記事本編とは関係の無い話なのだが、
最近ようやくマルティン・ブーバーが読めるようになった。
「これを読んでおきなさい」という参考文献一覧に、ブーバーの『我と汝』があったのだ。
なんか持ってたような気がするなぁ、と思って蔵書を眺めていたら持っていた。
一体俺はいつこれを買っていたのか?
持ってるかどうか忘れるくらいだから、
当然今まで読んでいなかったんだろうという話だが、勿論読んでいなかった。
正確にいうと読めなかった。
試しに岩波版の冒頭を丸々引用してみますが、それを見れば、
かつての俺が読めなかった理由も解って頂けるかと。
世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる。人間の態度は人間が語る根源語の二重性にもとづいて、二つとなる。根源語とは、単独語ではなく対応語である。根源語の一つは、<われ―なんじ>の対応語である。他の根源語は、<われ―それ>の対応語である。この場合、<それ>の代わりに<彼>と<彼女>のいずれかに置きかえても、根源語に変化はない。したがって人間の<われ>も二つとなる。なぜならば、根源語<われ―なんじ>の<われ>は、根源語<われ―それ>の<われ>とは異なったものだからである。
現代人がまず使わないであろう現代語に翻訳されたブーバーの『我と汝』。
あなたは読めたでしょうか。かつての俺はサッパリ読めませんでした。
何で今の俺はこれが読める様になったのかというと、フロムを読み込んできたからです。
俺のマブダチとして散々記事で紹介しているエーリッヒ・フロムですね。
フロムを読んだ後に、上のブーバーの文章を読んでみたら、
これってフロムと同じ事を言っているのでは? という事に気付いた。
<われ―なんじ>というのは、フロムの言う『ある様式(to be)』の事であり、
<われ―それ>というのは、フロムの言う『持つ様式(to have)』の事では?
そう仮説を立てて読み進めてみたら、
まるでムスカの様に「読める! 読めるぞ!!」と叫びながらページをめくる事になった。
まだ全部を読んだ訳ではないが、フロムと同じ問題意識を持っているとしたら、
岩波文庫の表紙に書かれている本書解説を読んだだけでも、
これからどの様に論を展開していくか大体予想できる。
近代がもたらした負の遺産である、疎外された<われ―それ>の様式に警鐘を鳴らし、
世界の歯車となる<われ―なんじ>の様式に回復させる道を提示するのだろう。
かつての俺が「このブーバーの本が読める様になるまで他の事はしないぞ!」と決めて、
目的地まで最短距離を最高速で突っ走る事ばかり考えていたとしたら、
多分今でも読めていないかもしれん。
一見無駄で、遠回りに見えるフロムを経由する事によって、なんともアッサリ読める様になった。
なんかそういう歌詞がありましたよね。
♪探すのを辞めたとーき。♪見つかる事も良くある話で。
目的と関係の無い無駄な事は一切しない!
という考えは合理的に考えれば目的を達成する最適な方法ですが、
そもそも何が無駄で何が役立つなんてのを、どうやって事前に知る事ができるのか?
ラプラスの悪魔の如く、事前に全てを知る事は出来ない。
もし事前にある程度知る方法があるとすれば、
それは、既に目的地に辿りついた人から教えて貰う事だ。
もし俺がタイムマシンで過去に行って、
かつての自分にアドバイスできるとしたら、
的確すぎる程的確なアドバイスをする事が可能になるだろう。
かつての自分が何に躓いていて、何を必要として、
何をやった瞬間に出来る様になったのかも知り尽くしている。
高校生の時の俺は、キルケゴールの『死に至る病』を読んで数十秒で放り投げた。
これは高校生の読解力で読める本ではないと、諦めるしかなかったのだ。
しかし、もし今の俺がタイムマシンで高校生の自分にアドバイスできるとしたら、
「諦めんな!」とアドバイスするだろう。
そんな修造的な根性論のどこがアドバイスだよという突っ込みが聞こえてきそうだが、
俺の根性論はノウハウとセットです。個別販売は行っておりません。
キルケゴールの『死に至る病』を読めないのだとしたら、
まず真っ先にやるべきなのは、その『死に至る病』をさっさと本棚にしまう事だ。
高校生の俺が読めなかった理由は、読む為のパラダイムを持っていなかったから。
例えば、パソコンのOSに対応してないソフトをインストールしても読み込めない。
最新のソフトを、ウィンドウズ95とか98にインストールしても起動しない。
それと同様に、高校生の俺の脳にどれだけ『死に至る病』をインストールしても、
理解する為のパラダイムが入ってないから読み込めないのだ。
キルケゴールを理解する為には、まずはベイトソンの本を読めとアドバイスするだろうが、
やはり高校生の頭でベイトソンを理解出来るはずも無いので、
とりあえず必要最低限のパラダイムを高校生の自分に教えるだろう。
「精神」とは何か? どこにあるのか?
関係性というのはどういう事か?
キルケゴールに端を発する実存主義とは何か?
何故、ヘーゲルに対抗する形で実存主義が生まれたのか?
そもそもヘーゲルって誰で何をした人なのか?
ヘーゲルにして頂点に達した近代の哲学とは何か?
なんでキルケゴールはこんなにもヘーゲルに噛み付くのか?
後、具体的なアドバイスとしては『死に至る病』を読む前に、
倫理の教科書の最後に引用されている『ギレライエの日記』を読むと理解が深まるとか。
これらの事を理解してようやく、キルケゴールの一部を読める様になりました。
理解するのにかかった時間は、高校生の時初めてキルケゴールを読んでから10年以上経っている。
しかも10年以上かけても、まだ「一部」しか理解できていないという絶望的な事実。
「なんとな~く読める気がする」とか「なんとな~く理解できている気がする」という曖昧さ。
ただし、これは単純に時間の問題だ。
高校生の俺がどんだけ必死に読み込んでも絶対に読める事は無いが、
今の俺なら時間をかけてじっくり読み込めばちゃんと理解できるだけのパラダイムはある。多分。
他にも読みたい本や、やりたい事があるからキルケゴールに向かい合う時間が無いだけの話。
もし高校生の自分にアドバイスできるとしたら、
高校生の俺は10年も時間をかける必要は無い。
既に今の俺には、高校生の自分が目的地に辿り着く(辿り着いた)ルートを知っている。
単なる無駄な回り道と、一見無駄に見えるが必要不可欠な回り道の違いも知っている。
それらをキッチリ教える事ができるのならば、高校生の俺でも『死に至る病』を読む事は出来る。
ヘーゲルや近代合理主義を学ぶのは一見無駄に見えてやりたくないだろうが、
これは必要不可欠のパラダイムなので、高校生の俺がどんなに嫌がってもムリヤリ教える。
高校生の俺はそういう無駄な事を凄い嫌がって、必死で抵抗するだろうから、
当時まだ発売していないジョジョの第7部『スティール・ボール・ラン』をお土産として持って行き、それをエサにちらつかせてジョジョを読破した所で第7部のセリフ、
「LESSON5!! 遠回りこそ・・・・・・最短の道だった!!」
といえば、高校生の俺は素直に従うだろう。
高校生の俺にとって『ジョジョの奇妙な冒険』はバイブルであり作中のセリフは神の言葉に等しい。
高校生の俺は大人をなめていたから今現在の俺の言葉なんか全然聞かないだろうが、
ジョジョに書かれていた言葉ならデルフォイの神託よろしく忠実に実行する。
俺はお前の弱点なんぞ知り尽くしているんだよ。
グワハハハ、チョロイもんよ。なんて扱いやすい高校生だ。
以前の「地に足つけて学ぶ」でも書いた様に、
他人が教える事ができず、自力で獲得しなくては身に付かない物は多々ある。
しかしそれ以外の言葉で教えられるものなら、さっさと教えちゃった方がいい。
今回の件はたった10年で獲得できたから良かったものの、
これが40年とか50年かかる代物だったら?
はたまた100年とか200年という、人間の寿命より長いものだったら?
一瞬で解決できる他人が教えられる事に時間を奪われすぎたら、
肝心の自分で獲得する為に割く時間とエネルギーが無くなってしまい、人生が先に終わってしまう。
人生をかけて、全てを自分の力でやらなくてはいけないものなら仕方ないが、
既に目的地についている先人の力を借りられるのであれば、借りた方がいい。
回り道をする時間とエネルギーを確保する為に近道を教えて貰うというパラドックスだが。
今までの記事でも書いてきたように、俺は最短最速で目的地につく事を重視していない。
存分に道中を楽しんだ方が実り多い人生になると思っている。
しかしそれでも、さっさと教えて貰って最短距離を突っ走ったほうがいいと思うものがある。
それが、前回から言及している意志力だ。
あなたが人生に何を求めているかは解りませんが、
まだ生きているからには、成し遂げたい事や欲しい物があるはずです。
経済学的に考えると、全ての物事はトレードオフ。
あなたが何かを手にいれる為には、何かを支払う必要があります。
あなたが欲しい物を手に入れるには、お金が必要かもしれません。
あるいはコネや人脈が必要だったり、実績とキャリアが必要だったり、
信頼が必要だったり、専門知識や技能が必要だったり。
世の中、お金がなくても獲得できる物はいくらでもある。
コネや人脈がなくても獲得できる物もいくらでもある。
しかし、意志力がなくても獲得できるものなど、一つとして存在しません。
誰かから与えられるのではなく、自力で獲得する為には、
手に入れてやる! と決意して実行する為の意志力が必要不可欠。
あなたが何を目指し、何を必要としているかは解りませんが、
いかなる場所を目指すにしても、そこを目指す意志力は必須です。
そして、誰よりも意志力を必要としている人程他人の力を借りなくてはいけない。
意志力が無い状態で意志力について学ぼうとするのは、
ガソリンの入ってない車でガソリンスタンドに行こうとするようなものだから、
原理的に不可能な話なのです。
完全なるガス欠、完全なる無気力になったら、もう自力で這い上がる事はできません。
レッカー車を呼んで運んで貰うか、誰かからガソリンを分けて貰わないと無理。
そうなる前に、まだ意志力が残っている内に意志力について学ぶ必要がある。
そうしないと、いかなる場所へもたどり着けなくなってしまう。
ちょっと前回の意志力の記事に書いた事を復習してみましょう。
現代社会は、生きているだけで意志力を盛大に浪費してしまう社会だ。
その事に気付いていないと、気付いた時には意志力が枯渇して何もできなくなる。
まずは気付く事。自分の意志力を奪っているのは何かを知らなくてはいけない。
その為には、一見無駄な回り道に見える哲学的な自己との対話が王道である。
以上、復習終わり。
しかしこれは、完全なガス欠に陥った人には実践できない事でもある。
絶えず自己との哲学的な対話をするには、莫大な意志力を必要とするのだ。
その対話の意志力を確保する為にも、簡単にさっさと出来る意志力の確保の方法が必要だ。
回り道をする意志力を確保する為に、余計な所は最短距離で突っ走る必要がある。
王道を歩く為に、邪道を知らなくてはいけないというパラドックス。
もしあなたに、哲学的な対話をする程の意志力も残されていないとしたら、
それはもう誰かに助けてもらわないと無理です。
そうでなくとも、既に目的地に辿り着いた先人の力を借りれるのであれば、
王道を歩むのはもっと楽しくて楽な作業になる。
身近に教えてくれる人がいるのであれば、教えて貰った方がいい。
何をするにも意志力は必要不可欠な経費になるのだから。
それでは、次回の記事までごきげんよう。