世の中には正しい事と間違っている事があるとされている。
しかし何が「正しい」かなんてのは、全ては文脈によって決定されるのだ。
上半身裸で街を歩くのは社会的には間違いだが、エガちゃん的にはそれが正しい。
エガちゃんの私服姿は結構カッコイイが、それでも上半身裸が正しい。
芸風的にも芸人的にも。
この「○○的」という言葉は、よく使う割りに意味が説明しにくい言葉の代表格だ。
辞書とかで調べてみると、かえって混乱して解らなくなる。
考えるには言葉という道具が必要だ。
曖昧な言葉ばかり使っていては、曖昧な思考しかできない。
弘法筆を選ばずといっても、弘法大師の足元にも及ばない俺は筆を選ばねば。
そんな訳で、この「○○的」という言葉を自分で使いこなせるレベルまで落とし込んでみた。
その結果でた結論が以下の通り。
「○○的」とは「○○のルールに従って」という言葉に置き換えられる。
これが「学術的」に正しい用法なのかは解りませんが、
「自分的」にはこれで充分であり、これでオーケーです。
例えば「科学的に考える」という言葉は、「科学のルールに従って考える」という事になります。
「現実的に考える」とは「現実のルールに従って考える」という事になり、
「哲学的に考える」とは「哲学のルールに従って考える」という意味になる。
こういう言葉に置き換えてみたら、
今まで曖昧で霞がかかっていた文章もスッキリ読める様になったので、
今の所はこの解釈を採用し続けています。
何が正しいか間違っているかは、どの世界のルールに従っているかで決まる。
ボールに手で触れることは「野球的」には無問題だが、「サッカー的」には間違いだ。
しかしサッカー言えども「ゴールキーパー的」には正しい。
不倫して次から次へと恋人を作る事は「法律的・道徳的」には間違いとされているが、
「生物学的・戦略的」に考えた場合はまったくもって正しい生存戦略である。
20年くらい前の運動の世界では、うさぎ跳びなる訓練があった。
このうさぎ跳びは「精神論的」には正しかったのだが、
「科学的・生理学的」には悪影響しか及ぼさないと解ったのでやらなくなった。
具体例を挙げようと思えばいくらでもでてきますが、
ここで一旦読者のあなたに問題を出してみましょう。
ある日あなたが家で過ごしていると、全身アザだらけでボロボロになった女友達がやってきた。
「助けて! 旦那に殺される!!」と旦那のDVから逃げてきたのだ。
そこであなたは部屋にかくまった所、次は旦那が家にやってきた。
「俺の女房がどこに行ったか知らないか」と。
そこであなたは「知らない」あるいは「あっちに行ったよ」と嘘をついて女友達を守った。
さてここで問題だが、この時のあなたの行動は正しいか間違っているか?
何が正しいか間違っているかは、
どの世界のルールに従っているかで決まると書いたスグにこの問題。
全く何の意味も無いではないかという話になりそうだが、そうでもない。
こういった思考実験により、あなたがどのようなルールに従って考えたか、
つまり「○○的」に考えたのかを自分自身で確認する事ができる。
あなたがどのように考えたか知る術はないので話を進めますが、
この問題を「カント的」に考えるとどうなるか?
哲学者のカントのルールに従って考えた場合。
カントに言わせると、上記の嘘を付いて女友達を守った行為は間違いになります。
何故ならカントは「嘘をつくな」という考えの人間なのです。
だから旦那に「俺の女房を知らないか」と訊かれたら、
一切嘘を付かず馬鹿正直に「あっちの部屋に隠れているよ」と答えるのが正しい。
それがカント的に考えた場合の正解です。
普通の人間が上の話を訊いたなら、
「そりゃおかしいよ! 間違っているよ!」とカントに文句を言いたくなるだろうが、
何故それが間違いになるのかというと、それはあなたがカント的に考えていないから。
あなたが常識的に考えたのか、人間関係的に考えたのか、マザーテレサ的に考えたのかは解りませんが、カント的には嘘をつかずに女友達を差し出すのが正しい答えなのです。
世の議論(というか罵り合い)は、ひたすら正しい間違いで言い争っている。
何故そんな事になるのかというと、それぞれ住んでいる世界のルールが違うから。
相手は「○○的」に考えていて自分は「△△的」考えているという理解をしないかぎり、
意味のある議論にはならないですね。
その為に大事なのは、相手を知る事と自分を知る事。
人類皆兄弟というお題目を掲げていながら、
実際にはその兄弟の間ですら戦争は耐えない。
しかるをいわんや他人同士においておや。
良いコミュニケーションの為に、
相手がどのようなルールで考えているのかを知りましょうという方向に持っていってもいいのだが、
それをやる為には土台である自分を知る事からやっていかないと砂上の楼閣だろう。
自分と分かり合う事ができないのに、他人と分かり合えるとも思えない。
この「自分と分かり合う」というのはおかしな表現に見えるかもしれない。
分かり合うというのは、別々の人間が共通の認識を得る時に使う言葉だ。
自分の事を自分一人で、一体誰と分かり合うというのか?
まず大前提として、自分というのは一人ではないという事だ。
独立普遍の確固とした自己などはありえないし、
そんな「本当の自分」なんてのはいくら探したって見つかりやしない。
自分というのは、瞬間瞬間に絶えず変化を繰り返している存在である。
もし自分という存在は決して変わらないというのであれば、
年末年始に立てた抱負は毎年達成されていないとおかしい。
年末年始になると多くの人の恒例行事として「来年こそは!」「今年こそは!」と、
一大決心をして新年の目標と計画を立てる。
本屋さんで一番売り上げが伸びるのは1月だそうだ。
1月は、皆新しい事を始めようという決意と共に関連書籍を買いあさるのだろう。
しかしこれは現代人特有の事ではなく、
俺が知っている限りでは少なくとも幸田露伴の時代からそうである。
幸田露伴の著書に『努力論』がある。
この努力論は、文体は滅茶苦茶難しくて文学の素養が無い俺ではきつかったが、
内容は全然難しくないので、総合してみるとかなり読みやすい部類に入る。
何故内容が難しくないのかというと、
誰しも普通に生きていれば耳にタコが出来る程聞かされている話だからだ。
目から鱗の新発見を求めるのではなく、知っている事の再確認の為に読む本である。
努力論に書かれていた、年末になると皆来年の抱負を考え出すという所は、
読んでて思わず笑ってしまった。一昔前の人間も今の人間も全然変わっていないんだな、と。
幸田露伴の『努力論』のCMは一旦置いといて、本番入りまーす。
毎年元旦にはボジョーレ・ヌーボのキャッチコピー並みに更新されていく抱負を掲げる訳だが、
それが達成できずに終わった経験は多々ある事でしょう。
今年の目標を決めた瞬間は、間違いなく決意とやる気に満ち溢れていたのに、
何故達成できないのかというと、目標を立てた時の自分と実行する時の自分は、
もはや別人になっているから。
例えばですね。元旦に「毎朝10キロのランニングを日課とする」と決めたとしましょう。
自分の中にある『健康担当の自分』がこの目標は素晴らしいものだと決める。
他にも『オス担当の自分』が、筋肉モリモリマッチョマンな姿になれば女の子にモテモテさ!
という意見を具申して後押ししたかもしれん。
しかしそれを実行する時には、別の自分が顔を出してくる。
『睡眠時間担当の自分』がなんで朝の貴重な睡眠時間を削ってまで、
早起きせねばならんのだとクレームを出す。
『社会人担当の自分』が、今からランニングに行ったら遅刻するぞ!
と脅しをかけてさっさとスーツに着替えて準備しろと命令してきたりする。
自分の中に沢山の自分がいて、お互いに解りあえない。
健康担当の自分は常に物事を「健康的」に考えるし、
社会人担当の自分は常に物事を「社会人的」に考える。
この状態をイラストで表すとこんな感じですね。
以前に精神科医であるR・D・レインの『引き裂かれた自己』を紹介しましたが、
このイラストにタイトルをつけるならば『引き裂かれた自己(物理)』って所ですかね。
自分で決めた新年の抱負や目標が達成出来ずに挫折してしまうのは、
上のお馬さん触れ合いツアーみたいな事になっているのが原因です。
どんな目標であろうとも、やるべき事をきっちりやり続ければ成功するに決まっています。
たった一頭の馬が引っ張るのであれば順調に進み続ける。
しかし、沢山の馬があっちこっちに引っ張るからどこにも行けずに引き裂かれて苦しむ事になる。
「自分で決めた目標なのに達成できないなんて、自分はなんて意志薄弱なんだ」みたいに。
ネットのニュースだったかコラムかだったかで、
「会社の上司が休日に運動会やバーベキューを強制してきてウザイ」みたいなのを読んだ事がある。
今の若い人達は、会社にそんなレクリエーションは求めていませんよ。
休日こそはグッスリ休みたいしデートに行きたいし溜まっていたゲームをやりたい。
何が悲しくて休日まで上司の顔を見なければならないのか。
「親睦を深める事こそ会社の上司として最も大事な事だ!」と考え、
一人だけルンルン気分で盛り上がっている上司と、
愛想笑いを浮かべるその他全員の若手社員の映像が浮かぶ。
自分は会社組織の様に、沢山の自分が集まって形成されている訳だが、
その中のたった一人だけが目標に向かって突き進もうというのは、
上の上司の様に振る舞っている状態である。
この上司が「みんな一丸となって頑張ろう!」とどれだけ声高らかに宣言しようと、
誰も力を発揮しようとは思わないだろう。
99人の意見を無視してたった1人だけが目標に向かっていっても、それはあまりにも無理するぎる。
このように多数の自分の意見をガン無視して、
少数の意見だけで突き進むことを、『努力する』と言います。
だから努力ってのは長続きしないし、出来る事などたかが知れている。
努力して新年の抱負を達成しようとした場合、毎回「来年こそは!」と叫ぶ事になる。
それぞれの自分が、上のイラストみたいにてんでバラバラの方向に行くのだから。
どこにもたどり着けやしない。残るのは結果ではなく徒労感だ。
成功哲学の世界では、潜在意識と顕在意識の関係は、馬と御者の関係に喩えられる。
潜在意識である馬は、文字通り凄まじい馬力で目標地点に向かって進むが、
それをマネジメントするのは顕在意識である御者である。
ちなみにマネジメントの語源は「馬を調教して意のままに飼いならす」らしい。
マネージャーとは上手い事をいったものである。
上のイラストの馬を、全部意のままに操って同じ方向に進ませれば、
そりゃぁ陸続きであればどんな場所にでもたどり着けるだろう。
でもその際は引き摺るのではなくせめて馬車に乗せてください。
自分の中にいる沢山の自分が、同じ方向に突き進むならばどんな事でもできる。
ならばどうすれば、目標に向かって思い通りに自分を動かせるのか?
成功哲学の本によると、目標を絶えずイメージして潜在意識に送り込めば、
後は自動的に目標まで突き進んでくれるらしい。
これだけの説明で実践できて効果を実感できる人ならそれでいいのだろうが、
俺自身、これでは良く解らないし、効果を実感できていないのを読者に勧める訳にはいかん。
俺自身がやっている事は、とんでもなく時間がかかりますし、凄いシンドイ道です。
やっている事は絶えず自己との哲学的な対話をする事。
つまり、絶えず自分に向かって「何故?」と問い続ける事です。
それによって、今まで無意識で霞がかかっていた自分の中の複数の自分が、鮮明に見えてくる。
それが自分を知るという事。しいては、自分を思い通りに動かす為に必要な事。
詳しくノウハウ化出来ればいいのですが、
今現在も試行錯誤中で他人に説明できる程マスターしきれていない。
しかしその効果は日々増しているし、確かに前に進んでいる実感もある。
こんなシンドイ道を選ばなくても、一瞬で思い通りに動かせるようになる方法もあるにはある。
自分の中の「○○的」な複数の自分が、あっちこっちに向かうから思うように動けない。
ならばそれら複数の自分を全て徹底的に破壊して洗い流してクリーンにし、
新しいたった一つの価値観を植えつければ、その価値観に従って迷い無く突っ走る事が出来る。
この手法を専門用語で「洗脳」といいます。軍隊やブラック企業やカルトで使われている手法ですね。洗脳が上手くいけば、一切死を恐れぬ兵士や、死ぬまで働く社員や、喜んで財産を差し出す信者の誕生だ。個人的には、一瞬で人生を変えると謳う成功哲学やスピリチュアルの類はこれと同類だと思っている。
まあ本人がそれで幸せだというなら止めるつもりは微塵も無いですけど。
喜んで教祖様に財産と人生捧げているなら好きにすればいい。
俺はそんなのは嫌なので、地道な王道を歩み続けますけどね。
複数の自分との徹底的な対話こそ、自分を思い通りに動かす王道だ。
この地道なプロセスを嫌がる哲学的な素養が無い人間では、
成功哲学をどんなに読み込んでも何も学べないと考える。
どんなに素晴らしいノウハウを学んで実行しようとしても、
たった1人の自分だけが頑張って残りの99人が反対方向に進むから、
今まで通り、何も変わらない人生になる。
それでは思考は現実化しないだろう。
この全員の思考を同じ方向に進めるから思考は現実化するのだ。
それはまったくもって地道でシンドイ作業ですけどね。
それでは、次回の記事までごきげんよう。