読書という体験

とある人からやたらキルケゴールの「死に至る病」を薦められたので、
昔に買ってずっと埃を被っていた蔵書を引っ張り出してきた。

その時は全然読めなかったのだが、
今になってようやく少しは読める様になったので楽しい。
何故「少しは」という控えめな表現なのかというと、
本当に読めて理解しているなら他人に解り易く説明できるからだ。

「知識とは何か?」と聴かれたら「他人に説明できる事」と答えるようにしている。
他人に説明できないうちは、まだ知識と呼べるレベルにまで到っていない。
うろ覚えや表面上の理解しかしていない事を質問されると、
自分が全然理解出来ていない事を自覚せざるを得ない。

死に至る病はとても説明できるレベルで理解できていないので、
これについてのブログ記事は書かないし書けない。
今回の記事は、本の内容ではなく読書そのものについて書いていきます。

そもそも筆者が初めて「死に至る病」を手に取ったのは、高校一年生の時だ。
当時夢中になっていたアニメ「エヴァンゲリオン」の16話のタイトルが、
「死に至る病、そして」だったので、名前だけは知っていた。
そして倫理の教科書にキルケゴールが書かれてあり、
これがタイトルの元ネタだったのか、という事で興味を持った。
それで早速高校の図書室に行って手にとってみたのだ。

まず本のタイトルがイカしてる。
何か哲学的に意味深な事をいって背伸びをしてみたいお年頃の厨二病心をくすぐる。
「何の本読んでるの? うわー凄そうな本読んでいるねー」という、
クラスメートからの羨望で虚栄心も満たされそうだと考えた。
そんな浅はかな理由も後押しして、身の程を弁えず読んでみる事にしたのだ。

早速本を開いた。

人間とは精神である。精神とは何であるか? 精神とは自己である。
自己とは何であるか? 自己とは自己自身に関係するところの関係である、
すなわち関係という事には関係が自己自身に関係するものなることが含まれている、
それで自己は単なる関係ではなしに、関係が自己自身に関係するというそのことである。

本を閉じた。

昨日グローブのはめ方を覚えたばかりの新人ボクサーが、
いきなりチャンピオンに殴りかかりカウンターでノックアウトされた気分である。
とても高校一年生の読解力で読める代物ではないと悟るまでにかかった時間は40秒程度。
どんな本なんだろうとルンルン気分で読み始めた俺を出迎えてくれたのが上の文章。
出鼻をくじくどころか、顔面が陥没する位のカウンターであった。

日本語で書かれているなら読めると思ったら大間違いである。
死に至る病は、アプリオリがどーたらとか、世界内存在がどーたらみたいに、
日常語とは無縁の専門用語で埋め尽くされている訳ではない。
上の引用を見ても解る通り、「一応」日常的に使う言葉で書かれている。
しかし解らない。関係するところの関係ってなんやねん!
そんな訳で、高校生の時は一瞬で読む事を諦めた。
もっと読書力がついてからでないと無理。

そして数年前の無職時代の時に、
ブックオフの100円コーナーで死に至る病を見つけたのでその時遂に買った。
収入がなくても本は買う。100円コーナーのしか買えなかったが。
結構な本を読んできたし、そろそろ読めるくらい成長しただろうと思ってたのだ。
ろくな物を食わずに栄養失調気味で、
とても立ち読みできる体力は無かったので即買いである。
さあ、俺の今まで鍛えてきた読書力を発揮する時が来た! 
と思いながら家で寝っころがって読み始めた。

・・・・・・・・・・・・難しすぎる!

俺の読書力は高校一年の時から全然成長していなかったというのか!?
それなりに読んできた自負があっただっけに、高校の時とは落ち込み度が違う。
この時もやはり読む事を諦めてしまった。

そして今年になり、死に至る病が面白いと薦められたので、
読める事は一切期待せずにパラパラと読み進める事にしたのだ。
この本に面白い、と薦められる要素があったけ? と思いながら。

・・・・・・・・・・・・・こりゃぁ、面白いな。

やっと読める様になった。エウレカ!
ああ、ようやくここまで成長できたのかぁ、と。
何で読める様になったのか考えてみたら、いつくかの要素が思いついた。

先ず、哲学とは微妙に畑違いのベイトソンの本を読んで、生態学の考え方を知った事である。
数年前は生態学ってなんやねん、って状態であった。
生態学については以前の記事でも書いた通り、「エコロジー」の訳語です。
諺でいう所の「風がふくと桶屋が儲かる」的な現象は、
近代から生まれた要素還元主義的な考え方では説明が出来ない。
世の中は複雑な要素が複雑に絡まりあって出来ている。

「精神」とか「自己」とかは、周囲の環境から一切影響を受けず、独立普遍に存在している!
という考え方をしていた昔の俺では、死に至る病を全然理解できないのは当然だ。
OSに対応していないソフトをインストールしても読み込めないのと同じだ。
昔の俺の脳に死に至る病をインストールしても理解できるはずも無し。
以前の速読の記事に絡めて言うと、読める地力が無い脳みそに、
どんだけ速読で本を脳にインストールしたとしても意味は無いですよ。

上にも引用した死に至る病でやたらと繰り返される「関係」という言葉は、
ひょっとしたら生態学的な意味での「関係」ではないか?
という仮説を立ててみたところ、あの意味不明な文章が、
しっかりと意味のある文章として読む事ができた。
おお、エウレカ!

長かった・・・・・・・。
冒頭のたった数行の文章を読める様になるまで、本当に長かった。
そして読める様になると、本当に面白い事が書かれている本だった。

何故面白いのかというと、自分の人生と密接に関わる内容だから。
そもそも「死に至る病」とは何かというと、「絶望」の事である。
これは高校生の俺でも読めるくらい、そのものズバリと書かれていた。
高校生の時の俺に読んだ内容を説明させたら、
「絶望ってのはね、死に至る病なんだよ」というたった一言の説明で終わっただろう。
しかし今ならそれよりも少し長く書ける。というか書きたい。

この本はひたすら「絶望」ついて書き綴っている。
だからこそ誰の人生にも関わっているし、誰が読んでも面白い、はずだ。
何故なら、絶望していない人間はただの一人としていないから。

「何言ってんだ、俺は毎日希望に満ち溢れてハッピーさHAHAHA」
という人が居たとしても、キルケゴールがそれを聴いたとしたら、
それこそが絶望している状態に他ならない! とまで言い切るぞ。
全ての人間は絶望していると論証していく語り口には思わず吹いてしまった。
そこまで絶望させたいか!

例えば、だ。
周囲から見たら無駄としか思えない物にお金を使う人間がいる。
金に糸目をつけないマニアとかオタクとかがそうですね。
オタクの中でも特に潤沢な金を持っているのはアイドルオタクだ。
彼らは同じCDを何百枚も買う事を躊躇わない。
しかも大事なのは、「喜んで」金を出す点だ。

で、

これがいつまで「喜んで」支払い続けるのかというと、
その趣味を「卒業」するまでだ。
その趣味にまったく興味がなくなったとしたら、
「俺は今までなんて無駄な金を使ってきていたんだ!」
と絶望する事になる可能性が高い。
場合によっては、俺は騙されてたんだ! 裏切られたんだ!
と声高に叫びだす事になるかもしれん。

毎日ダラダラ生きて、それが自分の幸せだと思っていたが、
何かを本気でやり始めた途端にスラムダンクのミッチーの様に
「俺は今までなんという無駄な時間を過ごしてきたんだ・・・・」
と涙するハメになるかもしれん。

人生は有限だが、これが無限に、永遠に、とても長い時間スパンで考えた場合、
誰もが絶望という時限爆弾を抱えて生きている事になる。

「完全な」健康体などは存在しない。
近視や適正値以外の体脂肪等、細々した物も病気とみなした場合、
医者に言わせれば全ての人間は病気であると断言するだろう。
それと同様に、キルケゴールに言わせれば全ての人間は絶望しているのである。
絶望と無縁の人間など存在しない。
だから誰が読んでも、他人事ではなく自分の事として読める面白さがある。

しかもこの絶望というのはとても厄介な代物である。
絶望している自分自身から決して逃げる事はできない。
インクが切れたから捨てて新しいボールペンを使うが如く、
もしくは、古くなったから新車に乗り換えるが如く、
自分の人生に切望したからと言って、新しい人生に乗り換える事などできない。
その絶望している自分自身でありながら、その自分自身で生きていかねばならない。
肉体の病は肉体を蝕み尽くしたら終わるが、
絶望は死ぬ事すらできないその絶望故に益々絶望せねばならない。

藤子・F・不二雄の「ドラえもん」や「SF短編集」でよくテーマになる、
「パラレルワールド」がある。
人生は無数の可能性の集合体だ。

「もしもあの時あの子に告白していたら」
「もしもあの時周囲の反対を押し切って歌手になる夢を追い続けていたら」

その場合、全く別の人生を歩む事になるだろう。
誰もが一度は「あの時ああしていれば」みたいな事を考え、
「そっちの世界」に行きたいと思うだろう。
SF短編集の「パラレル同窓会」はそういう話だ。

しかし、現実にはそんな事はできない。
どんなに自分に絶望していたとしても、
「そっちの世界」に行く事は出来ずに絶望し続けなければならない。
何故俺が? という不毛な問いを続けながら、
夢破れ失敗した自分とこれからも密接不可分に生きていかねばならない。

と、書く予定が無かった本の内容について書いてしまった。
書いている内に思わず力が入って書かずには居られなかったのだ。
読んだ上で色々書いたのだが忘れないでおいて欲しい事は、
ここで書いた事はあくまでも「今現在の」俺の解釈であるという事。

数年後、数十年後。
さらに読書力が身に付き、今までした事の無かった体験もした上で読み直したら、
それは全く別の解釈になっている事は間違いない。
全く同じだとしたら、俺は全く成長していなかったという事であり軽く「絶望」である。
数年後には「昔の俺は随分ショボイ読解力しかなかったんだな」と笑っていて欲しい物だ。

本を読むときに大事なのは、買って、それを持ち続ける事だと考えている。
印刷された文字は勿論未来永劫変わらない。
しかし、それを読む読み手自身は、常に変化しているのだから、
その時の読み手の状態によって、常に本の内容は変わるのだ。
読み直すたびに新しい発見があり、何年たっても読める本が「古典」の条件だ。

古典は推理小説とは違う。
推理小説は一度読んで犯人が解ったらもうそれで終わりだが、
古典は読み直すたび犯人が変わるのだ。
遂に犯人を見つけたぞ! と思っていても数年後には別の犯人が現れる。
読み終わったからと言ってさっさと古本屋に売り払っていたら、
古典の味わい深さを賞味していないって事になる。

だから本は買うべし。そして手元においておくべし。
「今は」読めない身の丈に合わない本でも構わない。
それが当然だと思い続けていたのだが、
周囲の人間と価値観が違いすぎて驚いた経験がいくつかある。

まずは大学時代の時だ。
みんなが飲み会だ旅行だカラオケだなんかに金を使っている中、
俺は小遣いの8割を本代に費やしていた。
何かの誘いを受けても、本を買う金が無くなると言って断り続けていたら、
ある日言われた事がある。

「馬鹿だなぁ。大学の図書館に申請すれば、取り寄せてくれるのを知らんのか」

そうすれば無料でいくらでも借り放題という訳だ。
これを聴いた時、あまりの価値観の違いに唖然とした事を覚えている。
本の内容さえ解れば後は用済みって訳ですか。
再読したり精読したくなった時はどうするんだ、と思ったが多分その発想は無いのだろう。
彼にとって本を読むという事は、最小限の金と最小限の労力で必要な事だけを知ろうとする、
コストパフォーマンスの問題でしか無い訳だ。
数年、場合によっては一生かけて本と「付き合っていく」俺とでは全然考え方が違う。
大学の図書館で本を借りた事は、一回しかない。
既に絶版になっており、原チャリでいける古本屋は全て探してもなお見つからなかった本だけだ。
本は借りるものではなく買う物である。

他にも違いに驚いた事がある。高校生の時だ。
流石に高校生のお小遣いでは、買える本が限られる。
しかし金は無くても体力は有り余っているお年頃だ。
学校帰りに毎日本屋に通い、
600ページ以上の本を立ち読みで読破した事があった。

それがあまりにも面白い本だったので、小遣いが溜まった頃にその本を買ったのだ。
それを友達に話したら驚かれた。
「何で読み終わった本を買うんだよ!?」と。
驚かれた事に驚いた。
しかも「何故?」と理由を問われても、当たり前の事だろとしか答えようが無い。
毎週ジャンプで立ち読みしていたとしても、
お気に入りのマンガは単行本を買うだろ?

俺は本の中身、つまりコンテンツを得る為だけに金を払うという考えではないのだ。
以前の記事でも書いたように、本屋や著者を応援するという意味もあるのだが、
あくまでも読書という「体験」を重視している。
内容だけ知りたいのであれば、本を買う必要は無いし、非効率的な手段だ。
ネット全盛のこの時代、内容を知りたいのであればウィキを見れば充分ではないか。
上手くまとめた「3分で解るキルケゴール!」みたいなサイトでもいい。
それでコンテンツは事足りる。

けど、自分で読める様にまで成長できた! という経験は、ネットでは味わえない。
昔は全然読めなかったのに今は読める様になったとか、
かつてはこういう解釈だったけど、今ではこういう風に読み取れるとか。
そういう自分で体験しないと解らない世界があるのだ。
本はコンテンツを丸暗記するものではなく、
自分でそのコンテンツを生み出せる頭になる為のトレーニング機器でもある。
ボディビルダーがダンベルや鉄アレイを使うみたいなもんだ。
山の頂上に行くだけが目的だったら、車やロープウェイでも行ける。
しかしそれでもなお、自分の2本の足だけで頂上に登りたがる人間がいるのだよ。

実に非効率的でめんどうで無駄に金がかかる道を選んでしまったが、
それでもなお歩み続けるのみである。
多分その遠回りこそが最短の道である気がするから。
数年後に死に至る病を読んで記事を書くとしたら、
今とは全然違う物になっている事を期待しつつ、今回はここで終了。

それでは、次回の記事までごきげんよう。

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