意志力をあてにしてはいけない ―あなたに行動力が無い理由―

努力とは何か? と訊かれたらあなたは何と答えますか。
一昔前の俺は「努力とは、やりたくない事をムリヤリ遂行するのに必要な力」と考えていた。
子供が大好きなポケモンやるのに努力は一切必要ないが、
大っ嫌いな勉強をするには相当な努力を要する。
しかも大好きなポケモンは全150種類(今のポケモンは150なんて数じゃないらしい!)の名前をスラスラ言えるが、歴史の人物名は必死で努力したはずなのに全然覚えられずしかもすぐに忘れる。
俺もジョジョのスタンド名とキャラクター名を全員覚えるのに努力も苦労もした覚えは無い。

努力ってのは、あまり言うほど素晴らしいものではないのだ。
嫌な事をムリヤリやって、イライラしながら頑張った時のパフォーマンスの悪さは、
脳内麻薬のコルチゾールがどーたらみたいな脳科学の話をするまでもなく実感できる事だと思う。
努力するくらいだったら、自分が好きな事をやるか、
今やっている事を好きになるかした方がコストパフォーマンスは抜群にいい。
この事の大切さは、反対側から見てみると尚理解が深まる。

多くの人が誤解している事なのですが、
『努力する』の対義語は『怠ける』ではないですからね。
『努力する』の対義語は何かというと、それは『考える』です。

どうやったら今やっている事を面白くできるだろう?
どうやったらこの作業に面白さを見出せるだろう?
どうやったらもっと楽で効率良くこの雑務を片付けられるだろう?
そもそもこんな事をやらずに済むにはどうしたらいいのだろう?

と言った事をしっかり考えれば考える程、努力する必要と時間は無くなっていく。
逆に、頭を使うのがメンドクサイ思考的に怠惰な人間程努力が必要だ。
レバーを押せばエサが出てくる事を知ったラットみたいに、
エサが出てくる事を信じてひたすら同じ作業を繰り返す。

努力が報われると信じて頑張り続ける、と言えば聞こえはいいが、
そういう人が言う信じるという言葉は、額に汗をかきたくない、頭を楽させたいという、
極めて怠惰な振る舞いに他ならない。
福沢諭吉がその著書『学問のすすめ』にて曰く、

「信の世界に偽詐多く、疑の世界に真理多し」

この言葉の意味は、デカルト的な徹底的懐疑を理解してると読みやすいかと。
西洋の近代思想はデカルトからスタートしたが、
日本では福沢諭吉から近代思想がスタートしたと考えてよい。
その先駆けとなる『学問のすすめ』は近代思想を理解する上でもお薦めですね。

疑って疑って疑いぬいて、それでもなお疑えずに残り続けるのが真理である。
そのような哲学的な営みをやって絶対に疑えない真理を『信じる』のと、
そんな頭を疲弊させるのがメンドクサイから『信じる』のでは意味が全く変わってくる。
その様な人は自分の努力が全然報われなかった時、
自分のやっている事を疑う勇気はあるのだろうか?

個人的にはスピリチュアルは結構好きなジャンルだ。
しかし、巷に溢れるスピリチュアルは大っ嫌いですね。
何故なら、巷に溢れるスピリチュアルは、
「信の世界」を強制してきて馬鹿を量産していくからだ。

疑ってはいけません、あなたは私の言う事を信じれば全て上手くいくのですと教祖が語り、
それを読んだ読者はひたすら努力して「ツイてるツイてる」と唱え続け、
ひたすら努力してトイレ掃除をして努力して寄付をして。
読者の頭を使わせない様に仕向ける信の世界に偽詐多し、である。

前回の記事で幸田露伴の『努力論』を熱心に勧めておきながら、こんな記事。
しかしそれでも『努力論』の価値は暴落しないし、あなたには一読する事をお薦めします。
何故なら、俺の努力の定義と幸田露伴の努力の定義は違うから。
どのように違うのかの解説は別記事に回すとして話を進めましょう。

記事冒頭でも書いた様に、
一昔前の俺の努力の定義は「やりたくない事をムリヤリ遂行するのに必要な力」だった。
一昔前なので、当然今の俺の努力の定義は変わっている。
マイクロソフトは頻繁にOSのアップデートを繰り返してくるが、
マイクロソフト以上に頻繁に更新され続けるのが生物なのだから、変わるのが当然だ。
定義が変われば語る内容も変わってくる。
そんな訳で今現在の俺の努力の定義は以下の通り。

「努力とは、意志力『だけ』で何かを成し遂げようとする行為である」

2日前の記事で書いてた努力の定義と違っているじゃねぇか!
という突っ込みは強引に無視して話を進めます。人は変わるのです。
個人的には表現を変えただけで言っている事はそんなに変わってないと思うし。

先ず意志力とは何かという話だが、読んで字の如く意志の力です。
何か行動を起こすには「よし、これをやるぞ!」と決める意志力が必要不可欠。
経済学的に考えると、物事は全てトレードオフの関係にある。
何かを得るには何かを支払わなくてはいけない。
そしていかなる行動を取るにしても、意志力を支払わずに行動を起こす事はできない。
ガソリンを燃やさなくては車は動かないのだ。
そして人間のガソリンであるこの意志力というのは、すぐにガス欠を起こしてしまう。
それ故、意志力『だけ』で何かを成し遂げようとした場合、
つまり努力した場合は特に大した事は成し遂げられずに力尽きてしまう。
だから努力ってのは、言うほど素晴らしいものではないのですよ。
この結論部分だけは以前の努力の定義の時と変わらないですね。
意志力は石油燃料よりも限りがある資源なのです。

明確な目的意識を持っていないと、
何を見ても何を聞いてもザルで水をすくうように流れ落ちてしまう。
何の目的も無くジュンク堂店内をうろつくのが趣味な俺であるが、
こないだ明確な目的意識を持ってうろついていたら、
今の俺が知りたいその物ズバリなタイトルの本を見つけた。
それは、ダニエル・アクストの『なぜ意志の力はあてにならないのか』である。

本はつとめて古典を読むべしと心がけている俺が、
あまりにも面白かったので珍しくこの最新の本を買ってしまった。
2011年出版の本であるが、2011年は俺の中では最新である。
ずっとジュンク堂をうろつき続けていたにも関わらず、5年間も気付かなかったのか。

この本のサブタイトルは『自己コントロールの文化史』であるだけに、
もう本書の中には人類がどれだけ自己コントロールに苦労してきたかという歴史が、
これでもかというくらいにちりばめられている。
著者のダニエル・アクストの職業はジャーナリストなだけあって、
情報収集能力と解りやすい文章を書く技術が抜群だ。
神話やアリストテレスの時代から、最新の脳科学や行動経済学にいたるまで、
ありとあらゆる豊富な実例をウィットに満ちた文章で書き綴る様は圧巻の一言。
これを読んだらどれだけ意志の力があてにならないかが丸解りです。

頭にハチマキ締めて気合を入れ、
「絶対に大学合格してやるんだ!」とか、
「今日中になんとしてもこの本を読破してやる!」みたいに、
意志力『だけ』で何かを成し遂げようとしている人は、
成し遂げる前に肝心な意志力が枯渇してしまう事を知っておいた方がいい。
自分はなんて意志薄弱なんだ! と悲観する悪循環にハマってしまう前に。
先ずは知る事。知ってさえ居れば事前に対策が立てられる。
孫子曰く「彼を知り、己を知れば、百戦危うからず」である。
最優先で敵を知るべし。そしてその敵は自分の中にいる。

とりあえず、自分はなんて意志薄弱なんだと責めるのは止めましょう。
現代に生きている我々現代人には、
意志力が枯渇するのは仕方のない事だという理解が必要だ。
この本の中では現代生活の短所として、
自己コントロールに対する圧力が昔と比べてはるかに大きくなった事が言及されている。
その理由は、ノーベル賞受賞者の動物行動学者ニコラス・ティンバーゲンが
超正常刺激」と呼んだものにある。

この超正常刺激とは何か?
ティンバーゲンは、動物にとってつがいの魅力は何なのかを調べ、
その特徴を過剰に強調した「おとり」を作った。
するとこの「おとり」の方が本物よりも魅力的である事が解った。
他にも雛にエサを運ぶ小鳥は、
本物よりも色彩が強力で大きくくちばしを広げる「おとり」に先にエサを与えようとした。

我々は今、そういう「超正常刺激」の世界に住んでいるのだ。
豊かな先進国では、超正常な魅力をもつ報酬で溢れてる。

体が全然求めていないのに、You can not stop!な完璧にデザインされたジャンクフード。
寝食を忘れて没頭してしまう、ネトゲやスマホのアプリ。
見ていないと落ち着かなくなるツイッターやフェイスブックのSNS。

これらの誘惑が常にあなたの本能にアクセスしようと目論んでいますが、
それを隔てる防壁は意志力という薄い皮膜でしかない。
これがどれだけ分の悪い勝負かは火を見るよりも明らかだ。
レオニダス王率いるたった300人の先遣隊でペルシアの大軍と戦ったスパルタよりも分が悪い。
これは前回の記事の内容を踏まえて読んでいただけると、より理解が深まるかと。
人類、というか生物はこんな超正常刺激に囲まれて生きていくことを想定して進化していない。

行動をするには意志力が不可欠だが、
あなたがこれらの超正常刺激の誘惑に気付いていないとしたら、
それらに対抗するだけで意志力を使いきってしまい、
肝心の行動をする時にはすっかりガス欠になってしまう。

例えば勉強をしている時。
集中が途切れてふとツイッターやメールを確認したくなったとしたらどうなるか。
いや、今は勉強中だからそんな物は見ないぞ、決意するだけでも意志力を消費する。
消費と言うより、浪費と言ったほうが正確かもしれない。
誘惑に負けてツイッターにアクセスしたら、自分も何か書き込みたいな、
という事を考え始めて、またそれに意志力を消費する。
メールが届いていて返信の内容を考え初めても意志力が消費される。
おなかがすいてきたので、買っておいたポテチを食べようか食べまいか迷ってまた消費。
食べたら今度は消化にエネルギーを使われて、無意識に意志力を減らす事になる。
そして気付いた時には、もう勉強する意志力が枯渇して「明日でいいや」となってしまう。

もし俺が「この記事を書き終えるまでゲームもツイッターもやってはいけない!」と誰かに強制されたなら、この記事は前回の記事を書き終えた数時間後にはもう書けている。
何も無い独房に監禁されて、ネットに繋がらないパソコン一台だけを与えられ、
「50本のブログ記事を書き終わるまでここから出さない!」と言われたならば、
今の俺なら2週間以内に自力で仮釈放してしまうかもしれん。
ただし、パソコンの中にマインスイーパーやフリーセルがインストールされていたらどうなるかは解らない。

この超正常刺激に溢れた現代社会では、あなたの意志力を奪う刺激が溢れています。
あなたは自分の意志力を奪っている刺激をどれくらい自覚していますか?
ここで刺激の具体例を挙げていったら、箇条書きで羅列しても、俺の意志力では書ききれません。
もし自覚していないのであれば、「何故か」慢性的に行動力が無いという状態になります。

人間関係なんてのは意志力を消費する最たる物ですね。
ネットの発達により人間関係が希薄になって、
現代は無縁社会になったと批評する人が居るが俺は逆だと思う。
無縁社会どころか多縁社会となって、現代人は皆人間関係で疲弊しすぎている。

例えば俺が子供の頃は、転校というのは一大イベントだった。
仲の良いクラスメートが転校してもう会えなくなるのは凄い悲しいし、
多分もう二度と会うことは無いんだろうな、という覚悟でお別れ会をしていた。
しかし今現在はどうであろう。
解れても普通にメールを送ったりするし、LINEやらツイッターをやっていたら、
頻繁に転校先の様子も見れたり普通に話したりも出来るので、
分かれたのに全然分かれた気がしないのであろう。
切ろうとしてもいつまでも切れない縁が全身に纏まりつく社会である。
これのどこが無縁社会だというのか。

連絡手段のメインが固定電話からケータイの電子メールに移り変わった時、
人類はかつてないストレスに晒される事になった。
固定電話だと、かけられる時間は限られている。
真夜中や早朝に電話をかけるのは非常識だ。
それに固定電話なら、居留守を使って電話を取らない事も選べる。
しかし時代が流れ、ケータイのメールになってからそうはいかなくなった。
メールは一日24時間いつでも送信する事が出来るし、
ケータイを使っている以上確実に連絡に気付いてしまい、
「あ、ちょっと出かけてました」という無視の言い訳も使えない。
極めつけは、「オイ! なんでメールに返事寄越さねぇんだ!」と、
自己中心的な怒りをぶつけてくる無礼な人間まで現れる。
あんたの一方的に送ってきたメールの為に、
私の貴重な意志力を割いて時間も割いて返事をしろと?

俺はLINEを使った事が無いから良く解らないのだが、
LINEでは「既読スルー」なる専門用語があるそうだ。
なんで読んだのにスルーするんだと詰め寄られ、無駄に疲弊してしまうらしい。
逆に、なんで読んだのに返事してくれないんだろうと不安になって無駄に意志力をすり減らす。
友達との縁を維持するのに友達料を請求される社会である。
そういった事に意志力を使いまくっていたら、
あなたが何かを成し遂げようと決意した時には、
肝心の意志力はスズメの涙程しか残らなくなってしまう。
それでは何も成し遂げられやしない。
以前の「行動力の経済学」の記事内で書いた事を覚えている読者なら、
なんでメールやLINEが行動力を下げるのかは理解できると思います。
意思決定費用がインフレするからですね。

もし俺が誰かに「意志薄弱で何もできないんです」という相談を受けたら、
「とりあえずスマホぶっ壊してみたら」とアドバイスするかもしれん。割とマジで。
一部の人には、それだけで人生を変えてしまうほどの効果がある。
それが無理なら、スマホを持たずに図書館やコーヒー屋に行くとか。
スマホを使いたくても使えない環境を作り上げるのだ。
意志の力でスマホ使わないように頑張っては駄目ですよ。
一切意志の力を消耗せずに頑張れる環境を作る事。
我慢に意志力を使ったら肝心の所で枯渇してしまう。

自分で実践していない事を他人にやらせるのは説得力と信頼を失う行為だが、
俺自身は集中する為にコーヒー屋に行くときは、普通にケータイを持っていく。
スマホやケータイを持ったら駄目な人はいっぱい居るが、
俺には何の問題もないからそれでいいのだ。
しかしこれは、俺には強靭すぎるほど強靭な意志力が有り余っているからではない。
俺、友達居ないから、俺にメールを送ってくる人は居ないのですよ。
俺に届くメールは、スパムメールと仕事のメールだけなので、
一日にケータイを弄る時間は3分以下をキープし続けている。
メンドクサイという理由でだけメール返信に意志力を一切使わなかったから、
誰もメールを寄越さなくなりました。
ブログではこんだけベラベラ喋り捲っているのに、メールはメンドイというのは謎である。

俺と同じ境遇の人は、スマホやケータイ壊しても行動力はみなぎらないのでご注意ください。
いや、スマホはネットにアクセスしてツイッターとか見れるのか。
じゃあやっぱり、スマホは壊したほうがいいかもしれませんね。
なんにつけても、努力でなんとかする必要がない環境を作る事。

俺自身はクレジットカードを持っていないし、
カードが無いと絶対に買えない商品が出るまでは作るつもりは無い。
何故かというと、あると使ってしまうからだ。これは間違いないと断言できる。
自分の意志の弱さは充分に自覚している。
借金地獄の未来へむかって一直線になる程度の意志力しかない事は、誰よりも良く知っている。
なので絶対にカードを作ってはいけない。
カードが無く銀行振込だと無駄に手数料がかかってしまうが、
それは俺の意志の弱さを補うための必要経費。

俺にとっては、禁酒する事は超が付くほど簡単だ。
しかし、たしなむ程度に飲むなんてのは、難しすぎて不可能である。
もし俺が酒の美味さと魅力に気付いてしまったら、
もう一日中酒の事ばかり考える未来が良く見える。
朝っぱらからビールを飲みだすかもしれん。
そうなったら、もう意志力だけで禁酒をするのは不可能ですね。

自分がダメ人間である事はしっかり自覚しているので、
自分の意志の力なんてのは全くあてにしてないし、あてにしたらいけない。
俺ほど意志薄弱ではないあなたも、超正常刺激の現代社会に生きている以上、
何も対策をしなかったら常に意志力を無駄に消費し続ける事になります。
いかなる行動も意志力がなかったらやれないし継続できない。

そして、その対策というのはハンターハンターの念の修行と同じで、
やるべき事はたったの2つしかありません。
ハンターハンターは有名過ぎる程有名な作品なので、
読者全員が読んでる前提で話を進めていきます。
念の修行は、たった2つの事に大部分の時間を費やす。

①、オーラの量を増やすこと。
②、オーラの移動を速やかにする事。

オーラを使う時、そもそも使えるオーラの絶対量が無かったら、
一瞬でガス欠になって終わりである。
オーラを増やす修行は欠かせない。

しかし、オーラがどんだけあったとしても、
無駄遣いしていたらやはり一瞬でガス欠になってしまう。
使うべき局面で使うべき場所に使う分だけのオーラを移動させれば、
自分より強い相手でも立ち向かえる事ができる。
この事を更に突っ込んだ解説は別記事に回しましょう。
そして、現代社会で生きる為の意志力の対策も、たったの2つしかありません。

①、意志力を増やすこと。
②、意志力をコントロールする事。

意志力を増やす事は説明不要でしょう。
そして、オーラを使うべき部分にだけ集中させるように、
意志力をコントロールして使うべき所にだけキッチリ使う。
これさえ出来れば、
少なくともこれぐらいの更新頻度でブログを書き続けられる事が解りました。
俺なんて、毎日記事書いている人の意志力と比べたら足元にも及ばないが、
一文字も文章を書かずに過ごしている人から見てみたら、
俺は相当努力して頑張っている様に見える事だろう。
しかし、俺はこの1ヶ月近く努力して記事を書いた覚えは一切ない。
努力ってのは、意志力『だけ』で何かを成し遂げようとする行為だ。
もし俺が努力してブログを書いていたら、
3日も経たずに力尽きるのは月間アーカイブの数字が示している。
その程度の意志力しか持ち合わせていない。
しかしその程度の意志力でも、使うべきところでのみキッチリ使えばこの通りだ。

その為の方法についてだが、
これ以上長々書き綴って読者の意志力を消耗させ続ける訳にはいかないので、
それはまた別の機会に。
その瞬間に書きたい事しか書かないブログなので、
次回に続くかどうかは解りませんがいつか書くかもしれません。

独学で学びたいのであれば、今回紹介したダニエル・アクストの
『なぜ意志の力はあてにならないのか』をお薦めします。
ただこの本はノウハウ本ではないので、読んだらスグに実践できる類のものではありません。
この食材を自分が食べやすい様に、手間隙かけて料理する必要がある。
とは言っても、読むだけでもかなりの気付きと目から鱗の発見がある素晴らしい本ではある。

なんにつけても大事なのは、先ずは気付くこと。
自分自身は一体何に意志力を奪われ続けているのか気付かなくては、
対策の立てようがないのだ。
あなたに行動力がみなぎっていないとしたら、そこには必ず原因がある。
気付かないうちに、大切な意志力を奪われ続けた結果が今の現状だ。

そして気付く為にやるべき事は、過去の記事の中で既に述べています。
それは、絶えず自己との哲学的な対話をする事。
自分に「何故?」と問い続ける地道な作業でしか、気付きは得られない。
他にあるのかも知れないが、俺は知らないし教えられない。

例として、俺が哲学的な対話で気付いた時の話をしよう。
俺は、仕事に出かける1時間とか2時間前になると、もの凄い行動力が無くなる。
本を読んでも全然読み進められないし、ブログを書く気力も無い。
出来る事といえば、ベッドに寝っころがってボケーっと天井を眺めるだけか、
マウスをカチカチ弄ってゲームやネットサーフィンをやる程度の意志力しか無い。
図鑑で『ダメ人間』のページを開いたら俺の写真が載っているんじゃないかってくらい、
模範的なダメ人間の振る舞いで、読者には絶対に見られたくない姿ですね。

そこでアドバイスに従って、試しに仕事に通う量を減らしてみた。
そしたら意志力も回復してきて、やる気と行動力に満ちるようになった。
ここで話を切ってめでたしめでたしで終わってもいいのだが、
気付かなくてもいい余計な事に気付いてしまった。

・・・・・・・・・・・・・・あれ?

なんかおかしくないか?

おかしいおかしい、これは絶対におかしいよ。
仕事をするにも意志力が必要だから、
仕事をした『後』に、何もやる気が起きないってのは良く解る。
仕事帰りのお父さん達は、もうビール飲みながらテレビ見るだけの意志力しか残っていない。
それはよ~く解る。
しかし俺は仕事の『後』に、ではなく仕事の『前』に、意志力が無くなっているのだ。

「何故俺は仕事の前に意志力を消耗しているのか?」
「仕事の前に、一体俺の中では何が起きているのか?」
という問いを哲学的に突き詰めていった結果、ようやく理由が解りました。

自分の生活はとことんだらしない俺であるが、
こと仕事に関してだけはキッチリ時間厳守を貫き、
遅刻することはまずありえない。
開始数分前には余裕を持って到着する労働者の鑑。
散々取り上げてきたブラック企業時代ですら、遅刻は一回くらいしかない。
あんだけ過酷でブラックな労働スケジュールでありながら。

何故こんな事が可能なのかというと、
俺の中にある「仕事担当の自分」が熱心に頑張ってくれているお陰だ。
自分の中に複数の自分がいるという話は、前回の記事参照でお願いします。
この「仕事担当の自分」は、出勤の1時間とか2時間前になると自動的に動き出す。
遅刻したらどうしようどうしようと絶えず俺に向かって不安を煽り立て、
夢中で読書して時間を忘れてしまったらどうしようと心配させ、
絶えず腕時計をチラチラ確認して、
後20分したら髭をそって、25分したら着替えを始めてとスケジュールまで強制してくる。
こいつが頑張っているおかげで俺は苦労せずに無遅刻無欠勤を貫けているのだが、
こいつのせいで、他の自分に振り分ける意志力が無くなってしまうのだ。
熱心に働いてくれるのはいいが、とんでもない大喰いで他のみんなが飢え死寸前。
そりゃぁ、こんだけ意志力を使い続けていたら、何もやる気が起きなくなるさ。

そしてこの事さえ気付いてしまえば、
ここから先の解決策は誰に教えられる訳でもなく、
自力でいくらでも無限に思いつく。
幽霊の、正体見たり、枯れ尾花、である。
正体さえ解ってしまえばなんて事はない。

この仕事前にやる気が無くなってしまう事の解決策は、無限にある。
例えば、タイマーをセットして後は時間の事をすっかり忘れてしまうとか。
時間を管理する「仕事担当の自分」の労を労って、休暇を与えてあげるのだ。
その間は、もう夢中になって本を読んでもいいしブログ書いてもいい。
ただし、タイマーが鳴った瞬間に全てを「仕事担当の自分」に任せて準備をする。
「仕事担当の自分」は言われなくても頑張る超優秀な奴だから、
後は何も考えなくても自動的にキッチリ準備をしてくれる。
これなら仕事前でも意志力を無駄に消費する事はなくなる。

世に溢れる成功哲学の本ってのは、
この哲学的な対話の過程をすっ飛ばしていきなり、
「行動力を身に着けたかったら、タイマーをセットしましょう!」とか、
「行動力を身に付けたかったら、スマホをぶっ壊しましょう!」みたいに、
ノウハウ部分だけを大きく取り上げるから、読者の人生は何も変わらないのだ。
成功哲学の本を読み解くには、哲学的な素養が必要不可欠。
そして哲学的素養さえ身に付ければ、解決策なんてのはいくらでも自分で生み出せる。

「私は今までに1000冊以上の成功哲学を読んできました!」
という恥ずかしすぎるほど恥ずかしい自慢をしている人がいる。
この言葉を翻訳すると、
私は今まで1000冊もの成功哲学を読んできたにも関わらず、
いまだに自分で答えを生み出す哲学的な素養が身に付いていないし、
いつまで経っても誰かに答えを教えてもらわないと何もできないバカです、
と宣言しているに等しい。

そんな成功哲学の本を1000冊も読むくらいだったら、
岩波文庫やちくま学芸文庫から、一冊でもいいから哲学書を買って、
真剣に哲学したほうが、より良くより楽しい人生を送れますよ。
しかしこれには、かなり時間がかかる。王道に近道は無いのだ。
今すぐに教えて貰ってスグに行動力を身に着けたいというのであれば、
教わる相手は慎重に選びましょう。

教わる相手に哲学的な素養が無いのであれば、
その人はあなたの人生を変えるような事は教えられません。
教師に哲学的な素養が無いなら、
どっかの本に書かれていた事をオウムの様に繰り返すだけになるでしょう。
「何故そのノウハウは効果があるのですか?」と教師に問いかけた時、
その教師が哲学的に原理・原則から説明できる力が無いと、
あなたが変われるかどうかは全て運次第になってしまう。
巷に溢れるスピリチュアルみたいに、
「何故か不思議とそうなっているんですよ」とか、
「それは大宇宙の偉大な力が働くからです」みたいな、
バカ丸出しな解説で納得できるのならいいのですが、
俺は全然納得できないので俺の人生は変わらないですね。
俺は今ブログでやっているみたいに、
こうやってじっくり突き詰めないと、納得できないし、
納得できないなら行動も変わらない。

俺が上で書いた、
「取り合えずスマホぶっ壊しましょう」とか、
「タイマーをセットしましょう」というノウハウ。
これで人生が劇的に変化する人は確かに一定数存在するが、
全く変わらない人も多数存在する。
読者のあなたが、このノウハウで変われるかどうかは、
今の現状がどうであるかに左右される出たとこ任せの運勝負だ。

そうならない為にも、教わる相手は哲学的素養がある人間を慎重に選びましょう。
そういう人が身近にいないのであれば、自分で哲学的な素養を身に着けましょう。
哲学的な素養が身に付けば、一日24時間利用し放題のコンサルタントが自分の中に誕生します。
しかも無料。有能なコンサルタントか否かは自分の成長にかかっていますがね。

現代は、生きているだけで意志力が浪費されていく世界です。
その事に気付かない限り、あなたはいつも行動力が無い事に悩まされ続けます。
やるべき事は色々ありますが、先ずは自分の意志力を奪っているのは何か気付く事。
そして自分で気付くためには、哲学的な自己との対話を続ける事が王道です。

それでは、次回の記事までごきげんよう。

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