リンゴは何故赤く「見える」のか?
ここで「見える」をカッコで括ったのは何故かというと、
「何故リンゴは赤いのか?」とか、
「何故リンゴは赤色でなければならなかったのか?」という
哲学的な話をしたいわけではなく、もっと単純に科学的な話をしたいからです。
科学と言っても、中学生の理科レベルの話ですけどね。
赤い理由ではなく、赤く見える理由について書いていきたい。
そもそも「見える」とはどういう現象なのかから書いていきましょう。
物を見るには何が必要か?
小学生にこの質問をするとおそらく「目」と答えるでしょうが、目だけで不十分だ。
たとえ目があっても、真っ暗闇だったとしたら何も見えない。
そう、「光」が無いと物は見えないのです。
物体に光が当たり反射して、その反射した光が目に入ってくるから物が見える。
そして何故色が見えるのかというと、それぞれの物体で反射する光が違うから。
例えば青以外の光を吸収して、青い光だけを反射する物体は青くみえる。
全部の光を吸収して何も反射しないと黒になる。
リンゴには赤い色素が含まれている訳だが、
この赤い色素というのはそれ自体が赤い訳ではなく、
赤以外の光は吸収して、赤い光のみを反射しているから、
リンゴは赤く「見える」という訳だ。
これはちょっと考えてみると、実に面白い事だと思うのですよ。
人間の直感的な理解としては、物それ自体が色を持っていると考えたくなる。
緑の葉っぱは緑色の色素を「持っている」から緑色に見えるし、
赤いリンゴは赤色の色素を「持っている」から赤色に見える、と。
しかし実際には逆なのです。
赤色を「持っている」から赤に見えるのではなく、
赤色を自分の所に一切留めずガンガン外に放出しているから赤く見える。
「持っている」物ではなく、「手放している」物によって見える色が決まる。
これで今回の記事で書いておきたい事は書ききってしまった。
本当はもったいぶって最後の最後で書くよう持っていきたかったのだが、
今回はこれが書きたい為だけに記事を書いたのでこれでよしです。
大事な事なのでもう一度書きますよ。
「持っている」物ではなく、「手放している」物によって見える色が決まる。
これを読んだだけで「ユリイカ!(解ったぞ!)」と叫びながら、
全裸で街中走り回りたい衝動に駆られた人は、ここから先読む必要はないですね。
この考え方はかなり面白く、例えば人間関係とかでも考えるヒントになる。
あなたが他人からどの様に「見られて」いるか。
逆に、他人をどのように「見ている」か。
それは、その人個人が持っている物で決まる訳ではありません。
その人が持っている物ではなく、手放している物で決まります。
何千億という預金残高見せびらかしても、お金持ちとは見られません。
お金持ちというのは沢山金を持っている人の事ではなく、
何の躊躇いもなく大金を手放せる人間の事です。
大震災が起きた時に億単位の寄付金をポンと出せる人間です。
逆に、どんなに稼いでいたとしても、
1000円2000円のランチを一緒に食べにいった時、
「ここは割り勘で」とか言ってしまう人間を金持ちだと認識するのは難しい。
ちょっとありがちなシチュエーションで考えてみましょう。
凄いボロ家で一人暮らしをしている老人がいたとする。
食べるのは、貧しい食事。出かけるわけでもなく、ずっと家にいる。
この老人が孤独死をしたので、業者の人が家を撤去していたら、
なんと床下から、一億円の現金が!
老後の不安にそなえて、溜めていた貯金。
頼れる物は現金のみになった身の上としては最後の砦。
砦を失う恐怖に怯えてず~~~~と使わずに隠していた。
さて、質問だがこの老人は果たして「金持ち」だったのだろうか?
知性についてもそうだ。
何万冊という蔵書を「持っている」とか、
凄い大学卒の肩書きを「持っている」とかでは決まりません。
仮にあなたが凄い知識を持っていたとしても、
それを誰かの役に立つ形で世に向かって与えないのであれば、
それは世間的には存在しないも一緒。
知的な人間とはみなされません。
あなたが持っている物ではなく、与えている物で決まります。
前回の速読の記事で、
読んだ冊数を自慢しているだけの人間は軽蔑の対象でしかないと書いたが、
それはこういう理由でもある。
その手の自慢をしている人は一年で何百冊も読んだという体験を「持っている」だけなのです。
その人が世に与えている言葉や文章を読んでみても、
「うわぁ、流石沢山本を読んでいる人間は言う事が違うなぁ」と尊敬できたためしが無い。
そういう人間に直に出会えていたら、「俺もこの人みたいになりたい!」と決意し、
マスターするまで速読を諦める事はなかったかもしれないが、多分これからも出会わないと思う。
俺が尊敬する読書家の中に「一分間で一冊読んでます!」と自慢する人間は含まれていないし。
俺はこんなにも素晴らしい人間なのに、何故世間は評価してくれないんだ!
と嘆いていたとしたら、その理由は明白です。
素晴らしさを世に与えていないから。
あなたがどんな素晴らしいアイディアを持っているとか、
素晴らしい肩書きや経歴を持っているとか、
素晴らしい能力を持っているとかは全然関係のない事。
素晴らしい物を与えているなら素晴らしい人間と見られるし、
何も与えていないなら、何も出来ない人間と見られる。
あくまでも、持っている物ではなく、与えている物でどのように見られるかが決まる。
キリストの時代から言われ続けている「まず与えよ」の教えの素晴らしさが解った気がする。
それでは、次回の記事までごきげんよう。