大人と子供の境目はどこか?
法律的には20歳を過ぎたら大人とみなされるが、現実的にはどうもそうではない。
小学生でありながら「大人びた」人間もいれば、
いい歳こいて「いつまで経っても子供みたい」な人間もいる。
どうも年齢だけで決まるものではなさそうだ。
ちなみに「子供」という概念自体も、近代になって人工的に生み出された存在です。
それまでは、小さな大人とでもいうべき存在で大人と同列に扱われていて、
「子供」は存在していなかった。
いやいや、子供が存在していないって事はないだろと突っ込みを受けそうな書き方だ。
現代人のパラダイムで違う時代のパラダイムを理解するのは難しい。
例えばだ。現代でもほんの数十年前までは「固定電話」は存在しなかった。
電話は固定されているのが当たり前。
そこにわざわざ固定という単語を付けるのは、固定されていない電話の方が当たり前になったから。
電話といえばケータイを意味する様になって、初めて「固定電話」という存在が生まれる。
近代以前に「子供」は存在していない。
大人と同じように毎日親と一緒に仕事して家事をして赤ん坊の子守をして。
親は働くのが仕事で、子供は勉強するのが仕事という風に区分されたのは、
産業革命以後、教育された工場労働者が大量に必要になってからの事。
なにを大人とみなし、なにを子供とみなすのかの哲学的な話をするのかというと全然そんな事はなく、今回の記事で書いて置きたい事は別の事です。
大人と子供の境目はどこにあり、どうやったら大人になれるのかは解りませんが、
あなたがいつ頃大人になったのかは簡単に解る事ができます。
それは「早く大人になりたい」と思わなくなった時からです。
「ああ、楽しかった子供時代に戻りたい」と思い始めた頃からです。
俺が子供だった時。
仕事帰りの父ちゃんがホント美味そうにビールを飲むの見て俺も飲みたいといったら「子供は駄目」と言われ、夜更かしして金曜ロードショーを見ていたら「子供は早く寝なさい」と怒られ、家族でテレビを見ていてHなシーンが流れると「子供にはまだ早い!」とチャンネルを変えられ、その度毎に、チクショー! 俺も早く大人になりてぇぇえぇッッと渇望した物であった。
大人になりたい、と願うのはまだ大人ではない子供だけなのです。
モテたいと思うのはモテていない人間だけだし、
痩せたいと思うのはデブな人間だけだし、
頭が良くなりたいと思うのは頭が良くないと自覚している人間だけだ。
そして今回の記事のタイトルである成功者について。
もし誰かに「成功するにはどうしたらいいですか」と訊かれたら一言で返せる。
「そういう質問をしなくなる事です」と。
成功したいと願うのは、成功とは無縁の失敗者だけなのですよ。
成功の対義語が失敗でいいのかは考察してませんが、便宜上失敗として表記してます。
成功哲学の本には、心に強く思い描いた事は必ず実現すると書かれている。
こんなにも毎日成功の事を考えているのに全然成功しないんだからこの本は詐欺だ!
とアマゾンのレビューとかで口汚く罵っているの見たりするが、
ちゃんと実現しているじゃないですか。
成功したいと考えるのは成功とは無縁の失敗者だけ。
成功者は成功したいなんて考えていない。
つまり一日中成功について考え続けた結果、
「成功したいと願い続ける失敗者」が見事に現実の物となっている。
逆にそんな事を考え続けているのに成功してしまったら、その成功哲学の本は詐欺って事になる。
なのでその本が言っている事は正しい。
同様に、あなたがお金持ちなのか否かも簡単に解る事ができます。
「もっともっとお金が欲しい!」と思わない程度に応じてあなたはお金持ちです。
高いか安いか、買えるか買えないかではなく、欲しいか欲しくないかで買うかどうか。
支払いをする時、いちいちサイフの中を覗いたり預金通帳に相談しないかどうか。
つまり、お金の事を全然考えなくなった時がお金持ちになった瞬間です。
安いからという理由だけで欲しくもないのを買うのは金の奴隷であって、金の主人ではない。
今取り組んでいる事をなんとしても成功させたい。
そう考えるのであれば、やるべき事はとてもシンプルに説明できる。
そんな成功するかどうかなんて一切考えず、ただやるべき事をやればいいだけの話。
少年マンガを読んで育った俺にしてみると、これらの事を理解するのは難しかった。
少年マンガでは「勝ちたい」という勝利への執念が強いほうが勝つ。
肉体で負けていても精神で負けていなければ勝てる、と。
成功したいという強い気持ちが成功を呼び寄せるのではないのか。
どうもそうではないらしい。
成功したいと強く願うのは、成功とは無縁の失敗者のみ。
ならば成功したかったら、自分は成功なんて興味が無いと嘘を付けばいいのか?
おそらくそれは逆効果だ。成功者が自分に嘘を付くとはとても思えない。
自分を誤魔化してやりたくもない仕事をやったり、
付き合いたくないも人間と付き合ったり、
微塵も思っていないお世辞を言ってご機嫌をとってたりしてたら、
果たしてその人は成功者と呼べる存在なのであろうか?
それを成功者と呼ぶのであれば、今の世の中には成功者で溢れかえっているし、
「俺も成功したい!」と願う人は超レアな存在であり、
成功哲学を売っている人は全然売れずに廃業だ。
成功したいと考えれば考える程、成功は遠ざかっていく。
しかし本心では成功したいと思っているのに、
成功なんかどうでもいいと自分に嘘を付くのも逆効果。
この矛盾はどうすればいいのかというと、実にシンプルに解決する事が出来る。
それは、成功は勿論大切だけど成功よりももっともっと大切な物を見つけて、そちらの優先順位を高めればいい。
これは恋愛と同じですね。
もう一日中女の事ばかり考えて性欲の塊みたいにガツガツしてる男はかえってモテ無い。
勿論、恋愛の事に興味津々でありながら、そういった事を表に出さずに自分のやるべき事をやる。
仕事なりスポーツなり学業なり、そういった男の達成能力に女は惹かれていく。
具体的にいうのであれば、自分のやりたい事をとことんやりなさいという事。
もはや寝食を忘れて夢中に取り組める事があるのであれば、成功の事を考えている暇は無い。
成功しようがしまいがやり続けるのだから。
成功の定義は人それぞれだろうが、やりたい事をやり続けるというのが成功だとしたら、
やりたい事をやった時点でその人はもう成功者だ。
マンガを描きたくてマンガ家になったのであれば、マンガを描いた時点で成功者だし、
自分の曲を作りたくて作曲家になったのであれば、作曲した時点で成功者である。
作ったマンガや曲が大ヒットして大儲けするかどうかとかは全然関係無い。
ルドルフ・シュタイナーはその著書「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」において、
神秘修行の条件を書いている。その第5の条件にて書かれている言葉。
成功する、しないは、欲望から行動するときにしか意味を持たない。そして欲望から為された一切の行動は、高次の世界にとって価値を持たない。高次の世界にとっては、もっぱら行動に対する愛だけが決定的である。
どうやったら「成功したい」と考えずに済むのかを話している訳だが、
そもそも成功するかしないかが問題になるのは、欲望から為された行動に対してのみ。
大金を稼ぎたい、有名になりたい、チヤホヤされたい、楽して濡れ手で粟の人生送りたい。
そんな欲望塗れから為された行動の場合、成功するか否かは死活問題だ。
一瞬たりとも成功の2文字が頭から離れない。
そういう人達は、行動に対する愛が無さ過ぎる。
だってその人達は、成功しなかったらその行為をやめる訳ですよね。
書いても全然アクセス数が伸びないからと言ってブログを辞めたり、
全然売れないからってマンガを描くのを辞めたり。
ニコニコ動画でも全然再生数が伸びないと愚痴る投稿者がいる。
再生数が問題になるのは、欲望から為された行為に対してのみ。
あなたはその動画を作りたくて作ったのではないのか。
「俺の動画はたった10人程度しかみてくれない」と愚痴ったりするが、
その発言はその10人に対して最大級の侮辱である。
再生数を気にしているようだが、そのたった10人をトリコにしてファンにさせる力を持たない人間が、どうして何10万人の人間を楽しませる動画を作れると自惚れられるのか。
それをするのが好きであり、愛しているというのであれば、成功を考える余地はない。
成功したいんだったら、成功の事なんかどうでもよくなるくらい好きな事にとりくめばいい。
その結果成功するかどうかは解りませんがね。
でも、そういった事をやっていれば、成功するかどうかとかは本当にどうでもいい事になります。
アニメ映画に「千年女優」という名作がある。
芸人だけでなく、映画評論家としての顔もつ江頭2:50ことエガちゃんであるが、
そのエガちゃんに「初めてアニメで泣いた」と言わしめた作品である。
興味を持って試しに見てみたのだが、確かにいい作品だった。
ラストシーンの最後のセリフ。
これを聞いた時、あ、エガちゃんが泣いたのは多分このセリフの所だなと思った。
ちなみに俺は泣きませんでしたけどね。
これは、エガちゃんが感性豊かで俺が血も涙も無い冷血漢だからではない(と思いたい)。
エガちゃんにしてみたら、このアニメ映画は他人事ではなく最早自分の人生その物だと感じていたのだろう。そういう人生を送ってきていない俺には涙が出るまで共感する事はできなかった。
俺が素晴らしい映画だと思い、エガちゃんが涙を流した最後のセリフであるが、
同時にボロックソに酷評されているのも最後のセリフである。
アマゾンのレビューでも、素晴らしいと思ったが最後の最後で台無しになったと低評価が付いたりする。受け取る人によって両極端に分かれて物議をかもすアニメ映画である。
ここでそのセリフを書くことは壮大なネタバレになってしまうが、
あの映画は実写でもマンガでも小説でも無理な、
アニメにしか出来ない独特の映像美や表現方法を楽しむ映画でもあるので、
ネタバレを書いてもまだ見てない人の楽しみはそんなに減らないと考え書く。
この「千年女優」という作品は、主人公の女優がかつての思い人を探し続ける物語です。
思春期の頃に出会ったとある男性。
名前も知らず、顔も思い出せないが「一目あの人に会いたいんです!」と、その為に女優になる。
その思春期の頃から老人になって死ぬ瞬間まで、文字通り人生をかけて追い続けてきた。
途中、金も名声も手にしたヤリ手のプロデューサーと結婚したりもしたが、
その思い人が忘れられず結局別れてしまったり。
そんだけ思い続けているのだから、
最後には見つかってハッピーエンドになる映画かと思ったら全然そんな事はない。
その思い人はとうの昔に殺されている。
つまり、絶対に会えない幻影を人生かけて追い求めていた訳だ。
なんとも無駄で無意味な人生だと思うかもしれないが、そうではない。
死に際の最後の一言で映画が終わるのだが、その一言が素晴らしいと俺は感銘を受けた。
ひたすら思い人を追い求めてきたが、実はその人に会えるかどうかはどうでもいい事だったのだ。
「だって私、あの人を追いかけている時の私が好きなんだもの」
という最後の一言で映画が終わり、平沢進の壮大な曲でエンディングが始まる。
エガちゃんが始めて泣いたというのも納得の作品である。
エガちゃんの人生は、この千年女優その物だ。
そこらのお笑い芸人が「お笑いに命掛けてます!」と言ったら思わずプッ、と鼻で嗤ってしまうが、
エガちゃんが「笑いに命掛けてんだよ!」と言ったら、一切嗤わず「知っています」と答えるだろう。
まあエガちゃんは絶対にそんな事を言わないだろうけど。
一切言葉にしなくとも背中がそれを語っている。
存在は言葉よりも雄弁なのです。
力強い言葉を使わないといけないのは、存在が言葉よりも貧弱な時だけだ。
追い求め続けた結果、それが手に入るとか手に入らないとかはどうでもいい事。
それを追い求めている時の自分が一番好きだ。
シュタイナーの言う「行動に対する愛」によって為された行為。
これが前回の記事でも書いた実存主義的な生き方であり、成功者の条件だと考える。
成功したかったら、成功するかどうか一切考えなくなるくらい好きな事をやればいい。
実存的には、その好きな事をやれた時点で既に成功者なのだから。
それでは、次回の記事までごきげんよう。