「伝わる」文章を書こう

役二世紀前から、話すとは「都市に向けて世界に向けて」話す事だと信じられてきた。これはとりもなおさず、全ての者に向かって話し、誰に対しても話さないということである。私はこのような話し方が嫌いであり、誰に向かって話しかけているのか判然としない時には心の痛みを感じるのである。

オルテガ 『大衆の反逆』

世間的には名曲として知られているが、筆者的には全くそうは思わない曲がある。
尾崎豊の「15の夜」や「卒業」といった曲だ。
「マジで尾崎の曲最高だぜ!」とか言っている人の気持ちが理解できない。
いや、正確に言うと理解したくない。
頭では解っていても、生理的に受け入れられないのだ。

最早神格化され伝説と化したアーティストなので、この手の話をすると「尾崎豊の悪口を言うな!」みたいな信者の宗教論争に巻きまれそうだが、別に俺は悪口は言っていませんよ。
「この曲はクソだ!」みたいな話ではなく、
あくまでも俺には理解出来ないという話です。
そもそも信者も俺も同じ曲を聴いているはずだ。
同じ曲なのに感想が違うという事は、曲そのものではなく聴き手に違いがある。
信者やファンは曲の魅力や素晴らしさ引き出す能力があるが、
俺にはその能力がないというだけの話。

ファンや信者がそれらの曲の良さが解るのは彼らが「そっち側の人間」であり、
俺が良さを理解できないのは「こっち側の人間」であるからだ。

「そっち側の人間」というのはどういう人間かと言うと、
盗んだバイクで走り出したり、
夜中に校舎の窓ガラスを割ったりする側の人間。

「こっち側の人間」というのはどういう人間かというと、
自分の大切なバイクを盗まれたり、
教室の窓が割られて寒い風が入ってくる教室で震えながら過ごす側の人間です。

映画や漫画を見る時は、主人公と自己を同一化して感情移入しているから、
ハラハラしたりドキドキしたりして楽しめる訳だ。
それと同様に、歌も歌詞の主人公と同一化して感情移入しているから楽しめる。
尾崎の「15の夜」や「卒業」が大好きで歌ったり聴いたりする人の脳内では、
盗んだバイクで走り出したり校舎の窓ガラスを割っている映像が浮かんでいるのだろう。

しかし俺の脳内にはそんな映像は浮かばない。
尾崎の歌詞を聴いて俺の頭に思い浮かぶのは、
高校の時に自分の自転車を盗まれた記憶であり、
誰かが好き放題暴れた場所を全く関係の無い俺が黙々と掃除する姿である。
全然楽しくない!

俺は高校では自転車通学をしていたのだが、
ある日その自転車が盗まれてしまった。
盗難届けを出した自転車が返ってくるまで、
不便なバス通学を続けることになる。
その自転車はかなり遠くの自転車置き場に不法駐車扱いで徴収されていた。
親の車に乗って駐輪場まで連れてって貰い、
何故か被害者の俺が不法駐車の罰金を払い、
そこから2時間以上漕いではるばる自宅まで帰ってきた。

他人の物を盗むというのがどれだけ迷惑をかける事になるのか解らんのか?
盗まれた側の人間の気持ちを考えた事は無いのか?
よく恥ずかしげもなく盗んだバイクで走り出すなんて人前で口ずさめる物だ。
何故悲劇のヒーローを気取っているのだ。
一番可愛そうなのは、無関係なのにバイクを盗まれた人じゃないか。

と、

こんな具合でどうしてもバイクを盗まれた側の人間に感情移入してしまうので、
とてもじゃないが歌詞に共感なんて出来ない。
その人の価値観によって共感出来るか出来ないかは変わってくる。

発信したメッセージが届くかどうかはメッセージその物の内容よりも、
受け手の側に左右される事の方が多い、かもしれない。
少なくとも大多数に共感された尾崎豊のメッセージは俺には届いていない。
いや、届いてはいるが受け入れられていない。

大事なのは「誰に向けて」メッセージを発信するのか。
その「誰の」の中に俺は含まれていないから受け入れられていない訳だ。
もし尾崎豊が「俺に向けて」メッセージを発信していたら歌詞はこう改変される。

♪ぬ~すまれたバイクを取りにいく~
♪何故か俺が、罰金を払い~

これだったら「わかるわ~」とか言いながら、
「尾崎は俺の青春そのものだ!」と周囲に布教する側に立っていた事であろう。
その代わり、今現在のファンは逆にファンじゃなくなっている事請け合いだ。
「あっち側の人間」と「こっち側の人間」が逆転する。
一体誰に向かって伝えたいのかで、伝える内容は変化する。

これは文章についても同じだと考えられる。
まず、「誰に向けて」文章を書くのか決めるのが先。
文章の内容、文体等はそれに従う。
いつだって目的が先、手段はそれに準ずるのです。

文章を書くときに手段を目的化すると、
つまり、「全ての人から絶賛される文章を書いてやろう」とか、
「素晴らしい文章を書いてやろう」とかを目的にすると、
文章を書くこと自体が不可能になってしまいます。

それは当然の事なのです。
何故なら、この世の物ならざる文章を生み出そうとしているから。
そんな文章はこの世に存在しません。当然書くこともできません。

一体「誰にとって」素晴らしい文章なのか?

この「誰に」が無くして素晴らしい文書などありえない。
書き手と読み手の関係性の中にしか「素晴らしさ」は存在しません。
「素晴らしさ」は文章その物に内在している訳ではないのです。
そうでなかったら尾崎豊の曲を聴いた人は全員同じように素晴らしさを感じる事になる。

ならば万人に向けて書いたとしたら万人に受け入れられるかというと、
そんな事にはならないといのが冒頭に引用したオルテガの主張。
全ての人に向けて話すというのは、
いうなれば誰に向かっても話さないという事と同義。
万人に向けて話かけると、万人にとってどうでもいい話になる。
一人でも多くの人間をかき集めようと必死になって、
メガホンで叫び続ける選挙カーと同じくらいどうでもいい話だ。

全ての人に向けた文章を書くことは出来るのかもしれんが、
出来たとしてもそれは恐ろしくツマラナイ文章になる事請け合いだ。
その具体例を見たいのであれば、メールボックスを開いて誰彼構わず秋の木の葉の様にばら撒かれるスパムメールを見ればいくらでも出てきます。
何故スパムメールがつまらないのかというと、
「俺に」「僕に」「私に」向けて話しかけていないから。
この世の物ならざる「カモ」「お客さん」というイデアに向けて話している。

文章を書く時に一番に考えるべきは「誰に向けて」書くのかという、この「誰に」の部分。
これが無いと全ての文章の技術は上滑りする。
逆に、これさえ具体的に決めておけば、文章は格段に書きやすくなります。

「素晴らしい文章とはこういう文章だ!」みたいなテンプレートに当てはめたり、
「素晴らしい言葉」をコピペでツギハギした不自然な文章にならないので、
実に「自分らしい」文章が書けます。
しかも書いてて楽しいです。

「誰に」をしっかり決めておかないと、その「誰か」に伝えるべき事が伝えられない。
自分の声が届かなくなってしまうのです。

人間は、届く範囲の人間しか助ける事が出来ません。
自分の手を差し伸べられる範囲、自分の声を届けられる範囲が、
その人が誰かを助けれる範囲です。
本来助けれたはずの人を見殺しにしない為にも、
しっかり「伝わる」文章を書く必要がある訳です。

ちなみにこの記事は誰に向けて書いているのかというとだ。
こんな文書を最後まで読み続けてくれたあなたに向けて書いています。

それでは、次回の記事までごきげんよう。

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