を再掲しましょう。

「成功する、しないは、欲望から行動する時にしか意味を持たない。そして欲望から為された一切の行動は、高次の世界にとって価値を持たない。高次の世界にとっては、もっぱら行動に対する愛だけが決定的である。この愛の中にこそ、修行者を行動に駆り立てるすべてが生きていなければならない。そうすれば何度失敗しようとも、繰り返して一度決意した事柄を行動に移そうと、努力し続けるであろう」

行動に対する愛だけが、失敗しようが挑戦し続ける意志力を生む。
要するに、それ自体が楽しい、と思える定言命法的な事をやりましょうって意味だ。
「みんなにチヤホヤされるから楽しい」とか、
「ウッハウッハ儲かるから楽しい」という、報酬が待っている条件付の楽しさではない。
その行為そのものが報酬となるような楽しい事だ。
別に、楽しさではなく、充実感とか達成感とかでもいいです。
とにかく行動そのものを愛する事が出来きて、結果に対する執着心を生まない行為。
そういう実存的なあり方を体現する行為ならなんでもいいです。
以前に紹介した『千年女優』の最後のセリフ、
「だって私、あの人を追いかけている時の私が好きなんだもの」
というのが、結果に執着していない生き方である。

今回の記事は、断捨離をすると人生がよい方向に進む理由の哲学的な説明でもある。
余計な物を一切捨てればよいという意味ではなく、執着を手放す事が大事という意味だ。
ここら辺は詳しく書きたくなったら書きます。

執着心は、あなたの意志力を物凄い勢いで消費させてしまいます。
あなたが今やっている事に結果を求めすぎているなら、
ドンドン行動力はなくなっていくし、簡単に諦める事になるでしょう。
もし「アクセスをいっぱい集める為にブログを書く!」という手段としてブログを書いていたら、
俺はここまで記事を書けていない。
書く行為それ自体が楽しいから細々と続ける事が出来ている。
行為それ自体に報いる行為を見つけて、それをやってみる事が意志力を発揮する事につながります。
やりたくないけど、なんとしても報酬が欲しいから嫌々している行為があるなら一旦チェックしてみてください。
「仮にこれが無報酬だったして、俺はこの行為を続けるか?」
その答えが続けないだったとしたら、それは執着している状態であり、
一度立ち止まって自分のあり方を考え直す必要がある。
早めに考えておかないと、考える意志力がなくなってアリ地獄に引きずり込まれるアリみたいになってしまいますよ。

それでは、次回の記事までごきげんよう。

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