汝自身を知れ ―やるべき事を知る『べき』―

人は努力する限り迷う、と言ったのは確かゲーテだったか。
これさえやれば全ての問題は解決して心安らかに生きられる!
と思って見事成し遂げたら成し遂げたで、また新しい問題が出てきてしまう。

意志力さえあれば何でも出来る! と考えて意志力のマネジメントを始め、
ある程度までは自分の思った通りにマネジメントできるようになったら、
今度はまた別の問題が表れてしまった。
今まで回せなかった部分に意志力を分配できるようになったおかげで、
やりたい事がガンガン増えてきたまでは望ましい変化だ。
しかし、やりたい事は多々あれど「やるべき事」が解らない。

意志力が増えて出来る事が増えると、それに比例して選択肢も増える。
選択肢は無いよりもあった方がいいが、あり過ぎても困るのである。
例えばスーパーで醤油を買うとき、
たった一種類の醤油しか置いてなかったらその店で買おうとは思わないが、
商品棚に何十種類も置いてあったら今度は何を買ったらいいのか解らない。
行動経済学の実験では、24種類くらいないとお客は不満に思うが、
買うときは6種類以上あると購入に踏み切れないとの事。

やりたい事が一つ二つしかなかったら、
思いついた事はとりあえずやってみるというルールで良かったのだが、
やりたい事が増えすぎるとそれではとても捌けない。
自分は何をやるべきか?
自分の全ての判断基準となる根源を見つけなければいけない時期に来た。
最近ではそれをコアと呼ぶらしいが、自分のコアを知らなければいけない。
今まで必死で避けていた領域である。
これを知る作業は、言葉に出来ないほどキツイ作業なのだ。

何十時間もかけてブレインダンプでノートに書きまくり、
マインドマップで整理して抽象化して、
ラダリングでひたすら「何故?」と問いかけ続けて。

「よ~し、がんばってブレインダンプから始めるぞ」と決意する日が定期的にあったが、
その度ごとに挫折して、もう二度とやりたくねぇ! と途中で投げ出す事の繰り返し。
ブレインダンプってのは読んで字の如く、頭の中にあるもの全部を紙に落とし込む作業です。
ダンプカーの積荷の砂をザーッと全部降ろして、地面に山積みにしている所を想像すれば解りやすいかと。もう逆立ちしても何も落ちてこない程、全部を出し切らなくてはいけない。
これがあまりにもキツ過ぎるので、
「ブレインダンプなんかしなくても自分を知る方法はあるはずだ」と、
別のルートを探し続けてきたのだが、結局出発地点のブレインダンプに辿り着いてしまった。
幸せの青い鳥を求めて旅を続けてたら最終的に自分の家に辿り着いたチルチルとミチル状態だ。
もっとも、待っていたのは幸せの青い鳥ではなく大魔王であったが。
「フハハハハ。知らなかったのか。大魔王からは逃げられない」
もはやライオン仮面やオシシ仮面並みに逃れる事はできない。
これを避けたら、次の段階へは進めない領域にまで来てしまったのだ。
自分は何をやりたいかではなく、何をやるべきなのか?
自分の根源は何なのか?

根源は何か? というのは誰しも子供の時に親としている会話である。
「ねぇ~、パパー。このヨーグルトはなにで出来ているの?」
「牛乳だよ」
「じゃあ、牛乳はなにで出来ているの~?」
「水とカルシウムとたんぱく質だよ」
「じゃあ、たんぱく質はなにでできているの~?」

これらの質問を繰り返していった時最終的に辿り着く答えは、
一昔前の科学の世界では「全ては原子で出来ている」である。
今ではそれよりも更に掘り下げられていて、
その原子ですら素粒子が集まって出来ているという事になっている。
これ以上細かく分けられない根源だ。

「自分」という存在も、深く細かく掘り下げ続ければ、
これ以上分割できないコアにまで辿り着く、はずだ。
ひょっとしたらタマネギみたいに、皮をむき続けたら何も無くなってしまうかもしれんが、
核となる「自分」があると信じて今は皮をむき続けようと思う。
やってみなけりゃ解らない、って世界なので。

確固とした独立普遍の「自分」なんてありやしない。
自分というのは、自己と環境との対話の中にのみ存在する。
―――――というのが俺のスタンスでそれを土台に今までの記事を書いてきた。
勿論、今でも変わらずそう考えているのだが、
それとは別に確固として変わらない核となる自分もあると考えている。

何でそれを選んだの? と問えば、そこには必ず理由がついてくるだろう。
例えば、必死で受験勉強をしている人が居たとしよう。

「何で勉強しているの?」
「大学に合格する為さ」
「何で大学に合格したいの?」
「大学で勉強する為さ」
「何で大学で勉強したいの?」
「数学を学んで中学校の数学の先生になる為さ」
「何で中学校の数学の先生になりたいの?」
「中学生の時に凄いお世話になった数学の先生がいて、その先生みたいになりたいからさ」
「なんでその先生みたいになりたいの?」

この問いは、上でも書いた親子の会話と構造は同じです。
ヨーグルトだろうが机だろうが雲だろうが、
対話を延々と続けると全ては素粒子にまで辿り着く。
そしてこの受験生との対話でも「○○だから」という理由を延々と掘り下げていくと、
最終的には「○○だから」という理屈では決して説明できず、
これ以上分割できない所にまで辿り着きます。
それがその人のコアであり決して変わらない根源です。
「○○だから」というのは、環境からの問いかけに答えたものだ。
中学校ではなく高校で素晴らしい先生に会っていたら、
この受験生は高校の先生になりたいと思っていた事だろう。
その先生が数学ではなく国語の先生だったら、
この受験生は国語の先生を目指したかもしれない。
環境が変われば、自分の決める事もコロコロ変わる。

これ書いてて思いついたのは屋台で綿アメを作るシーンだ。
芯となる棒を、あの不思議な機械に入れてクルクル回すと、
芯の周りにアメがまとわり付いて大きい綿アメができる。
芯がなかったら綿アメはできないが、
芯だけ取り上げてこれは綿アメですというのもトンチンカンな話である。
全部含めて綿アメだ。

自分の中のコアというのは、この綿アメの芯みたいなものだ。
そのコアを環境に入れてグルグル回すと「自分」という人間の出来上がり。

「○○だから」という理由を一切合切剥ぎ取った後に残るのは、
純度マックスまで抽象化されたキーワードになるだろう。

好奇心・ワクワク感・チャレンジ・安定・成長・充実感などなど。

俺はチャレンジしたいからチャレンジするんだとか、
俺は成長したいから成長するんだという、
実にカントの定言命法的な行動基準がでてくる事だろう。
どんなキーワードが残るかは解らないが、それがあなたのコアです。

意志力を学ぶ時にまずやるべき事は意志力を余らせる事だが、
その余った意志力は何に使う『べき』か?
もう自分の『やるべき事』が解っているのならそれに回せばいいが、
そうでないならば、この自分のコアを知る事に使う『べき』である。
意志力さえあれば何でも出来るが、
何でも出来るが故に逆に何も選べなくなって立ち往生する事態がおきる。

これだけは他人に代理して貰う事はできず、自分でやらなくてはいけない。
心理学者やコンサルタントの用意したタイプ別分類に縋りたくなっても、
あくまでそれは参考程度に留めなくてはいけない。
あなたがどんな人間なのかは、あなたが知らなくてはいけないのだ。
他の誰も、あなたの事をあなた以上に真剣に考えてくれる人はいません。
自分の事を知る責任は自分にあるのです。

そしてこれには、莫大な意志力を必要とする。
何十時間、何百時間と考えても答えが解らないかも知れない不安や恐怖に耐え、
誰にも頼れず全部自力でやらねばならない孤独に耐え、
それでもなお知ろうとし続けて前に進めるだけの意志力が。
ヘーゲル的に言えば、決して解る事は無いがそれでも解ろうとあり続ける態度こそが、
自分を知るという営みである。

自分のやるべき事を知るには自分のコアを知らなくてはいけないが、
仮に自分を全部を知ったとしても、それだけでは片手落ちという絶望的な事実がある。
自分だけでなく、他の人間の事も知らなくてはいけないのだ。
やるべき事というのは、2つの要素で成り立っている。

1、自分にとって大切な事。
2、他人にとっても大切な事。

自分にだけ大事で他人には大事な事でないならば、
周囲に迷惑かけないように無人島ででもやってくれって話だし、
他人にとって大事だが自分には大事でないなら、
それは「俺が」やる事ではない。あんたが勝手にやってくれって話だ。

自分は何が大切で他人には何が大切なのか?
両方知らなくてはやるべき事は見えてこない。
「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」
というカントの言葉が、ようやく実感を伴って重くのしかかってくる。
かつては意味不明な言葉だったが、今では現実感のある重さを伴うまでになってきた。

自分を知る事に伴う孤独や不安に耐えられる程の意志力がまだ無いというのであれば、
避けて通るのも一つの選択肢です。
しかし遅かれ早かれここに戻ってくる事になるでしょう。
俺は散々回り道をした挙句に戻ってきてしまいました。
どんなに世界から逃げ回る事ができても、自分からは決して逃れる事はできない。
余った意志力で何をやる「べき」なのか?
それを考える事が意志力について学んだ人間の次の課題です。

それでは、次回の記事までごきげんよう。

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