準備が出来た時に師は現れる

今エーリッヒ・フロムが熱い!
この広い世界において、俺の中にだけ局地的なブームである。

俺はまだ読んだ事が無いが、世間的にはアドラーがブームだ。
「嫌われる勇気」がベストセラーとしていつまでも本屋に並んでいる。
その前は「潜在意識」をテーマとしてユングがブームだった時代がある。
この順番から推測してみるに、
ユングが来てアドラーが来たのだから、そろそろフロムのブームが来る「はず」だ。
その次はフランクルのブームが来る「だろう」。
つまり俺は流行先取りである。時代の一歩先を行く男。
とは言っても、世間的にブームになると距離を取りたくなる天邪鬼な人間だから、
フロムのブームは来なくてもいいんですけどね。
アドラーを読んでいない理由がそんなしょうもない理由からだし。
俺がアドラーの本を読むのは、
アドラーの著書がブックオフの100円コーナーを埋め尽くす程流行が廃れた頃です。

今までの記事でも度々とりあげていたフロムであるが、
以前と今とではフロムに対する熱心度が違う。
「準備が出来たときに師は現れる」というが、
どうやら俺の中で準備が出来たみたいだ。

ここ最近知りたくて知りたくてしょうがなかった事が、
フロムの著書の中にビッシリと埋まっている。
1ページ1ページが珠玉の言葉だらけである。

例えば、ヒーローについての記事で能動的か受動的について書いた。
ヒーローの行動は能動態で表現する。受動態で表現するのは脇役のキャラだ。
この事による更なる効能がフロムの著書にて書かれている。

刺激が<受動性を与える>ものであればあるほど、それの強さおよび(あるいは)種類を変えなければならない。それが<能動性を与える>ものであればあるほど、その刺激性は長く保たれ、強さと内容の変化は必要でなくなる。

この言葉を元にして数本の記事が書ける程である。
能動的に何かを生み出している時というのは、実に刺激が長く保たれ、
充実感に満たされた日々を送れる。
これはまさに、ここ最近の自分の生活で実感している事だ。
一過性の出来事に対して「充実感」という言葉は使わない。
充実感というのは、ある程度の継続を必要とする。
同じ事を毎日コツコツやっているのに飽きる事無く続けられ、
充実感に満たされた気持ちになれるのは、それが能動的に行っている事だからだ。
ヒーローの生き方は充実感で溢れている。

それに対して受動性を与える刺激というのは、塩水の様なものだ。
飲んでも飲んでも決して満たされず、益々乾きを感じ続ける事になる。
そして満たされなければ満たされないほど、より強い受動性を与える刺激を求める。

人生に絶望してたニート期間中の俺がまさにそれだった。
かつてはニコニコ動画が大好きで食らいつく様に追っかけていたが、
ニート期間中は別に面白いと思っていなかった。
面白いと思っていないにも関わらず、
かつての様に凄い楽しい気持ちにさせてくれる事を期待し、
全然面白くないのに次から次へと急き立てられるように動画をハシゴする日々。
しかしどんなにハシゴしても決して満たされる事はなかった。むしろ乾いていく。
かつての様に自ら動画に参加し、より面白いサイトにしようと能動的に行動してたのではない。
マウスをクリックする以外何もせずボケーっと流れている動画を受動的に眺めていただけだ。

勉強も能動的なのか受動的なのかで効果が全然違う。
自ら「学ぼう」とか「考えよう」ではなく、「教えて貰おう」という心構えの時は、
無駄な焦りと渇望感のみが募っていく。
新しい本、新しい教材、新しいセミナーと、次から次へと新しい刺激を必要とする。
どれくらい学んだかではなく、どれくらい「もっているか」ばかりが気になり、
たくさんの教材に囲まれていないと安心できない、否、
どんなに教材に囲まれていても、まだ足りないという渇望感ばかりが増大していく。
塩水は飲めば飲むほどに喉が渇くのだ。

「愛する」ではなく「愛される」事を欲する場合。
その場合は次から次へと新しい恋人に乗り換えて、
より強力でより新鮮な刺激を追い求めなくてはいけなくなる。
どんな強力な刺激でも慣れてくると刺激が弱くなってしまうので、
決して満たされる事のない渇望感を満たす為に、
終わる事無く新しい恋人を求め続けなくてはいけない。

フロムの本を、今俺が一番知りたい「ヒーローになるには?」という文脈で読んでみたら、
もう素晴らしい教えが出てくる出てくる。
別にヒーローになる為にフロムは書いていないだろうが、そういう読み方も出来るのだ。
フロムの著書は3、4年程前から本棚に置いてあったが、こんなに素晴らしい本だったとは。
いや、その頃からそれなりにいい本だと思っていたが、
実は全然読めていなかった事に気付かされた。
3、4年前の自分では読めなかった部分も読める様になっているのでとても楽しい。

古典は読み終わったからと言って、売ったり捨てたりしては駄目ですよ。
読み手の成長に合わせて、読み返すたびに内容がガラッと変わるのが古典の条件ですから。
でも、最新のノウハウが書かれたビジネス書は、読み終わったら売ってもいいです。
どうせ数年後には無意味で無価値な物になっていますから。
池上彰も言っている様に「すぐに使える物は、すぐに使えなくなる」

ちょいと俺とフロムの出会いについて語ろう。
昔書いた気がするが、俺は高校の時倫理の授業が大好きだった。
社会科の科目は、歴史も地理も政治も経済も死ぬほどつまらなくて大っ嫌いだが、
それに反比例して倫理の授業は面白くて食らいつく様に勉強した。
マンガを読む感覚で倫理の教科書を熱心に読み込んだし、
未だ捨てずに残っている唯一の教科書だ。今も本棚に並んでいる。

教科書に書かれている人物の本をもっと読みたいと思った。
哲学や心理学や中国古典など、人間について書かれた本だ。
しかし高校生一年生が哲学書を読んでもサッパリ理解できないのでつまらない。
キルケゴールの死に至る病を数分で放り投げた経験は以前の記事で書いた。
しかし心理学や中国古典は高校生でも読めるので面白く、
そこからひたすら心理学を中心に本を買いまくる事になる。
哲学書を読むようになったのは、実はここ数年の出来事だ。

大き目の本屋に行けば、必ず心理学のコーナーがある。
そしてジュンク堂に行けば、その心理学コーナーの中に必ずフロム専用の枠が設置されている。
なので本屋に通い続けていれば、当然名前もタイトルも覚えてしまう。
「自由からの逃走」など、いかしたタイトルなので思わず手にとってしまう。
しかし、おかしい。全然読めない。
心理学関連の本は面白くてスラスラ読めてしまうはずなのに、
フロムは全然読めないし、数分で立ち読みを続けるが辛くなる。
なんで心理学の本なのにスラスラ読めないのかというと、答えは簡単。
フロムの本は心理学の本ではないからだ。

フランクルもそうなのだが、
フロムは本屋の心理学コーナーではなく、哲学のコーナーに置くべきだと思うの。
これらの著書は哲学的な素養が無いと、とてもじゃないが理解する事はできない。
断片的に理解した気にはなれるが、全体の趣旨は理解できないです。
心理学「だけ」勉強して心理学畑から出たことが無い自分では理解できなかった。

フロムが主題としているのは、
近代がもたらした負の遺産である現代の病理にメスを入れる事。
当たり前の様に近代というキーワードが出まくるので、
前提知識として近代がどういう時代で何を齎したのかを知っていないと、まず読めない。

昔の俺に近代とは何か? と訊いたら何と答えるか。
「蒸気機関車にのっていたのが近代で、電車や新幹線に乗ってるのが現代でしょ」とか、
「馬車に乗っていたのが近代で、自動車に乗るのが現代でしょ」みたいな認識なので、
どんなに丁寧に読み込んでも読めるはずもなし。

本が理解できない理由の一つに、前提知識が無い、というのが挙げられる。
これは本に限らない。ジッキー・チェンの映画でもそういう事があった。
俺はジャッキーの映画が大好きで子供の頃から見まくってきたが、
中学生の時に見てサッパリ意味が理解できないシーンがあった。
「酔拳」だったか「蛇拳」だったか忘れたがその中のワンシーン。

生意気盛りのジャッキーが、とある武道家にケンカを売った。
しかしその武道家があまりにも強く、全くいい所なしでボロボロにされる。
売った喧嘩で命乞いをするという、なんとも無様な姿を晒すことになる。
その時に相手の武道家は、大股で立って「股をくぐれ!」と命令した。
ジャッキーは屈辱に塗れた顔で相手の股を大人しくくぐる。

当時はこのシーンの意味が全く解らなかった。
何で股の下をくぐらせるの?
何でジャッキーは大人しく股をくぐってるの?
くぐっている時は、男性最大の急所である金的が剥き出しになっているのだから、
くぐる途中で思いっきり金玉を潰してやればいいではないか。
なんでくぐっている最中に攻撃しないの?

この長年の謎は、中国古典を読み漁っている時に解けた。
中国の故事に「韓信の股くぐり」というのがある。
韓信という人物がある日町の少年に喧嘩を売られた。

「お前はいつも剣を帯びているが、実際には臆病者に違いない。
その剣で俺を刺してみろ。出来ないなら俺の股をくぐれ」

そして韓信は股をくぐる事を選び周囲の者は大いに笑った。
その後韓信は出世してこうして歴史に名を残すまでになったので、
屈辱に耐え、偉業をなす事を「韓信の股くぐり」という様になった。

どうやら中国においては、相手の股をくぐるというのはこの上ない屈辱らしい。
日本で言う土下座や、犬が腹を見せる行為の様に、
最大級の屈辱であり服従の意を示す行為にあたる。
この前提知識を知らなくては、あの映画のシーンは日本人に絶対理解できない。
だからジャッキーはあんな屈辱に塗れた顔で大人しく股をくぐったのか、と。
あの映画を日本で作ったとしたら「股をくぐれ」ではなく「土下座しろ」になっていたのだろう。
自ら土下座した時点で、最早心はポッキリ折られている。
抵抗する気力などあるはずも無い。

本を読むときも同じで、前提知識が無いと理解する事すらできないのだ。
近代をコツコツ学んでようやくフロムが読める様になりました。
昔の記事で書いたが、俺がキルケゴールを読める様になったのはベイトソンを学んでからだ。
「精神」とか「自己」とかのパラダイムが変わって、ようやく死に至る病が読めた。

この「名詞化」というのは実にやっかいな代物なのですよ。
「精神」とか「自己」とか「魂」とか書いて名詞化すると、
「コップ」や「パソコン」と同列で、実際にそこにあって触れる事ができる「モノ」の様に思える。
しかし精神というのはそういう「モノ」ではないのだ。

例えばですね、「ピアニストの魂」はどこにありますか?
勿論そのピアニスト本人の中に宿っているよ、と答えるでしょうが本当にそうですか?
ピアノが無い無人島に行っても、その人はピアニストの魂を宿しているのでしょうか。
飛べない豚はただの豚。ピアノが無いピアニストはただの人。

ならばピアノの中にピアニストの魂が宿っているのでしょうか?
物に魂や霊が宿るのはアニミズムの日本人には、容易に受け入れられる概念だ。
日本人が屋久島の縄文杉を見ると、決して侵してはならない神聖な「何か」を見る。
そこには間違いなく何かが宿っている。
そんな感じでピアノの中にピアニストの魂が宿っていると考える事もできるが、
それだったらそのピアノに触れた人は皆ピアニストとして目覚める事になる。
伝説の剣を手にした瞬間、ただの村人が勇者に目覚めてしまうように。
触れたものを皆、名手にしてしまう伝説のピアノが実は隠されているとか。
それは物語としては面白いがまずそんなピアノは無いだろう。

魂というのは独立した「モノ」として宿っている訳ではない。
「捕ったどーーー!!」と叫んで所有出来る「モノ」ではないのですよ。
これをベイトソンは魂というのは全体の「関係性」の中に宿っていると考えた。
ピアニスト、ピアノ、更にはピアニストの曲を聴く周囲の人間等。
それら全体の関係性の中にしか魂は存在しない。
ピアニストだけでは駄目。ピアノだけでも駄目。あくまでも関係性の中にのみ。

魂というスピリチュアルな内容を、全然スピリチュアルっぽくなく、
哲学的にクソマジメに考察するとこうなります。
スピリチュアルや神秘思想は結構好きなジャンルなのだが、
一切自分の頭で考えず、
教祖様の与えるドグマをありがたがって「所有する」だけの、
バカを量産するスピリチュアルは嫌いなので、
それに対するささやかな抵抗ですね。
「所有」できるのは「モノ」だけです。そして知識は「モノ」ではない。

「精神」とか「自己」も同様です。
あくまでも周囲の環境との関係性の中にしか存在しえない。
「本当の自分探し」がブームとなったりするが、
そんな本当の自分という独立した「モノ」などありえないし、所有できるはずがない。
ついに見つけたぞ! と思って手に入れた瞬間に変化して消えてしまう。
環境からの問いかけにより、今この瞬間も時々刻々と変化し続けているのが自己である。
モノであるお金を手元に置いて安心感を求めるように、
本当の自己を所有して安心感を得ようとしてもそれは不可能だ。
「自己」は「モノ」ではない。

―――といった事をベイトソンで学んでようやく、キルケゴールが読める様になった。
精神とか自己とかを「モノ」だと思っていたかつての自分では絶対に読めない。
この前提知識が無かった時は、読み進める事すらできなかったよ。

近代という前提知識を学んだお陰でフロムが読める様になり楽しい。
しかしフロムの著書には、マルクスとフロイトとエックハルトがやたら引用されていて、
どうやらフロムの思想の核となっているようだ。
なので更に深く本当の意味でフロムを理解したかったら、これら3人もしっかり理解して、
フロムの前提知識をしっかり抑えておかないといかん。勉強は終わらないですね。
残念な事にこの3人の事はあまり詳しくない。そもそもエックハルトって誰やねん。
この3人に関してはまだ準備が出来ていないようだ。

「準備が出来た時に師は現れる」というが、
師の方からわざわざ玄関叩いて乗り込んでくる訳ではない。
前提知識を抑えて準備が出来た事により、
師の教えの素晴らしさにようやく気づけるようになるのだ。
そもそもフロムの著書は数年前から本棚に置いてあった。
とっくの昔に目の前に現れていたが、準備が無い俺はそれに気付けなかったのだ。

今は読めない本でも、取り合えず手元において門戸を開いておきましょう。
いつか読める日が来ると信じて。
それを信じてハイデガーを手元に置き続けているのであるが、
果たしてハイデガーが俺の師になる程、準備が出来る日は来るのであろうか。
まあ、日々進化し続けている限りにおいて、その日は近付き続けるだろう。
それを信じて今はフロムを読み込むのみです。

それでは、次回の記事までごきげんよう。

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