一人で成長できる限界点

野に孤立する木は曲がりくねって生長し、その枝を拡げる。
これに対して、森の真ん中に立つ木は、そばの木がこれに逆らうので真っ直ぐ生い立ち、空気と日光を上に求める。君主についても同様である。

イマヌエル・カント『教育学』

今回取り上げるのはカントの言葉についてです。
カントは哲学を学ぶ上で重要な役割を担っている、らしい。

「カント以前の思想は全てカントに流れ込み、
カント以後の思想は全てカントより流れ出す」

という、巨大なダムの如き比喩で表現されている存在だ。
実際、それ以後のドイツの哲学書では、なんの説明もなくカントの引用があるのが殆ど。
ドイツの哲学者がカントについて語るのは、
イギリス人が天気の話をするくらい当然の事なのです。

「勿論あなたもカントを読んでいますよね?」という調子で何の説明もなく話を進めるので、カント以後の哲学書を本当の意味で理解したかったら、カントをしっかり理解する必要がある。哲学者どころか、フランクルの様な精神科医でさえカントを読んでいる。

本気で哲学を学びたかったら避けては通れない道なので、カントを読む事にした。
代表作である『純粋理性批判』や『実践理性批判』等、読んでいる姿を人に見られたら、
「何の本読んでるの? うわぁ~、何か凄い難しそうな本読んでるね。凄~い」と、
言われそうなラインナップであるが、ぶっちゃけ正直に言ってしまうとどうなるか。

すいません! 難しすぎて何書いてあるのかサッパリ解りません!

何故難しいのかというと、自分の人生経験と全くリンクしないから。
筆者は心理学関係の本を読むのが大好きなのだが、
何故心理学の方は面白くスラスラ読めるのかというと、
自分の人生とリンクしているから。何かの実験結果等を見る度に、

「あ~、だからあの人はよく怒っているのか~」とか、
「だから俺はあの時死ぬほど頑張れたのか~」とかみたいに、

自分の人生経験と書いてある事との繋がりを見出せる。
人間の行動理由を説明できるのが楽しい。
一つ具体例を出してみましょう。
ある心理学の実験で「安い賃金は高くつく」ってのがある。

とある工場で、賃金と工場の部品の盗難率の関係を調査した実験があった。
すると、安い賃金で働かせる程、盗難率は高くなるという結果が得られた。
これはどういう事かというと、
払われなかった分の賃金を盗難で補おうとする心理が働くから。

これを知った時は大笑いして、色々納得しました。「だからか~」と。
色々なバイトをしてきましたが、その経験からこの実験結果は正しいと言える。

例えば格安の時給で働かせる飲食店はどうなるのかというと、
バイトの「つまみ食い率」が大幅にアップします。
残った腐りかけの食材を食べるとかではなく、
お客に出せる新鮮な食材ですら食べます。
古参のパートのおばちゃんなんかは、
「私は時給1000円以上の働きしているんだから、これくらい当然でしょ」
と言わんばかりに堂々と皆の前で食べてましたからね。
店の収支表には「不透明なお金の流れ」が沢山あった事でしょう。
その店は、ジャスコの店内という一等地に恵まれながら潰れました。
土日はあれほどの人でごった返していたというのに。
潰れる寸前は、更に人件費を削って何とか切り抜けようとしたのかな。
そうだとしたら笑いが止まらない。
「あんな店潰れてもいいよ」と思って仕舞うほどぞんざいな扱いを受けて働いてた店なので、潰れても全然心は痛まない。

しかし単純に給料だけで決まる訳でもない。別のケースも経験した。
個人経営のこじんまりしたラーメン屋で働いていた時の事だ。
給料は格安だったが、そこではつまみ食いをしようとか、
いかにしてサボろうかとかは全然考えなかった。
むしろ一生懸命店の為に働いた物である。
給料低くてすまんな、けどその代わり余った飯は好きなだけ食っていってくれ!
という感じだったので、腹いっぱいになるまで美味い飯を食うことができた。
ラーメンの丼に山盛りてんこ盛りで盛られたチャーハンを食った時は感動したものだ。
兄貴肌の従業員にやたらと可愛がられ、毎回お金を渡され、
「これで皆の分のコーヒーとタバコ買ってこい」と命令された。
俺は喜んでコンビニに向かい「買ってきました兄貴!」「うむ、ご苦労」と、
縦社会の様式美を演じて、働くたびにタバコを奢って貰った。
他にも色々大事に扱われたので、サボるなんてとんでもない。

大事なのは単純に給料が多い少ないではなく、給料以上の待遇を受けているか否か。
給料以上の待遇を受けている時は、余分な分を返そうとお店の為に頑張って働くし、
給料以下の待遇の時は、不足分をつまみ食いやらサボリやらで補おうとする。

これで説明できる事例が演繹的にいくらでも思いつくから面白い。
何故酒を飲まない俺が居酒屋で働いていた時、
仕込みの時間にガブガブ店の酒を飲むなんて暴挙を起こしたのか。
何故長年同居していた女性が別れる時は、
ありったけの家財を奪えるだけ奪って去っていくのか。
この心理実験の話だけで一本の記事が書けると気付いたが、
既に後のフェスティバルだ。

強引に話をカントに戻す。
カントが難しくて面白くないのは、俺の人生と何のリンクもしないから。
抽象化され過ぎていて、現実世界の何を描写しているのかサッパリ見えない。
要するにカントを理解するには人生経験が足りない訳ですね。
しかし世の中には10代でカントを読破したと豪語する天才もいる。
なんか悔しいので、とにかく現時点で読める著作を必死に読んでいた。
そしてここ最近「ああ、こういう事だったのかぁ」と、
ようやく理解できる体験をした著作がある。
それが冒頭に引用したカントの『教育学』だ。
萬葉堂書店で全集をチマチマ買い続けてて良かった。

冒頭部分をもう一度引用して詳細に解説していきます。

「野に孤立する木は曲がりくねって生長し、その枝を拡げる」

「これに対して、森の真ん中に立つ木は、
そばの木がこれに逆らうので真っ直ぐ生い立ち、空気と日光を上に求める。」

木が育つ様を描写している訳ですが、これは実にうまい比喩表現だと思った。
周囲に何も遮蔽物が無い所では、木は真っ直ぐ育たないという訳だ。

もし周囲に何もない原っぱに木を植えたらどうなるか?
これの凄く解り安いイメージは、CMでおなじみの「♪この~木なんの木、気になる木~」で映っている木を思い浮かべてみて下さい。グーグルで画像検索すれば一発ですね。
周囲に何もない所では、枝は四方八方に拡がるのみ。

それに対して周囲を木々で囲まれた森の木は、
日光を求めてひたすら上へ上へと伸びていく。
イメージは屋久島の縄文杉ですね。
数少ない養分を使って枝を伸ばしている暇はない。幹を伸ばさなければ枯れてしまう。
屋久島の縄文杉があれ程高く聳え立ったのは、
切磋琢磨せざるを得ない木々に囲まれていたから。
全力で日光を求めない杉は生き残れない。
根元には極少の日光でも育つコケが生える程度。
建築材として使う為に育てている杉林が真っ直ぐに育つのは、杉の性質なのではなく、密集して植えたり、余計な枝を刈り取っている人間の技術の影響が大きいと思われる。
日光が欲しかったらひたすら上へ伸びるしか選択肢が無いのだ。

おそらくだが、これは人間も同様なのだろう。
上に向かって成長するかどうかは、周囲の人間関係の影響が大きい。
成長しないと生き残れない様な人間に囲まれたら、もう成長するしかない。

成功哲学なんかでよく言われている事がある。
「あなたの周囲の人間の年収を平均したのが、あなたの年収になります」
だから金持ちになりたかったら、金持ちの人達に囲まれましょうみたいな事を言われる。
成長するかどうかは周囲の人間関係にかかっているという意味において、この教えは正しい。
貧乏人は金持ちと付き合いたいだろうが、金持ちは貧乏人なんかと付き合いたくないよな、って所に目を瞑れば素晴らしいノウハウだ。理論は正しいが、実行は不可能か非現実的なノウハウで溢れているのが巷の成功哲学。

もしもこのノウハウを実行しようとするならば、大金を払って金持ちのコミュに所属するか、周囲の人間を金持ちにするってのが現実的だと思われる。
少なくとも、自分の年収「だけ」上げたいんです!
その為にあれを「ください」、これをして「ください」、
私にお金と知恵を「恵んでください」という、
一方的に相手から奪っていくだけの乞食に実行できるノウハウでは無い。
なので、乞食が成功哲学を読んでも成功しませんよ。

他にも色々納得できた事がある。
クリエイターの話になるが、俺は売れている時よりも無名の新人として活躍している時の方が好きな事が多い。
全くの無名の新人として、屋久島の縄文杉に囲まれたジャンルに足を踏み入れる。
何とかして日の目を見る為に成長していこうと、
全力で頑張っている姿を見るのが好きなのだ。

ところが売れまくって有名になり、周囲にライバルとなる大木がいなくなると、
なんか舐め腐った態度になる事が多い。もう成長する事を辞めてしまうのだ。
「この俺が出せば大ヒットするに決まっているだろ」と、ファンの人気にあぐらをかいて、
かつての情熱が全然伝わってこない作品を、生活費の為だけに乱造する。
それでも買ってしまうのがファンや信者だから悪循環だ。
ファンや信者だけを相手にする閉鎖空間に閉じこもったら、
もうクリエイターとしての成長は無い。
その手の人間を、俺はニコニコ動画で数え切れない程見てきた。

ちなみに世に言う「一発屋」という現象もこれで説明できそうだ。
誰も足を踏み入れた事がない領域に、
全く日光を遮る物がない土地に一番に飛び込む。
ライバルが居ないので簡単にトップの座に立つのだが、
切磋琢磨できるライバルがいないのでそれ以上成長できずに終わる。
後進が続けば「パイオニア」と呼ばれるが、続かないと「一発屋」と呼ばれる。
ライバルが参入してこないブルーオシャンに価値は無いのです。
たった一人で成長できる領域には限りがある。

今まで俺は、独りで成長できるならそっちの方がいいと考えていた。
そうでなかったら、誰が時間を捻出してまで本を読むというのか。
下らなくてしょうもない日常会話を聞かされるのが大ッ嫌いだった。
世界を動かしたり、何万人もの人間の人生を変えた賢人偉人の言葉が、本を開けば語りかけてくるというのに、なんでわざわざ目と耳が口と直結している頭を使わない凡人の暇潰しの会話に耳を傾けなければならんのか。
飲み会とか意味不明の行事だと考えていたぐらいだ。
そんな事に時間を使うくらいだったら、独りで本を読んでいた方が成長できる。

しかし、その成長には限界点がある事もここ最近の経験で気付いてしまった。
正確にいうと、周囲の人間と関わる環境に身を置いてからの成長が桁違いだったのだ。
周囲に誰もいない環境だと自分がいつでも頂点な訳だから、
「今日はこれくらいでいいや。頑張った頑張った」と自分の基準だけで判断してしまうが、
周囲でもっと頑張っている人間を見ていると、今までの自分の行動は全然頑張った内に入っていない、カスリもしていない事に気付かされた。

独りでも「♪この~木なんの木、気になる木~~」くらいまで成長はできるのだろうが、
今までの俺の人生振り返ってみると、気になる木どころかもやし栽培に近い。
日光を一切与えず、種子の養分だけで成長させると、ヒョロッヒョロのもやしが出来る。
完全に引き篭もって本だけで成長しようとする、もやしの様な人生だった。
独りで成長できる限界点まではもう成長していた。これ以上の伸びしろは無い。
だからこそ、人と関わるようになってからのここ最近の成長が楽しい。
共に成長していけるコミュの存在はとても大きい。

いきなり屋久島の縄文杉で埋め尽くされているコミュに入ったら、
日光を求めて必死で成長するどころか、
僅かな日光で生きながらえるコケになってしまう。
しかし、いきなり頂点にたてるコミュに入っても、ダラダラと横に枝を伸ばすだけ。
ベストなのは、ボンヤリしてたらすぐ日陰に囲まれるが、
頑張れば日が当たるまで成長できるぐらいのコミュニティ。
誰かが成長すればする程他のメンバーも成長せざるを得ない、
お互いに切磋琢磨していける現在進行形のコミュがベスト。

一番最初の記事で書いたシュタイナーの言葉、「あなたを一歩前進させる」の意味が、
ようやく実感を伴って理解できるようになりました。

それでは、次回の記事まで御機嫌よう。

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