「わかる」事の危険性

相手の話を聞かない(聞けない)人間は頻繁に使いまくるが、
話を聞くプロであるカウンセラーは絶対に使わない言葉がある。
それは、

「わかる」「わかるわ~」「よくわかる」

という相槌だ。
何故かというに「わかる」というのは至難の業だからだ。
そんな簡単に解ってたまるものか。
1日24時間一緒にいる自分の事ですら解らない事だらけなのに、
ほんの数分話しただけの人間が何を考えているか解るとも思えない。

読書家ならば、解る事の難しさは日々感じている事でしょう。
本を読んで著者の言っている事が「解ったぞ!」と思っても、
数ヵ月後数年後に読み直したら、実は全然解っていなかった事に気付かされる。
今の俺はフロムやフランクルの言っている事が「解っている」が、これは多分錯覚だ。
色々な経験を積んで、色々な勉強をした数年後にまた再読してみたら、
解ったと思っていたが実は全然解っていなかったという事実に直面するだろう。
今の所その繰り返しだ。

正確に伝える為、厳密に言葉を選んでいる人間の言っている事すら解らないのだから、
しかるをいわんや、なんとなく言葉を使っている日常会話においておや。

「わかる」という言葉は、それ以外の解釈の可能性を全て閉じ、
もうそれ以上の事を考えたくない時に使われる。
本を読んでいる時も、解らない時は必死で考える。
これはこういう意味か、ひょっとしたらこういう意味かもしれん。
あらゆる可能性が広がっている。なんども再読するハメになる。
しかしこれが「解る」本であった場合、
読み終わったら片付けてもう開かなくなるだろう。

上の読書の例は、恋をしている状態に等しい。
恋をし始めた当初は、もう相手の事が知りたくて知りたくて仕方が無い。
あの人の好みのタイプはどんな人だろう? 趣味はなんだろう?
休日は何して過ごしているのかな? ひょっとしたらもう好きな人がいるのかな?
知りたい知りたい知りたい! 知らなかったら夜も眠れない!

ところが恋が終わる間際になって会話で使う言葉は、
「もう、解った解った。解ったからもう黙れ!」
と、相手の話をぶつ切りにする「解った」という言葉。
解っている本を読む必要は無いし、解っている人間の話を聞く必要はない。
言わなくても解っているんだから。
まあ、解ったと自惚れているが実は全然解っていないからすれ違いで破局する訳ですが。
「あなたがそういう人だってことは、もう解っているから・・・・」
と言われたら、もう相手は聞く耳もっちゃいないので修復は難しいでしょうね。

「わかる」というのは、自分の中にある一つの解釈に固執し、
それ以外の解釈を拒絶する知的な引き篭もり状態を言う。
引き篭もりなので、「それは誤解だ! 俺が本当に伝えたかったのは・・・」という、
外部からの侵入者を許さない。
自分は間違っているかも、という疑いから狭い部屋の外に出て確認したりもしない。
ヘーゲルがその著書『論理学』の序文にて曰く、

「無批判な知性は、自分のうちにある固定した前提を警戒も疑いもしないから、哲学的理念というむきだしの事実の後を追うことさえできない」

「自分とは違う思考様式が存在し、実行されていて、だから自分もこれまでとは違う思考方法をとらねばならない、などとはおよそ考える事がない」

知の集大成として当時の学生を熱狂させ、
大学の講義は常に満員御礼のヘーゲルであるが、
ヘーゲルの考える『知』は固定されたアカデミックな死んだ知識ではなく、
絶えず流動するダイナミックな生きた知識である。

ヘーゲルの言う知の営みは、
知的に引き篭もって部屋の中に知識をコレクションする事ではない。
狭い部屋を飛び出し世界を見て、そしたらまた部屋に戻っての繰り返し。
この弁証法的な往復運動を繰り返して変化・発展していく過程が知の営みである。

弁証法とは何かという話だが、これは植物の成長過程で説明される。
植物のつぼみは、花が開く事によって消滅する。
しかしこの花も、果実が実る事によって消滅してしまう。
ここで疑問なのだが、植物の「真の姿」というのはどの状態の事を言うのだろうか?
ある人が、花開いている状態を取り出し「これこそが植物の真の姿だ!」と叫ぶ。それに対して別の人は「そんなのは偽の姿だ。この果実が実っている状態こそ真の姿である!」と主張する。
だが、この植物の変化を一つの流れとして捉えれば、これらの3つは互いに対立するどころか、
どの一つとして不必要な物はなく、3つの変化を通して始めて全体の生命が出来上がる。
この変化の過程そのものが植物の真の姿と言えるだろう。

植物のつぼみが否定されて花が誕生する。
そしてその花が否定されて果実が誕生する。
あるものとそれを否定するものがぶつかって、新しいものが生まれる。
これを弁証法と言います。
そして弁証法によって生まれた新しいものにも、また否定するものが誕生して、
さらに新しい何かが生まれる。これの繰り返しで人間の精神や歴史は発展していく。
真理とは、その運動の一部を取り出すことではなくこの運動全体の事を示す、
というのがヘーゲルの主張。ヘーゲル曰く『真理とは全体のことだ』。

哲学の世界では、真理を求めてこれこそが真であっちは偽だと言い合っているが、
それは植物の一部の瞬間を取り出して、
「これこそが植物の真の姿だ!」と言っているに等しい。
一段上の真理にたどり着くためには、その偽である真理も必要不可欠の要素だ。
つぼみも花も果実も植物に必要不可欠な要素であるように。
この弁証法的に発展を繰り返していけば、人類はいずれ究極の真理にたどり着く!
というヘーゲルの予言に世界は大いに熱狂した!

きっと当時の若者達の間では、
「弁証法ってマジでヤベェよな~」
「ヘーゲル先輩マジパネェっす。俺チョーリスペクトっす」
という会話が繰り広げられた事は想像に難くない。

余談だが、このヘーゲルの予言を否定する形でキルケゴールの実存主義が誕生した。
そんないつたどり着けるかも解らん人類の究極の真理を約束された所でどうなる。
私が欲しているのは、「私にとって」真理であるような真理を見出す事なのだ、と。
こうやってヘーゲルはキルケゴールに批判された訳だが、いかなる真理にも、
それを否定する真理が誕生するというヘーゲルの予言通りになっているのはちょっと面白い。

植物や動物を、標本にしたり剥製にしたりホルマリン漬けにしたら、
姿形は変わらず半永久的にそのままの状態を維持する。
死んでいるのだから当然だ。
しかし生きている実体の場合、
ある一瞬を取り出してそれが真の姿というのは無理がある。
植物は、つぼみから花になり、花から果実に変化する。
この変化している過程全体が真の姿である。

「わかった」という一言は、何か一つの解釈を採用して固執し、
標本や剥製やホルマリン漬けにした『死んだ知識』をコレクションする事だ。
死んだ知識をコレクションした自分の狭い部屋から出て行こうとはしない。
しかし知るというのは、そういう事ではない。
同じくヘーゲルがその著書『精神現象学』にて曰く、

「生きた実体こそ、真に主体的な、いいかえれば、真に現実的な存在だが、そういえるのは、実体が自分自身を確立すべく運動するからであり、自分の外に出ていきつつ自分のもとに留まるからである」

「外に出ていきながら自分をふりかえるという動きこそが真理なのだ」

自分の部屋から飛び出ていきつつ自分の元に留まるという、難易度の高い要求。
部屋から飛び出て世界から戻っての往復運動を繰り返す動きこそが、真理であると。
知るという事は、ダイナミックで流動的なのだ。

この往復運動を止める一言が「わかる」「わかった」の言葉である。
あなたが「わかった」と口にして知的に引き篭もった瞬間、
知るという営みはそこで全て終わってしまう。

日本人が日本人と話すよりも、外国人と話した時の方が齟齬が少ない場合がある。
言葉が通じない外国人相手だったら、ちゃんと理解しているかどうか、理解出来ているかどうか、
事細かに確認する事になるだろう。
「その言葉はどういう意味ですか?」「あなたの言ってるのはこういう事でいいですか?」と、
解らないからこそ必死に、対話を通して自分の考えと相手の考えを行ったり来たりで往復し続ける。
会話が終わっても、ちゃんと伝わったかどうか気になってしかたがない。
外国人に道を聞かれて教えた時は、ちゃんと目的地までたどり着けたかどうか心配になるだろう。
この対話による往復運動をひたすら繰り返す過程が、知の営みだ。
母国語を話すもの同士が「解った解った、オーケー」と解ったフリをして、
ミスコミュニケーションだらけになるのとは対称的である。

日常会話で気軽に「わかった」という言葉が使われていますが、
人間が本当にわかる事などありません。
知ろうとして死ぬまで問い続けなければいけないし、
その問い続ける態度こそがヘーゲル的な意味での知識です。
何も解らないまま死んでしまったとしたら、
それはそれで哲学者として名誉の殉職を遂げた事になる。
わかったと言った瞬間にはもう知の営みは終了している。
これが、『無知の知』を唱えたソクラテスが賢人と呼ばれる由縁です。

軽はずみに「わかった」と連呼する行為は、知的引き篭もりになる危うい道である。
解らないし解るはずもない、と自覚した上で世界を見たり人の話を聞くことが、
知的に誠実な態度であり紳士的な態度だ。

それでは、次回の記事までごきげんよう。

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