勉強しても勉強しても何も身に付かない。
覚えなくてはいけない事が沢山あるのに全然進まない。
長時間かけて勉強したのに何も頭に残っていない。
そんな時は「ああ、自分はなんて頭が悪いんだろう」と自己嫌悪になったりするが、
自分の頭が悪いと決め付けるのはまだ早い。
ただ単に、学習方法を知らないだけかもしれず、
適切な学習法を実践するだけで色々と覚えられるようになる可能性はまだ残っている。
そもそも、どうやって学習したらいいのかなんて、誰も教えてくれかった人が殆どだろう。
散々「勉強しなさい!」と叫んできた親や教師ですら教えてくれないのだ。
教えてくれたとしても、
「ひたすら教科書を再読しなさい」とか、
「教科書に蛍光ペンで線を引きなさい」とか、
「一つを集中的に取り組んで、解るまで次の事には取り組まないようにしなさい」とか、
効果かが有るのか無いのか解らない学習方法を教える程度。
「さあ勉強しなさい!」と、強大な敵に立ち向かうように命令しておきながら、
その強敵を倒すために与えらる武器が「ひのきの棒」というゲームの王様の様な暴挙。
これでは、始まりの村周辺にいるスライムを倒すのが精一杯ではないか。
碌な武器も与えられず、手に入れる事も無いまま大人になった場合は、
後生大事に取っておいたそのそのショボイ武器で立ち向かわなくてはいけない。
実際、大人になってから勉強しなくてはいけなくなった時も、
かつて学校で教えられた「ひたすら再読」とか「蛍光ペンで線を引く」等々、
いつも同じ学習方法のみ採用している人が結構な数いると思う。
その学習方法に効果があるなら何も問題は無い。
しかし、その学習方法に実は何の効果も無いとしたら?
やってもやっても何も学べない間違った学習方法だったとしたら?
そして実際、それらの学習方法は間違っている。
だから何の意味も無いのかというと、役立つ局面もあるにはある。
例えば、教科書や本にポストイットがビッシリ張られていたり、
本の中に書き込みが沢山描かれている人の姿を見ると、
「うわぁ、この人メチャクチャ勉強熱心な人だなぁ」
と、凄い勉強家の様に見せかける事が出来る。
「私ちゃんと勉強してるんですよ」とアピールして、
勉強しろと命令してくる上司や親を黙らせたい時に有効な手法だ。
「何も書く事がなくても、話を聞くときはメモを出して熱心に聴いているフリをしろ」
という就活生のセコイテクニックと似たような物ですね。
しかし、そんなハリボテの自分を作るための学習方法が知りたい訳でなく、
自分の学びたい事を学ぶ為の学習方法が知りたい人はどうすればいいのか。
その為にとても参考になる書籍がこちら。
ピーター・ブラウン共著、NTT出版から出版されている
「使える脳の鍛え方」です。
今回はこの本をベースに、あれやこれやと書いていきます。
・間違いだらけの学習方法
もっとも効果的な学習方法は直感に反する。
これが本著冒頭に掲げられた主張だ。
誰しも何かを学習する時は、
「こうしたらきっと覚えられるんだろうな」という学習法が直感的に思いつくだろうが、
それらの方法は最も効果的な学習方法とはかけ離れている。
多くの人が金科玉条としてかかげ、ほぼ神話となっている学習法に対し、
本著は研究結果からくる証拠をベースに反論している。
実際に効果的な学習方法とはどいうものなのか?
冒頭に掲げられている箇条書きをいくつか引用していきましょう。
多くの人の直感に反する言葉が並びます。
学習はつらいほうが深く定着しやすい。
あらゆる分野の技術や知識を学ぶ手段として好んで用いられる
「テキストの再読」と「集中練習」は、極めて非効率だ。
学習の間隔をあけて、少し忘れかけたころか、他の科目をいくつか挟んだ後にする。
自分の好みに合うスタイルの法がよく学べると思われがちだが、
実証研究による裏づけはない。
人は、知っている、出来るという錯覚に陥りやすい。
これらの箇条書きに対して、それぞれの章で詳しく解説している。
「テキストの再読は非効率的」というのは個人的には受け入れがたい事であったが、
実際に本著を読み進めて自身の経験と照らし合わせてみたら、凄い納得した。
「ああ、だからか!!」ってな具合で。
自身が良く学べた事、勉強した割には全然覚えてない事の違い、その理由が、
本書の中で悉く説明されている。
自分の頭が悪かったり、逆にたまたま覚えられたわけではなく、
正しい学習方法を選べばちゃんと覚えられる訳だ。
それら効果的な学習方法のいくつかを、この記事で書いていきます。
・精緻化 ―新しい知識に新しい意味づけや解釈を見つけるプロセス
物凄く馴染みの無い言葉ですが、
精緻化とは、細かい所すみずみにまで注意が行き届いている様をいいます。
覚えたばかりの知識と言うのは、トムとジェリーに出てくるチーズみたいに穴だらけであり、
細かい所まで突っ込まれると答えられない曖昧な事ばかり。
この穴を埋める為には、既に持っている知識と関連付けたり等色々ありますが、
一番手っ取り早く精緻化する方法は、自分の言葉で誰かに説明する事です。
例えば、こうやって自分が勉強した事をブログに書いてみるとか。
実は筆者は、今勉強したい事が山ほど出来ている。
今までの哲学書を読む時のように、「いつか理解できたらいいなぁ」と、
のんびり構えていられれず、効果的な学習方法が真剣に必要になった。
なので今回の記事は、自分自身に必要な学習方法をまとめておく為という、
極めて個人的な理由から書いています。
勿論、読者のあなたにも役立つように記事を書いています。
読者の利益が最大になるように解りやすくて役立つ記事を書くことが、
結果として自分の学習を最も効果的にして自身の利益を最大化する事に繋がっているので、
そこら辺は一切妥協しません。
知識が自分の頭の中だけに有る時は、
トムとジェリーに出てくるチーズみたいに穴だらけでも自覚できないのですが、
いざ言葉にして他人に説明すると、自分が細かい所まで理解していない事に気付いて愕然とする。
もしリアルタイムで対面していたら、「それってどういう意味なの?」と質問されるから、
益々学習効果は高いだろう。
学んだ事は、他人に説明する。それが精緻化の最もお手軽な方法だ。
学生の様に、勉強した内容を聞いてくれる人が身近にいるのは実に幸運な事です。
居ないなら居ないで、現代は各種メディアを簡単に作れる恵まれた時代だ。
ブログでもSNSでも掲示板でも、何でもいいからアウトプットできる環境を用意しておくこと。
それが、あなたの学習効果を飛躍的に伸ばします。
・短期的な再読の罠
学生達に好まれている復習の方法は、ひたすらテキストを再読する事だが、
このやり方の効果はどれ程のものなのか。
結論から言うと、時間を空けた再読は効果的であるが、
短期間での再読は時間がかかる割りにたいした効果は無い。
ただ同じ事を繰り返すだけの学習に意味は無いのだ。
その事を示す実験結果がありますが、
これは自身の経験を振り返ってみれば「確かに」と納得できる事が多いと思います。
テスト前に必死に再読しまくって詰め込んだ一夜漬けの経験とか。
再読の効果がどれ程のものかを示した実験は以下の通り。
学生を2つのグループに分けます。
教材を1回だけ読むグループと、教材を続けて2回読むグループ。
読後すぐにテストを行うと、
1回しか読まないグループよりも2回読んだグループの方が成績が良かった。
なんだ、再読した方が成績いいじゃんか、と思われるかもしれませんが、この話には続きがある。
短期の再読の効果が薄れた頃に再度テストをすると、どちらのグループも同程度の成績になっていた。
さらにもう一つのグループは、教材を読んでから再読するまで数日間の期間をあけた。
このグループは、1回しか読まないグループよりも成績が良かったという実験結果が出ました。
どの大学、どのグループ、どの条件の試験でも、短期の再読が有効な学習という確証は得られませんでした。
短期的な再読に学習効果が殆どない。
筆者はこの罠にドップリはまり続けてきました。
短期間で同じ事をひたすら繰り返す事を、
この本の中では「集中練習」と読んでいますが、
この集中練習にはあまり効果が無い。
筆者が何かを本気で勉強しようとする時に良くやる戦略が、この集中練習だったのだ。
「この本を全部読むまで、他の本は一切読まないぞ!」とか、
「この章を全部理解出来る様になるまで、次の章には行かないぞ!」とか。
そうやって細かく分けていって、理解出来る様になるまで読み続ける。
しかしここに大きな罠がある。
すらすら読める様になる事を、理解したのだと錯覚する事だ。
内容を覚えることと、その文章の背後にある概念を理解する事は全く別物だ。
しかもこの集中練習で学んだ事は、理解するどころか覚える事すらおぼつかない。
これは筆者が長年運動部でやってきた経験から採用した学習方法なのだろう。
運動部に所属した経験がある人なら体験した事が多いでしょうが、
何かの技術を学ぶ時、ひたすら同じ事を繰り返す集中練習が採用される。
ひたすらバットやラケットの素振りをし続けたり、ずっと同じ基礎練をやらされたり。
しかしこれは学習効果という点においては、あまりよろしくない学習方法だ。
集中練習ではなく、本著で書かれている「交互練習」や「多様練習」を取り入れた時の方が効果があった。
以前の記事で書いたが、
筆者はかつて読めなかった本が、ある日突然読めるようになった経験がいくつかある。
キルケゴールの「死に至る病」が読める様になったり、
フロムの「自由からの逃走」が読めるようになったり、
ブーバーの「我と汝」が読める様になったり。
何で読める様になったのかというと、他の本を読んでいたからです。
ベイトソンの本を読んで生態学について知ったら、キルケゴールが読める様になったし、
『デカルトからベイトソンへ』を軸に近代思想について学んでいたら、
フロムの本が読める様になったし、
フロムが読める様になったら、ブーバーが何を言っているのか解るようになった。
もしも、「キルケゴールが読める様になるまで他の本は一切読まないぞ」と、
決意して読み続けていたら、多分今現在も読めていないままであった事と思います。
脇目も振らず一直線に進む事が一番の近道に見えるが、
一見関係ないと思えるわき道が実は一番の最短距離だったりもする。
その道を潰すという点でも、集中学習は色々と落とし穴ですね。
・生成学習
この生成学習とは何かというと、
解答を教えて貰う前に、自力で解答を生み出す学習方法だ。
例えば本を読む時。
「何故人はギャンブルにハマってしまうのか?」
みたいな本のタイトルや章の小見出しが書かれていたとしたら、
実際にその本のページをめくって著者の見解を見る前に、
自分なりに考えて自力で質問の答えを生み出す作業をする事です。
その生み出した答えが間違いだったり見当違いだったりしても問題ありません。
学習者が間違えたとしても、訂正されれば間違えを覚えることは無い。
それどころか、新しい知識を身に付けるときは間違える事が不可欠でもあるのだ。
ここら辺は、ゲーマーなら誰しもが経験して理解している所ですね。
初めてのステージやダンジョンに挑む時、
「こうやったらクリア出来るんじゃないか?」と自分なりに答えを生み出し挑戦する。
大抵それは間違いなんですけどね。間違いだから中々クリア出来ない。
クリアできないけど、「こうしたらいいのでは? いや、こうか?」と試行錯誤を続け、
ついに正解を見つけたら、以後はその正解を間違える事なく選んでクリアしていく。
本なり講義なりで勉強する前に、自力で考えて解答を考える。
そんな面倒な事に時間をかけるよりも、さっさと答えを教えて貰った方がいい、
と思われる方もいると思います。
それで学習効果があるというならその方が良いに決まっています。
ですが、ただ聴くだけ、ただ読むだけで何かを学べた経験がどれくらいありますか?
ただ聞くだけでいいんだったら、
結婚式のスピーチや飲み会の乾杯の挨拶を忘れる事は無いですよ。
この生成学習は、学習前にやる事を進められているが、
個人的にはこれは復習の時にやるのも役立つと思っています。
本をたった一読しただけで覚えられる事はホントに少ない。
なので復習する時は、本文に入る前に目次をみて、「確かこういう事が書かれてあったはず」と、
自分なりに解答を生み出してから、本書を読んで答え合わせをする。
この記事では深く突っ込まないが、
この学習方法は、フロムの言う所の「持つ様式の学習」と「在る様式の学習」の違いでもある。
先生や著者の言った言葉を全部ノートに書き写して知識を「所有する」事を目指す人間と、
事前に思考をめぐらして自分なりの解答を用意し、それを先生や著者との対話によって
知識で「あろうとする」人間の違い。
精緻化と生成学習の実践の場として書き記した今回の記事。
今回の記事は筆者が今一番必要としている学習方法を書いておきました。
今回紹介した「使える脳の鍛え方」には、他にも色々な学習方法がかかれています。
それらが必要になったらまた自分自身の為に書く予定です。
それでは、次回の記事までごきげんよう。