考えるべきか考えぬべきか、それが問題だ

考える、という行為は脳に多大なストレスをかけ続ける。
ストレスなので人によっては凄い不快感を伴いなんとしても避けたい代物であるが、
進化の為にはストレスは必須であり最強のパートナーだ。

負荷をかけ続ける事が爆発的な変化を生むのは、
漫画ドラゴンボールを読んで育った世代なら、誰もが納得している事だろう。
ドラゴンボールの修行では、重い亀の甲羅を背負ったり、
100kg以上の服を着たり、100倍重力(体重60kgが6000kg)の世界で、
日常生活を送り、修行に励む。
すると、その重い服を脱いだ瞬間には体が軽くて軽くて、
もう自分の重さを感じられない程強靭な肉体が出来上がる。
普通の日常生活を送るだけで強くなってしまう。

何かを考え続けている状態というのは、
この重い服を着続けて日常生活を送っている様な物だ。
自身の爆発的な変化を約束する。
その意味において、「解りやすい」というのは決して賞賛の言葉とは限らない。
難しい問題を解り易く翻訳して解説してくれる人の話を聞くと、
実にスッキリをした気分になれる。池上彰の話を聞いた時とか。
このスッキリした気分は何故生まれるのかというと、
重い服や100倍重力の呪縛から解き放ち、体が軽い状態にするからだ。
そんな重い服は私が脱がせてあげますと、いきなり人の服を脱がしていく。
修行の為にわざわざ重い服を着ている身の上からすれば、
余計な事すんな馬鹿野郎と言いたい所ではある。
前回の記事に絡めて言うと、解りやすい解説で「わかったぞ!」となった瞬間に、
そこで弁証法的な知の営みは終了して進化・発展は終了だ。

脳に問いを与え、常に考え続ける事こそが脳の成長を促すが、
これには致命的な欠点がある。

考えている間は行動を起こせない、という事だ。

全ての行動は見切り発車である。
あれこれ考えるのをやめなくては、行動は起こせない。
例えば旅行に行くとき、事前にあれこれと計画を考えるだろう。
どこに行こうか、何を持っていこうか、予算はいくら用意しようか、
ここは電車で行こうか、それともバスで行こうか。
事細かに考えようとしたら無限に考える事が出来る。
しかし、無限に考え続けていたら永遠に旅行には行けないだろう。
もう、事前に考えるのはここまでで終了!
と見切りをつけなければ行動は起こせない。

世のビジネス指南書では、相反する2つの事が言われている。
「まず行動する前に事前にしっかり考えてプランを立てる事」
「グダグダ考えるよりも先に行動行動、ひたすら行動!」
このような両極端の意見を前にした時、
普通の人は「どっちの意見が正しいのか?」と考える。
しかし何が正しいかなんてのは、文脈によって変化するものだ。
弁証法的に考えれば、相反する意見はどちらも真理に必要不可欠。
どっちが正しくてどっちが間違っているかという話ではなく、
両方踏まえて新しい意見が生まれる運動の全体こそが真理だ。

「今の」「私には」という具体的な文脈を設定して初めて、
どちらの意見が自分には必要なのかが見えてくる。
今の自分は考えすぎて何も行動を起こせていないとしたら、
考える前にひたすらアクションを起こすドンキホーテ的な思考こそ必要だし、
今の自分は何も考えず無鉄砲で闇雲に突っ走って失敗だらけだとしたら、
一旦足を止めてじっくり考えるハムレット的な思考こそ必要な事だ。
要はバランスである。
相反する片方の意見に留まりつつもう片方の意見に接近していくという、
弁証法的な営みの中にヘーゲル的な知識がある。

行動を生み出す源は思考である。
卵が先か鶏が先かでいったら思考が先だ。
「よし、これをやろう!」と決める思考力が無かったら、
植物人間になったかの如く何も行動を起こす事はできない。
しかしいつまでも考え続けていたら行動は起こせないというパラドックス。
何故こんな矛盾が生まれるのかというと、人間は2つの思考を使い分けているからだ。

意識的に考えず直感的に素早く行動を起こす思考を、
行動経済学では『ファスト思考』と呼び、
意識でじっくり考える思考を『スロー思考』といいます。
これらはシステム1とシステム2という呼び名が付けられているのですが、
それだと直感的に理解し難い、という理由でファスト&スローと呼ばれている。
直感的に理解できない物事をファスト思考は嫌うのです。

そしてこのファスト思考にとって「解らない」という状態は苦痛でしかない。
ドラゴンボールの様に重い服を着ようものなら、脱ぎたくて脱ぎたくてしょうがない。
しかしその状態に耐え、スロー思考でじっくり考え続けるから爆発的な変化が起こる。
ファスト思考は、既に最適化された同じ行動を延々と繰り返すだけ。
同じ事をやり続けて違う結果を求めるのは狂気の沙汰である。
同じ結果が欲しいならそれを繰り返せばいいが、
方向転換をして違う結果が欲しい時は、
一度立ち止まってじっくり哲学的な対話を為す必要がある。
とは言っても、ハムレットの様にいつまでも延々と考え続けるのもそれはそれで問題である訳だ。

ブログの記事を書きたかったらじっくり考える時間は必要不可欠だが、
ずっと考え続けていたらサグラダ・ファミリア教会のようにいつまでも完成せず、
永遠に記事をアップする事はないでしょう。
もうこれぐらいでいいや! と見切り発車をしなくては記事は書けない。
完璧を目指すよりもまず終わらせろ、である。
「今の」「自分に」必要なのはどちらなのかを考えてバランスをとりましょう。
この両者の間を行ったり来たりしながら発展していくのが弁証法的な営みです。

それでは、次回の記事までごきげんよう。

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