勉強嫌いな学生が勉強しない為に使う言い訳で頻繁に使われる言葉。
「学校の勉強が人生で何の役に立つんだ」
何故これが言い訳だって断言できるのかというと、
じゃあこの学生は人生で役立つ事を必死で勉強しているかというと全然そんな事はないから。
「俺は将来サッカー選手になるんだから、サッカーと外国語以外勉強している暇は無い!」
みたいに明確な目標に向かっている訳でもなく、
ダラダラスマホ弄りまくるという実に無駄で「何の役にも立たない」事を平然とやっている。
役に立たない事はやらないんじゃなかったのか?
「知識よりも重要なのは創造力だ」というアインシュタインの言葉は、
この手の学生達がとても気に入りそうな言葉であるが、
もしアインシュタインのこの言葉を座右の銘にしている外科医がいたとしたら、
とてもじゃないがどんなに死に掛けの重症を負っても、この外科医にだけは体を預けたくない。
学校の勉強は生きていく上で必要なのか? 役に立つものなのか?
結論だけ先に書いておくと、とても役に立つ。
生きていく上でとても大切、というか、
社会は学校に行っていないと非常に生き辛い構造になっている。
「学校大好き、チョー楽しいー!」って人は社会に出てからも人生を謳歌してるだろうが、
学校が嫌い、自分に全く合っていないという人は、相当に生き辛さを感じる世の中だ。
この生き辛さは一体何に由来するのか? というのが今回の記事のテーマです。
最近の筆者は近代哲学を中心に学んでようやく見えてきた事があるので、
それを自分用の備忘録としてまとめる為に書くことにした。まあ要するにいつも通りですね。
何故学校が誕生したか?
学校の歴史は案外浅い。
はるか昔から存在していたものではなく、
日本でもここ100年程前になってようやく誕生したものだ。
それまで学校は必要無かったのだが、ある時期から必要になってくる。
それはいつかというと、産業革命により大量の労働者が必要になった時期だ。
その時期になると、学校で色々と教える必要性が出てくる。
学校とは一体何を教える場所なのか?
国語算数理科社会・・・・・・・・・じゃないですよ。
それは表のカリキュラムとでも言うべきもので、本当の目的ではない。
裏側にもう一つ、隠されたカリキュラムがあります。
それは何かというと、以下の3つです。
学校の隠されたカリキュラム
①、命令に従順である事
②、時間を厳格に守る事
③、単純な反復作業を苦痛に思わない事
以上の3つを備えた人間を育てる事が、学校に課せられた重要な使命です。
産業革命で、農民が工場労働者として働くにはこの3つを徹底的に叩き込む必要があった。
農民の時の様に、いつ働くか勝手気ままにきめて、酒やタバコをやりながら作業して、
疲れたら自由に休むみたいな働き方だと、工場が成り立たない。
時間通りに出社して、一切反抗する事なく言われた事をひたすら繰り返す人間が必要。
むしろ人間ではなくロボットの方が必要だが、
産業革命の時代にロボットはいないから仕方なく人間をロボット化する。
現代で工場を作るときは、労働力の安い海外に工場を設置したりするが、
近代化が進んでいない発展途上国だと、上の3つを守らない人ばかりで大変らしい。
近代化に成功するには、上の3つのカリキュラムを国民に徹底する必要がある。
学校にはルールを守る為のルールみたいな物がいくつも設定されている。
「何故」そのルールを守るのかという事を一切伝えず、
とにかくルールなんだから守れというルールだ。
一切疑わず、反抗せず、黙って従う子供が「良い子」であり、
みんな「良い子」になりましょうと子供に教えるのが学校の重要な役目。
隠された3つのカリキュラムを徹底的に叩き込むのが学校の使命です。
教師の言う事に疑いも反感も抱かず、
遅刻もせず時間割通りにキッチリ一日を過ごし、
与えられたタスクを黙々とこなし続ける子供こそ社会が望む理想の「良い子」だ。
これが出来ない子は悪い子であり落ちこぼれであり問題児です。
予備校や塾での良い授業というのは、教え子がしっかりと学べる授業が良い授業だが、
学校での良い授業というのは、学べたかどうかは一切関係なく、
全員がちゃんと出席して黙って机に座り続ける授業こそが良い授業だ。
学級崩壊なんてしようものなら、最大の失敗例として槍玉に挙げられる。
姿勢良くビシッと座り、身じろぎせずに授業を受けさせるのは効果的な管理法だ。
ミッシェル・フーコーが言う「従順な身体」ってやつです。
身体的にだけでなく、心理的にも従順させられる。身体ってのは実に従順なんです。
学校は、授業が解ろうが解るまいがとにかく子供を時間通り教室に足を運ばせなくてはいけない。
そうやって社会に適合させるように絶えず管理している訳だ。
なら適合できなかった社会不適合者はどうなるのか?
そういう人間は、刑務所や精神病院や介護施設に隔離して社会に出させない。
そこら辺はミッシェル・フーコーの『監獄の誕生』に詳しい。
近代化された社会で生き抜く3つのスキル
学校の勉強は社会で生きていくのに必要だと冒頭に書いた。
その理由は、近代的な組織で生きていくのに必須のスキルが、
隠されたカリキュラムの3つだからです。
①、命令に従順である事
②、時間を厳格に守る事
③、単純な反復作業を苦痛に思わない事
近代的組織はこの3つを前提に運営されているので、
この3つさえ備えていれば、どこの組織でも最低限やっていく事ができます。
そこに個性とか独創性とか創造性なんて不純物は一切必要ありません。
むしろそんな物あったら、組織運営の邪魔になります。
自分の頭で考えて言われてない事を勝手にやったりせず、
時間通りに出社して、言われたことだけただやって、それをひたすら繰り返すだけでいい。
仕事の成果に関係なくそれで給料は発生するんです。
専門知識が必要なスペシャリストの仕事は無理でも、
誰でも出来るマックジョブな仕事なら、
この3つさえあればどこに行ってもやっていけるし、重宝される事になります。
個人的な話なのでどこまで共感されるか解らないのだが、
筆者の経験だとアルバイトは大学生よりも高校生の方が仕事が出来るし、皆から重宝される。
何故かと言うに、高校生はあまり遅刻しないし、言われた事を素直にやるからです。
特にバイト馴れしていない初々しい高校生だとなお良し。一切反抗せず言われた事をやる。
これが大学生になってくると話が変ってくる。
大学と言うのは、自分で授業の時間割を作って遅刻したりサボっても文句を言ってくる人がいない。
自分を中心に世界を動かせる環境に馴れてきているので、
遅刻する事が多いし、命令口調で指示すると舌打ちするし、隙あらばサボる。
勿論全員がそうって訳ではないが、大学生バイトだとそういう人が多かった。
近代的組織で重宝されるのは、ちゃんと上記3つのカリキュラムを体得している人なのです。
この3つさえあれば、他の細々としたスキルや知識は必要ない。
本当に「誰でも出来る」システムで構築されているのが近代的組織だ。
「あなたがいないとこの会社はやっていけない」みたいに、
個人に依存しているのは組織としてはとても危うい。
「お前の代わりなんていくらでもいるんだよ」と言えるのが磐石な組織である。
昔、筆者がテレビショッピングの電話オペレーターをやった時の話だ。
時給がいいので取り合えず申し込んだ物の、
自分に出来るかどうか不安になったがそれは全くの杞憂だった。
そこの会社が用意しているマニュアルが「完璧」と言える程に素晴らしい物だったから、
もう用意された台本にそって喋るだけでいい。
お客様がイレギュラーな事をいった場合でも、
その台本のフローチャートに「○○ページを開け」とちゃんと書かれているので、
パラパラとめくってまた読み上げるだけでいい。
初めは心臓ドキドキさせながら電話を取り上げていたのが、
40分も経つ頃には片手でクルクルとペンを回しながら余裕の対応をするまでになった。
セールストークとか流暢な会話のスキルとか一切必要ない。
自分では一切何も考えず余計な事をせず、
ただ黙ってマニュアルに従うだけでいいし、それが求められている。
余談だがこのテレビショッピングの仕事は色々見れて面白かった。
5,000円のバッグとか20,000円の空気洗浄機に混じって、
30万のダイヤや黒真珠が混じっている。
テレビ見ただけで30万の宝石買う人なんているのかよと思っていたが、即完売しました。
すいません、売り切れてしまいましたと断りの電話を入れなくてはいけない位だ。
あまりにも印象に残ったのでいまだに覚えているやりとりがある。
「あ、今でテレビやってた、あの真珠のネックレス頂戴」と中年男性の声。
「ネックレスですね。ネックレスの長さは○○cmと△△cmの2種類ございます」
「長さ? あ、ちょっと待ってね。おーーい、お前ネックレスは何cmのが欲しい?」
電話を置き、奥さんに確認する声が聞こえて驚いた。
この人は奥さんに確認する訳でもなく、テレビ見てそのまま電話した「衝動買い」のお客様な訳だ。
30万を気軽にポンっと出す世界を現実の出来事として初めて目の当たりにした。
テレビで見ただけだから、実物の宝石をじっくり鑑定した買い物ではない。
「テレビで見たときより綺麗じゃなかったな」みたいな事が起きても痛くも痒くもないレベル。
高額商品は分割払いに対応しているのだが、高額商品を分割で払った人は誰もいない。
皆現金一括の代引払いです。
預金通帳と睨めっこして、
今後の生活費のやりくりを考えてから購入を決める腰の重い人間では買えない世界です。
色々な世界が見えて本当に面白い仕事だった閑話休題。
近代的「社会」というのは上記3つのスキルを前提に運営されている。
試しに、もし全ての人間が時間を守らなかったら社会はどうなるのか想像してみると面白いですよ。
そして社会を運営する為に必須なのが学校の存在という訳です。
社会に適合できる、良い子を育てるのが学校の使命。
だからちゃんと学校で学んでいれば、最低限生きて行くことは出来る。
学校で教えられている事に一切の疑いを抱かず素直に従って生きているのであれば、
それはそれは実に生き易くて楽しい人生になる事でしょう。
しかし、世の中にはありとあらゆる事に疑いを抱く厄介な人間がいる。
それが哲学者という実に面倒くさくて生き辛い生き方をしている存在だ。
ここで記事を終われば楽しく生きる方法が解ってハッピーエンドで終われるのだが、
それでは満足できずあえて自分から絶望しようとする人間がいる。
「絶望」の対義語は「希望」かと思われるかもしれませんが、キルゴールはそう考えない。
絶望について事細かく考えたのはキルケゴールであるが、
キルケゴールに言わせれば「絶望」の対義語は「信仰」です。
微塵も揺らがない信仰状態の人間の心に絶望が入り込む隙間はない。
学校や社会の教えを信仰できるのであれば、未来はハッピーであるが、
そんな強い信仰心の持ち主がどれほどいると言うのか。
どこかで「なんか違う、なんかおかしい」という絶望に誘う心の声が聞こえてくる。
この心の声はどこから来るのか、というのか今回のテーマ。
それでは、本日の哲学談義を始めて行きましょうか。
迫り来る実存の危機
学校や社会が理想とする「良い子」を哲学用語で示すなら、
ハイデガーの「世人(ダス・マン)」がそれにかなり近い。
この世人というのはどういう人間なのかというと、
一言でいうのであれば「だれでもない人」です。
みんなと同じ事を言い、みんなと同じ事を考え、みんなと同じ行動をとる。
自己の主体性を失って、みんなから区別すべき独自の内容を持たない。
「みんな」それ自体に埋没していて「自己」がどこにもない。
最早誰でも無いので誰とでも交換可能な存在。
これをハイデガーは世人と呼びます。
これで思い出すのが、ツイッターで沢山リツイートされたとある入社式の写真だ。
みんな同じ服、同じ髪、同じ表情。
もはや区別がつかず、自ら誰でもない人になっている。
就職の為の最善の戦略が「周りと同じ事をして、決して目立つな」である以上、
彼女達の振る舞いは極めて合理的な生存戦略に他ならない。
ツイッターでは画像をみてキモイだの没個性だの好き放題批判してる人ばかりだが、
批判するのであれば学生ではなく、こういう人間を求めている企業の方を批判しないと的外れだ。
企業側がタクトを振れば学生達はそれに合わせた生存戦略に変える訳だし。
「まるで工業製品みたいだな」というツイートも見られたが、
工業製品みたいなのではなく、工業製品です。
みんな同じになるように学校という工場で生産された訳ですから。
一人の教え子に一人の先生がつくというハンドメイドで作られていません。
キルケゴールが『死に至る病』で述べた「自己自身を喪うという本当に一番危険な事が世間ではまるで何でもないかののようにきわめて静かに行われ得るのである」の言葉通りに。
自分がどんな名前でどんな人間だったかも忘れ果て、
自分自身であろうとするという大それた事よりも、
他人と同じ方がずっとずっと楽で安全だという考えに至るようになる。
だからと言って、自ら世人に成り果てる事は生きる上で必ずしも悪い事ではない。
それは先にも述べた通り。
自己自身を放棄している人間は、
まさにその事によってかえって世間の取引を上手くやっていくコツや、
世間で成功するコツを体得していくとキルケゴールも述べている。
確かにそうだろうなと思う。
「これは『俺が』やるべき仕事じゃない!」とか、
「『俺は』こんな事をしたくない!」みたいに、
やたら我が強かったら上手くいかないことの方が多い。
商売で上手くやっていきたかったら「自己」なんて余計な物は持たずに、
ひたすら「世間」に併せて自分を変えていけばいい。
マーケッターと呼ばれる人達で成功しているのは大体そんな感じの人ばかりですね。
世間で求められている物を作って売る。ただそれだけの事を何の躊躇いもなく出来る。
ベストセラーの本が誕生すると、皆が皆同じ事を書きはじめる。
アドラーが流行ったらみんなアドラーの本を書き始め、
震災が起きると書店に震災コーナーが出来る程大量に出版され、
ラノベの異世界転生物が売れるとみんな異世界転生物ばかり書き始める。
世間が求めている物を書けないんだったら、自費出版でないと本は出せません。
上手く生きていけるんだったらそれでいいじゃないかという話だが、
それに絶望する実存の危機はある日突然やってくる。
実存とは何かと言うと、世間一般の考えとは関係なく、
自らの考えに従って主体的に生きる存在を実存と言います。
普遍的な真理ではなく「私にとって真理であるような真理」を追求する哲学の一派が、
キルケゴールを祖とする実存主義です。
世人というのは主体性のかけらもありやしない人間なのだから、
そもそも最初から実存しておらず、実存の危機もクソもないのでは、って話だが、
その段階は実存の第一段階として真の実存に至る必要なステップでもあります。
キルケゴールは、真の実存に至る道のりを3段階に分けました。
これを「実存の三段階」と呼びます。
①、美的実存
②、倫理的実存
③、宗教的実存
第一段階から第三段階まで、一歩一歩順番に登ってようやく真の実存に至る旅路です。
第一段階は、欲望のまま快楽を追求し感覚的に生きる生き方。これを美的実存と言います。
欲望のまま生きるというのは、食う寝る子供を増やすの動物的な欲望から、
モーツァルトの曲を聞くという高尚な欲望まで含みます。(キルケゴールはモーツァルト大好き)
親が子供に言い聞かせる
「ちゃんと学校で勉強して、いい会社に入って、幸せな人生を送りなさい」という時の、
幸せな人生というのは大体美的実存の事を意味している訳だ。
美的実存で幸せを感じたまま居られるなら問題は無いが、
この生き方はバランスを欠いた生き方なので、実存の危機が常にある。
「人間とは何か?」という問いに対してキルケゴールは、「人間とは綜合である」と答える。
相反する異質的で矛盾する2つが綜合されて出来ているのが人間だ。
キルケゴールが例として出しているのは、
肉体と精神
必然と自由
時間性と永遠性
有限性と無限性
そして人間はこれらの綜合でありながら、美的実存の生き方はこの片側一方、
左側の肉体、必然、時間性、有限性のみを追及した極めてバランスの悪い生き方なのだ。
それ故美的レベルの実存はいつか必ず絶望に終わる。
何故かと言うに、キルケゴールの見解に従えば、
人間は感性における生活では決して満足できない何か別のものを、自らの内に持っているからだ。
この何か別のものが永遠なる物であるという。
美的実存は片側のみを強調するが、ところが人間にはもう片方もあるのであって、
それが不穏な物としてシグナルを発してくる。
このシグナルが「不安」と呼ばれる物の正体です。
火災報知機の様に、不安が絶えず緊急信号を発していながら、
それでもなお美的実存に固執する人間は「絶望」に終わる。
不安と絶望。この2つに関してはキルケゴールの2つの書物、
『不安の概念』と『死に至る病』に詳しい。
この事に関しては、哲学者ではなく宗教学者であるエリアーデも
その著書『聖と俗』で同様の事を述べている。
聖と俗。どちらか一方だけに偏ると人は実存の危機に陥る。
聖なるものも俗なる物も、偏る事なくバランスよく触れていかなくてはいけない。
キルケゴールの文脈でいうなら、上の4つの綜合の内、
左側が俗なる物で、右側が聖なる物に当たりますね。
美的実存は綜合の片側だけを強調する生き方であるが、
その時に発せられる不安の呼びかけを通して美的世界に不満を持った人間は、次の段階へ進む。
それが第2段階の倫理的実存です。
この倫理的実存とは何かと言うと、第一段階の美的実存に絶望した人間が、
社会貢献を通して自己を実現させていこうとする生き方を意味します。
自分の欲望を超えて、世のため人のため、
綜合の内のもう片方である永遠なる物を追求しようとする過程。
しかしこれもやはり絶望に終わることになっています。
最初の方はこの有限なる時間の中で無限なるものを追求できると素直に信じているが、
最終段階になると、それが自分の力だけではどんなに出来がたい事かを認識するに至る。
その認識に至るまで成熟した人間になって初めて、
最後の第三段階、宗教的実存の世界に足を踏み入れる事ができる。
自分の限界を知るまで努力して初めて、自分を超えた存在、
すなわち神の前にただ一人立つ事ができるという訳だ。
その時こそが真の実存であり、初めて本来の自分を取り戻せるとキルケゴールは考えた。
なんという長い旅路になりそうな生き方である。
キルケゴールが目指す実存は、良い子として、世人として、大衆に埋没する生き方ではなく、
例え不安と絶望に押しつぶされそうになっても、
自分の信じるもの(キルケゴールの場合は神)に従って生きる生き方です。
世人達が皆同じ格好で同じ事を言ってきても、場の空気に流されず自らの生き方を生きる。
何故その様なしんどくて大変な生き方を選ばねばならないのか?
もしもあなたが世人として主体性を何も持たず、
ただ欲望を追求するだけで満足できるなら別に問題は無いが、
少なくともあなたはこんな記事をここまで読んでしまう様な人間なのだから、
「不安? 絶望? なにそれ~、私毎日ハッピーよキャハハハハ」という、
実存の危機とはまるで無縁の人間ではないはずです。
もう片方の自分が発してくる「不安」という警報に気付いてしまった側の人間だと思います。
その不安を紛らわして覆い隠す為に世人達は常に気晴らしを求め続けている。
パソコンやスマホという実にわかり易い気晴らしから、
ひたすら仕事に没頭するという形を変えた気晴らしまで。
何もしていないと、押しつぶされそうな勢いで不安が迫ってくる。
一日の内で、何もしないでいる時間がどれくらい有りますか?
1時間や30分とは言わず、5分だけでいいので瞑想が出来ますか?
5分どころか、1分もしない内に集中力が途切れて何かをやらずには居られなくなってしまうのが
不安から必死で逃れようとしている人だ。
しかしどんなに気晴らしをしても、不安は決して無くなりはしない。
不安とは相反する2つの自分の内の、片方が必死に放ってくるメッセージだ。
片方だけを追求して強調すると、無視されてる片方が益々警報を鳴らし、
不安はどんどん大きくなっていく。
不安は、「今のままの生き方を続けるとヤバイぞ」というメッセージ。
このメッセージに正面から向き合い、両方のバランスを取っていかないといけない。
不安を無視し続けると最終的には絶望に終わる。
そんな心の声に気付かなければ楽だったのだが、気付いてしまったのだから仕方ない。
不安を誤魔化し覆い隠して最終的に絶望するか、
不安と向き合い、「だれでもない人」を抜け出して自分の生き方を生きる決断をするか。
どっちにしても楽ではない。楽ではないが、
どうやったら自分の生き方を出来るのかという参考地図をキルケゴールは遺してくれているので、
今色々読んでいる最中です。
本当は全部読んでから書けば内容も充実するのであろうが、
もう読んでいる途中で書き残しておきたくて仕方なくなったので、
記事にアウトラインを書き残す事にしました。
というか、全部読もうとしたら、2ヶ月3ヶ月で読める分量と内容ではないのだから仕方ない。
昔の記事で「キルケゴールが面白いと思える様になった」と書いたが
今ではその時よりももっともっと面白く感じられるようになったので実に楽しい。
あまりにも面白かったのでキルケゴール全集全22巻を買ってしまったよ。
全部読める日が果たして来るのだろうかと軽く絶望しつつも、
本棚に並べた光景があまりにもカッチョイイので、
本棚眺める度にニヤニヤできる実に素晴らしい買い物だった。
そんなこんなで今回の記事はここまで。
それでは、次回の記事までごきげんよう。