進化とは多様化やブランド化と同義。
進化し続けている限りにおいて生き残るのはずっと楽な作業になる。
そして進化したかったら、自分にストレスをかけ続ければいい。
その為には、迷ったらキツイ方を選ぶというルールに従う。
以上が前回の記事の概要ですね。
たった4行でまとめられるなら最初からそうしろよという話だが、そうもいかんのよ。
で、今回書いて置きたいのは、かけるべきストレスとそうでないストレスの違い。
ストレスというと心身を壊すネガティブな物をイメージする人が多いだろうが、
実際にはその通りであまり宜しくないものもある。
どんなストレスであれ、かけ続ければ進化するという点は共通なのだが、
進化した結果より良い人生を送れるかどうかはスッパリ分かれてしまう。
俺の人生で過去最大級のストレスがかかった時代はいつかというと、
それは勿論ブログでも度々取り上げているブラック企業時代ですよ。
すさまじいストレスにより、その時の俺は間違いなく進化した。
つまり、ストレスをかける以前とは全く別の人格を持つ全く別の生物になったのだ。
思考も行動も全て変わってしまった。
一日13時間から14時間の労働を休むこと無く週6日。
皆12月の忘年会シーズンになると飲み会が増えるだろうが、
飲み会が増えるって事は居酒屋の仕事も増えるって事だ。
12月は週7日働く事になった。
もういつだってヘトヘトで、エネルギーは枯渇寸前。
俺は生き残る為に省エネ思考に進化して、余計な事は一切しなくなった。
お喋りなんてのは、エネルギー浪費の最たる物。
ホント必要最小限の事にのみ口を開き後は一日中黙ったまま。
カウンターのお客と会話するなんて滅多に無い出来事だ。
もっとお客と喋れと店長に怒られたが「だったら体力を回復させる時間をくれ」と、
心の中だけで思って無視した。怒ったり議論でエネルギーを失うのは愚の骨頂。
行動力ってのは、贅沢品なのです。
貧乏で生きていくのがやっとのカツカツの人間に、贅沢品を購入する余裕は無い。
俺は行動力という贅沢品には一切手を出さず、
生きて行くのに必要な事だけにエネルギーを使わざるを得なくなった。
貴重な休みは一日中家に居て、ひたすらボーッとする以外の選択肢が無い。
ここで余計なエネルギーを消耗したら月曜日から生きていけない。
他にも、仕事をいかにしてサボるかばかり考える様に進化した。
店の掃除も余計な所はガンガン無視する様になってきたし、
仕込みも雑で荒い仕事っぷりになってきた。
これは俺にとっては驚異的な進化だ。
俺は学生時代のアルバイトから、仕事はまじめに取り組んできた人間なのですよ。
他のバイトが無駄話ばかりしている時でも俺は黙々とまじめに取り組み、
ブラック企業も入社したての頃は雇ってくれた恩返しにと一生懸命に働いた。
それがこんな有様にまで進化してしまった訳だ。
個人の価値観や仕事観なんぞ、環境からのストレスの前では脆くも崩れ去る。
全く別の価値観を持つ全く別の生物に進化してしまった。
いわば人間として腐っていったのだ。
「まるで別人になったみたい」みたいに人を評価する事があるだろうが、
それは進化して実際に全く別の人間になったという事だ。
学生時代はあんなに明るくて元気だった子が、
社会人になってしばらくしてから会ってみると最早廃人の目をしていたり。
人は進化すれば別人になる。
ひたすら辛い思いをした挙句、碌な人生が待っていないとしたら何の為の進化か。
それだったら一切ストレスをかける事なくダラダラしてた方が幸せではないか。
そこで、かけるべきストレスとかけるべきでないストレスを考えてみる。
迷ったらキツイ方を選ぶというルール。
ここで重要なのは「迷ったら」という所。
解りきった事で迷ったり、日常生活で迷うことはそんなに無い。
「今の素晴らしい職場で働き続けようか。それともブラック企業に転職しようか」
って、迷いませんよね。
ブラック企業に行けば確かにストレスで進化する事は間違いないと俺が保障しますが、
それはただ辛いだけのストレスで、キツイ方を選ぶというのとはちょっと違う。
キツイ事はガンガンやるべきだが、辛いだけの事はやってもただ辛いだけ。
後は、些細な事でも迷うことはない。
「今日はカレーライスを食おうか、それともライスカレーを食おうか」
って誰がこんな事で悩むというのか。どっちでもいいわ。
あくまでも「迷ったら」キツイ方を選ぶという事。
迷うって事は、本心ではやったほうがいいのが解っているという事。
人間ほっといたら自動的に楽な方楽な方の選択肢を選びますからね。
「このままでは自分は駄目になる!」という危機感が自分を迷わせる。
筋金入りのデブは甘い物を食う時に一切迷わない。
自分の選択が、良い進化を促すキツイストレスなのか、
駄目な方に進化させる辛いだけのストレスなのかは、
ある程度簡単に見分ける事ができます。
キツイ事をやって一日を終える時、ニーチェと同じ事を宣言できるかどうか。
「これが人生であったか。願わくばもう一度」
ってな具合に。
夜寝る前「明日も今日のようにキツイ事が続くのか」と考えた時に、
それでも構わん、今日という日が繰り返してもいい!
と思えるようなキツイ事ならやり続けるべきだ。
それはあなたを良い方向に進化させるストレスです。
俺がブラック企業時代に考えていたのはそうではない。
「嫌だ! 明日なんか来なければいいのに! 時間なんか止まってしまえ!」
と、これから同じ日々が繰り返されると考えただけで生きる希望を失っていた毎日。
こんなのはただ辛いだけのストレスで、キツイストレスではない。
心も体もボロボロになった上に、ダメ人間へと進化する最悪の道。
全身全霊を込めてさっさと抜け出すべきだ。
文字通り命をかけて抜け出さないと、かけるべき命が無くなってしまう。
ではどうやったら「願わくばもう一度」と思える様なストレスを選んでいけるのか。
単なる辛いだけのストレスとキツイストレスをどう見分けていけばいいのか。
そのヒントは脳科学の本にいくつか書いてある。
NHK出版から販売されているジョン・J・レイティの「脳を鍛えるには運動しかない」。
この本は、まずタイトルのセンスが抜群にいい。
英語の原題である「SPARK」の直訳だったら、売り上げが激減していた事であろう。
原題の意味は「脳を発火(スパーク)させて生気(スパーク)を取り戻そう」という意味らしいが、
日本人にはまず意味が伝わらないし、本の内容が全然予想できず買う気になれない。
「脳を鍛えるには運動しかない」という、意図をしっかり汲みつつ独自に邦題をつける名翻訳だ。
もう邦題からしてどんな本なのか予想が付くと思いますが、多分その予想通りの内容です。
脳を鍛えるには運動しかない。
ストレスをかける事によって頭脳や精神は健康に機能するようになっていく。
そして健全に発達させる為には、ただ激しい運動をすれば良い訳ではない。
その人固有の限界値がある。
運動する時、最大の効果が発揮される激しさは人によって違う。
その人の最大心拍数の何%くらいが最高の運動、というのが設定される。
低すぎたら特に効果はでないが、高すぎてボロボロになっても意味が無い。
運動不足の人間だったら1キロ走っただけで心拍数がマックス近くにまでなるだろうが、高橋尚子だったら5キロ6キロ走った程度では、何のストレスにもならずトレーニングにはならないだろう。
他人が用意した数値ではなく、あくまでも自分の限界値を見定めてストレスをかける事。
その限界値は、何事かを始めた瞬間は泣けてくる程低い値であろう。
今まで本を読まなかった人間が難しい本に挑んだら、たった10ページで力尽きるかもしれない。
いきなり文章を書き始めたら、数行書いただけで筆が止まってしまうかもしれない。
迷ったらキツイ方を選ぶルールを実践し始めた直後は、自分の情けなさに苦しむだろうが、
その限界値はやってる内に伸びてくる。ある日指数関数的にグンって具合に。
進化とはそういう物だ。ある日突然別の生物になるのだから。
自分の限界を見誤ると、ブラック企業時代の俺みたいに心も体も壊してしまいます。
ギリギリのラインを攻めている限りにおいて「願わくばもう一度」と思える日々です。
その自分のギリギリのラインをしっかり見定めましょう。
始めたばかりの頃は、他人から見たらどんなに小さな一歩でも、
あなたにとってはアームストロング船長のごとく大きな一歩であるはずですから。
他に「願わくばもう一度」と思えるストレスの条件は何かというと、
あくまでも自分で自主的に与えているストレスなのか否かだ。
運動でストレスを与えると脳が発達するのはラットを使った実験でも明らかだ。
回し車やおもちゃをふんだんに入れた籠で育てたラットと、
何も無い籠で育てたラットとでは、脳の容量自体が違うという結果が出ている。
ならとにかく運動させれば効果が出るかというと、条件がある。
あくまでも自主的に運動していないと効果はない。
どんな動物でも運動は大好きだ。ラットだって、ほっといたら運動しまくるに決まっている。
しかしそんなラットの意思をお構いなしに人間が無理矢理運動させると、脳は発達しない。
ドーパミンがどーたらとか、コルチゾールがどうたらとかの説明をするまでもなく、
これは自分の人生振り返ってみれば思い当たる事が多々ありますね。
部活とかでも「進入部員は毎日グランド10週だ」みたいに無理矢理命じられた場合、
トレーニングってのは全然面白くも無いし特に望ましい変化も起こらない。
自分で「毎日グランド10週するぞ!」と決めた時と比べると大きな差が出る。
教科書開いただけで吐き気がする様な子供でも、
ポケモンの攻略本とかは脇目もふらずに読み込んだりする。
しかも教科書と違って細かい所までしっかり覚えていつまでも忘れない。
英才教育と銘打って、受験科目を無理矢理やらせる事に俺は反対だ。
真の英才教育は、子供がやりたい事を存分にやる手助けをする事だと俺は考えてる。
子供がピアノをやりたいと言ったらピアノを買ってやり、
ウルトラマンを知りたいと言ったらウルトラマン図鑑や関連書籍を買ってやる。
勿論、算数を勉強したいと言ったらドリルや問題集を買い揃える。
子供が望んでもいないのに、受験科目だからという理由だけで勉強を押し付けるのは
英才教育どころか子供の可能性と成長を阻害する事になるだろう。
自主的にストレスをかけているか否かの違いは大きい。
迷ったらキツイ方を選ぶ時。
それの限界ギリギリを、自主的に取り組んでいるのであれば、
それは続けるべきストレスだ。勿論決して楽な道ではない。
楽な道ではないが、充実感に満たされながら進化していける素晴らしい道である。
「これが人生であったか。願わくばもう一度」
それでは、次回の記事までごきげんよう。