震災でふと思い出したエピソードがある。
このブログで散々話題に出した、以前働いていた居酒屋の話だ。
東北大震災の時の話を店長から聞いた事がある。
店は当然ボロボロ、食器も悉く壊滅。
電気が流れてこないから、当然冷蔵庫も動かない。
このままでは冷蔵庫の食材が腐ってしまう。
しかしそこら辺は流石商売人である。
「食材を持てるだけ持って、自転車で多賀城方面にいって売りまくろう!」
という事になり、社長までも自ら乗り出して出店を開く事にしたのだ。
このままでは腐ってゴミになるだけの食材を、今の内に売れるだけ売らねば。
社長と店長の2人は、もうウキウキしながら自転車乗っていったそうだ。
津波の痕跡が残る多賀城方面にまで乗り出し、早速調理を始めた。
そこまでは計画通り。
そして集まってきた人達に料理を売る段階になって予想外の出来事。
料理を受け取った人達が「ありがとう、本当にありがとう」と、
皆涙ぐみながら受け取ったそうだ。
それを見てしまった社長は、店長にボソッと呟いた。
「もう・・・いいや・・・・・・・・・・」
とてもじゃないが、この人達から金を取る事はできない。
もういいよって事で、金は一銭も受け取らず完全慈善事業の炊き出しを行い、
カラッポのサイフとリュックを背負って帰ってきたそうな。
人として正しい行いをした。
いやぁ、いいエピソードですねぇ、で終わってもいいのだが、
それでは芸が無いので色々突っ込んで書いていきましょう。
それが、タイトルにも書いた「お金は汚い物なのか?」という事について。
当然だが、慈善事業でわざわざ料理を作りにいった訳ではない。
商売人として、商売をする為にわざわざチャリンコ漕いで出向いていったのだ。
手持ちの資本を利用して更なる資本を獲得する。
そしてそこで手に入れた資本を利用して更なる資本をという循環を作る。
それが資本家である社長としての正しい姿だ。
被災地に割高で物資を販売する企業を、
「弱みに付け込んだ守銭奴だ!」と声高に糾弾する人間は、物事の一面しか見えていない。
その手の人達は善意から糾弾しているのだろうが、あなたの善意で死体が増える。
「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言葉は頗る名言であるなと思うこの頃。
しっかり資本を循環させているからこそ、より多くの人に料理を届ける事ができる。
無料でばら撒いて食材と資本が尽きたら、本来助けられた人達を助ける事すらできなくなる。
だからしっかり料金を取る事こそが、相手の為にもなる。
そんな当たり前の事を社長が知らないはずがない。
しかし、実際には出来なかった。
同じ立場に居たとしたら、俺も料金を取る事は出来なかったと思う。
多賀城方面は、海から結構離れているのに腰付近までの津波が押し寄せてきた。
浸水は床上どころではない。内陸部より悲惨な状態だ。
サイフや通帳ごと流された人や、サイフを持って逃げる暇すら無かった人もそこそこいるだろう。
そんな人達に有料で料理を振舞うというのは、「金持って無い貧乏人は飢えて死ね!」というに等しい。しかも料理を振舞った人達から、涙ぐんだ目で「ありがとう」と言われた日にはもう、金は受け取れない。
ここで金を受け取ったら、それはもうボロックソに非難が飛んでくるであろう。
「守銭奴!」「汚い!」「そこまでして金が欲しいか!」等など。
市場の論理を説いた所で伝わらない。
世間一般的には、お金は汚い物だとされている。
只管にお金を追い求める姿は醜い、無償の行為は美しい、と。
筆者も家庭ではその様な教育を受けてきた。
家族が揃っている食卓の場でお金の話をしようものならこっぴどく叱られ、
手に入れたお年玉をニヤニヤしながら「一枚、二枚、三枚」と数えていたら、
「お金は汚いんだから、そんなにずっと触る物じゃありません!」と叱られ、
親相手に金を出した取引を持ちかけよう物なら、頬を思いっきりひっぱたかれた。
どうやらお金は口に出すことすらいけないものらしい。
しかし、お金は汚いという価値観が広まってくると、
今度はその反動でお金は素晴らしい物であるという意見が出てくる様になる。
成功哲学なんかで良く言われますね。
「あなたが貧乏なのは、お金を汚い物だと思っているからです」
「お金は大変良き物です」
「金は命よりも重い」みたいに。
お金は素晴らしいという価値観も、同様に説得力がある。
どんなに目を逸らそうが、お金が無くては資本主義の現在では生きていけないという、
「圧倒的な」現実があるからだ。この現実から逃れる事はできない。
人はパンのみにて生きるにあらずという教えは、
ちゃんと毎日パンを買える人間になって初めて意味を持つのでは?
餓死寸前の人を救うのは愛ではなくパンだ。
「お金は汚い」「お金は素晴らしい」
一体この矛盾はどういう事なのか?
それが解らず、筆者はずっとこの両者の間を振り子の様に行ったり来たり。
波間を漂うクラゲの如くフラフラと揺れ動き続けていた。
ずっと謎のままであったのだが、ここ最近になってようやく、
この矛盾を弁証法的に解決する答えが見つかったのだ。
「そうか、そういう事だったのか!」と。
この積年の謎が氷解したのは、行動経済学の本を読んでいた時。
その本は、ダン・アリエリー著の「予想どおりに不合理」である。
この本は面白い。
何が面白いのかというと、人間の不合理な行動が何に基づいて行われているのかが、
見事に説明されている事だ。
自身の行動を振り返ってみて、一見不合理に見える行動が実に合理的に説明できる。
自分は自分の意思で行動していると思っていたのだが、
面白いくらい「自動的に」反応しているだけだという事に気づける。
しかも読みやすい。
出かける時に持ち運んでちょっとした待ち時間や、
仕事の休憩時間など細切れの時間だけで、
400ページ以上の本を読みきれる。
買うのであれば、持ち運びやすいように文庫本の方をお薦めします。
机に座ってノート取りながら、
行ったり来たりを繰り返さないと読めない哲学書とは大違い。
休憩時間にカントやハイデガーを読んでも全然休憩できない事に気づいて、
持ち歩く本は選ぶようにしました。脳が休まらない! 休もうとすると、何も理解できない!
まるでじっくり読めばカントやハイデガーが読めるみたいな書き方だが、
ごめんなさい、じっくり読んでも理解できません。
「そろそろ理解できるかなぁ」と淡い期待を持ちながら読み始めて、
毎回完膚無きまでに打ちのめされるの繰り返し。
おかげで前書きや第一章だけはやたら読み込んでいる。
まあ、それは置いといて。
このダン・アリエリーの「予想通りに不合理」
内容が解らない本を買うのは嫌だ、
読んでみたいけど金払ってまで読みたいかどうかは解らない、
というのであれば、グーグルで検索する事をお薦めします。
TEDにいけば、ダン・アリエリーの講演が今すぐ無料で見れますよ。
勿論日本語字幕つきで。
本の内容を講演したのか、講演内容を本にしたのかは解りませんが、
本と同じ内容を映像で見る事ができます。
あの厳つい表情で淡々と繰り出すブラック・ユーモアはどちらにも健在。
今回紹介したいのは、第4章の「社会規範のコスト」について。
この章で、「社会規範」と「市場規範」という2つの概念が紹介されている。
我々は、この2つの規範に従って生きている。
社会規範というのは、お金が一切絡まない愛情や友情といったもので繋がる世界だ。
たいてはほのぼのとしていて、何かをされたからと言ってすぐにお返しをする必要はない。
それに対して市場規範の世界は、情が入る余地はなく、全てが貨幣でのみ繋がっている世界だ。
そこにほのぼのとしたやり取りは無く、シビアなやり取りが繰り広げられる。
ここで大事なのは、それぞれの世界でゲームのルールが全く異なるという事。
社会規範の世界に市場規範のルールを持ち込むと、たちまち問題が起こります。
例えば、社会規範特有の友情や愛情が壊れるとか。
その具体例は、是非とも本に書かれているユーモアセンス溢れる文章で読んで欲しいが、
折角なのでこのブログでも少々改変して書いてみます。
あなたは、仕事が終わって真っ暗な自宅に帰ってきたとしましょう。
玄関を開けると突然明かりが灯り、クラッカーの音と共に大声援。
「ハッピーバースデーーーー!!」
家族や友人が勢ぞろいで、内緒の誕生会を用意してくれていた。
山ほどのご馳走とプレゼントの山。
あなたは会を満喫しきって、お開き間際に皆に言う。
「素晴らしい誕生会をありがとう。お礼としていくら払えばいいかな?」
サイフを取り出しながらそう言うと、空気が一瞬で固まっていく様を感じた。
どうやら来年の誕生会は、一人でコンビニのケーキをつまむ事になりそうだ。
子供の頃、ドラえもんを読んでいて全然理解できないシーンがあった。
パパがママにお小遣いの値上げを要求しているシーンだ。これが不思議でならない。
そのお金って、パパが仕事にいって稼いできたお金でしょ?
なんで一日中家に居る専業主婦のママが、パパにお金を渡す立場なの? と。
これはドラえもんに限らず、大黒柱の夫と専業主婦が当たり前な、
かつての昭和のマンガでは良く見られるシーンだ。
ずっと謎であったのだが、今では良く解る。
これが逆の立場であったら、愛情が壊れてしまう。
もし旦那が妻にお金を渡すとしたら、
二人の関係は「夫と妻」ではなく、
「主人とお手伝いさん」「主人とメイド」という関係になってしまう。
家庭関係を維持したかったら、家庭内から貨幣を慎重に排除しなければならない。
だからかつての昭和の様に、旦那が稼いだ金は全額嫁に預けて、
旦那はそこから「お小遣い」を貰うというのは実に見事な知恵であったのだ。
社会規範と市場規範の2つをごっちゃにしてはいけない。
俺が子供の頃、家族内で金の話をすると怒られたのは多分こういう事なのだろう。
市場規範の世界では、お金一番大切な物であり、
お金でしか人との繋がりが無い世界だ。
しかし、社会規範においては「お金は汚いもの」とされており、
事実お金は人間関係を壊してしまう。
このパラダイムに気づかず、2つの世界をごっちゃにするから悲劇が起きる。
今回の記事は、とにかく長年の謎が解けた事を書き残しておく為だけに書いたので、
なんともまとまりも結論も無いがここで終了しようと思います。
この第4章の「社会規範のコスト」だけでも、記事数本かけるぐらい拡がりがある内容なので、
とても書きながらではまとめきれないという事に気づいてしまった。
自分の読解力と文章力の無さを自覚させられる。
書いている内に別の書きたいことが出来てしまったので、今回はここで終了します。
それでは、次回の記事までごきげんよう。