アイデンティティの生態学

さしあたり言っておくと、我々とは、我々の世界がかくあれと我々を誘うものであり、我々の魂の基本的な相貌は、鋳型で打ち出されたかのように、環境の輪郭にそってはっきりと魂の中に刻み込まれている。それは当然である。というのは、生きるとは世界と交渉を持つことに他ならないからである。

オルテガ 『大衆の反逆』

私達は、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し、私達に問いを提起しているからです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていく事は答えることにほかなりません。

フランクル 『それでも人生にイエスと言う』

日常会話で、なされる度に答えに窮する質問がある。
専門家でないと理解できない程難解過ぎて答えられないのではない。
ホント小学生でも日常的にしている質問だ。
しかし俺は、その質問がなんともとんちんかんに感じて答える意義を見出せないし、
そもそも答えること自体不可能だと思っている。それは何かというと、

「好きな食べ物はなんですか?」

という質問だ。

誰もが初対面の人や見知らぬ人と話す切り口として、
質問されたりしたであろう質問ですね。
この質問をされると、俺はいつも何て答えたらいいのか解らなくなる。

例えば将棋の名人に向かって、
「ところで名人、将棋で一番強い手というのは何ですか?」
という質問をしたとしたら、なんともとんちんかんな質問だと思うだろう。

具体的な駒の配置、具体的な対戦相手の実力、具体的な勝負の局面等の、
全ての文脈から切り離された最強の一手などと言うのがそもそも存在しうるのか?

好きな食べ物は? という質問にしても、
具体的な身体や精神の状態、年齢、季節や温度、旬、周囲の人間や食べる場所など、
それらの文脈から一切を切り離して、普遍的な「好きな食べ物」などありうるのか?
そんな物はありえない、という結論に至るので、毎回答えられずに終わる。

例えば、だ。
脂っこい肉が大好きという人でも、
病気で衰弱して胃液が一滴も出ない身体状態で、
それでもなお肉を食べたいと思えるだろうか?
多分おかゆの方が美味しく感じられると思われる。

野外のバーベキューで出てくる、
生焼けの野菜やら黒こげな肉やらは、
冷静に考えれば美味しく感じられるはずが無いのであるが、
皆美味い美味いと言って食うわけだ。

お酒が大好きと言っている人でも、
一人部屋の中で孤独に飲む酒、
逆に居酒屋で周囲がギャーギャー騒いでいる時に飲む酒が、
美味しいと感じられるかどうかは解らない。人間は舌で味を感じるのでなく、脳で味を感じるのだから。

年齢によっても変わる。
小学生の時父親がホント美味そうに、フキノトウのてんぷらを食べていたので、一つ食べさせて貰ったのだが、

苦い! 臭い! 不味い! の三連コンボでK.O.を喰らった記憶がある。

あの時の俺に世界で一番まずい食べ物は?
と聞いたら、プロボクサーのジャブを凌駕する速さでフキノトウと答えたであろう。
しかし今では、フキノトウもタラの芽も春の楽しみ。
i’m lovin it

こんな考え方をしている人間なので、好きな食べ物は、と聞かれる度に、

「その様な現実世界の全てのコンテクストから切り離した
イデアの世界を求める形而上の問いに意味があるのですか?」

と答えているなんて事は勿論ないですけど
答える意義が見出せないので答えていない。というか答えられない。
こんな日常会話を小難しく考えてめんどくせぇ人間だと思われるだけだし。
しかしどんな事でもとことん突き詰めて考えるのが、
哲学者という面倒くさい生き物なのです。

もし、ただ話の切り口が欲しかったという質問者の意図を汲みつつ、
俺が明確に答えられる形に質問を変えるとしたら、こう改変できる。

「あなたが、今この瞬間に、一番食べたいものは何ですか?」と。

これだったらオーケーだ。
ちなみに今はコーヒーをがぶ飲みしながらこのブログを書いているので、
胃が荒れていて何も食う気になれない。
目の前に一流の職人が握った寿司があっても食いたいと思えるかどうか。
あえて言うなら胃にやさしくてブドウ糖が摂取できる食べ物が食べたいです。
むしろ飲み物の方がいいな。なんか野菜ジュースが飲みたくなってきた。
ちょっと買ってきます。

買ってきました。文章にすると一瞬の出来事ですね。
話を本題に移します。
今回の記事のタイトルは「アイデンティティの生態学」です。

アイデンティティ。

つまり、自分とは○○である、とか自分はこいう人間だ、という認識の事。
混迷の時代になるといつでも「本当の自分探し」みたいな物がブームになりますが、
上記の「好きな食べ物」の話みたいに、
一切の文脈から切り離した独立普遍の「本当の自分」なんて物が存在しうるのか?
それを書いていくのが今回の目的です。

結論からいうと、そんなものはありやしない。

以上を書いた事により、今回の目的は達成された。
もうこれでこの記事を終わりにしても構いませんかね?
不幸な事に筆者はまだまだ書く気満々らしい。

次は、生態学とはなんぞやという話を。
まったく持って馴染みがなく、日常生活ではまず使わない言葉ですね。
言葉を横文字カタカナにすると解り辛くなるのが常ですが、
この生態学という言葉に関しては英語にした方が解り易い。
生態学を英語にすると「エコロジー」になります。
こっちなら普段聞きなれていますね。

周囲の環境から完全に独立したモノなどありえない。
常に環境から影響を受け続けているというのが生態学の考え方。
完全に独立した「本当の自分」などという概念は存在し得ないというのが、
冒頭で引用したオルテガの考え方。
あれをサラッと読み流すと色々と誤解されそうなので、
もう一度引用して少々解説を。

さしあたり言っておくと、我々とは、我々の世界がかくあれと我々を誘うものであり、我々の魂の基本的な相貌は、鋳型で打ち出されたかのように、環境の輪郭にそってはっきりと魂の中に刻み込まれている。

これを軽く読み流してしまうと、

「所詮人間は自分の意思だのなんだの関係なく、
環境で全てが決まってしまうんだよ」

と、自由意思など存在しない環境の奴隷の様に読めてしまいますが、
オルテガはそこまで言っていません。
人間は、撃たれた弾丸の様に決められた軌道をただなぞるだけの存在ではない。
「我々の世界がかくあれと我々を誘うものであり」の文章で注目して欲しいのは、
「誘う」という一言です。
あくまでも世界は誘ってきているだけで、断るか受け入れるかは自分で決められる。

環境は一瞬たりとも休む事無く、冷徹なチェスの指し手の様に、
絶えず問いを投げかけてきている。
その一瞬一瞬の判断の総体がその人の人生であり、アイデンティティとなる。
だから、「私とは何か?」みたいな問いは、
問い自体が間違っており、とんちんかんな物である。
環境から一切を独立させたアイデンティティなる物があるはずも無い。
もし現実的に考えるのであれば「私とは何か?」ではなく、

「私は何を選び取るか?」
「私は何を為すか?」

みたいな問いかけをする必要がある。
環境からの問いかけに対し、自分はどのような決断をするのか?
これは人生の一大決心みたいな事を指しているのではありませんよ。
現実世界で絶えず無意識に選んでいる決断の事です。

チェスや将棋の勝負の様に、環境は常に次の一手を打ち続け、
人間は常にそれに答えていかねばならない。
絶えず決断する事を要求している。
チェス盤をひっくり返して試合放棄する事は許されていない。
例え人生に絶望して事の成り行きに全て委ねる事でさえ、
決断しない事を決断した事になる。
この様に、絶えず問いに答え続けていくのが人生だと考えたのが、
冒頭に引用したフランクルの考え。

今回の記事はこんな事を書いているものだから、
絶えず自問自答するハメになって中々筆が進まない。
何故俺は折角の休みに、ダラダラ過ごしたりニコニコ見たりするのではなく、
こんなブログを書く事を選んだのだろう? とか。
この選択が今の自分を形作っている。

「あなたの理想の人生は?」
みたいな質問を人にすると、大体似たり寄ったりの答えが返ってくる。

大金持ちになって、デッカイ家に住んで、働かずに優雅に暮らしてetc.

こんな感じで何とも現実感の無い理想が皆同じ様に出てくるが、
何故現実感が無いのかというと、現実的に考えていないから。
一切の文脈から切り離した問いかけに意味は無いのです。
その瞬間瞬間の環境からの問いかけにより、
絶えず変化する流動的なモノを、
独立普遍の固定されたモノとして取り出そうとするから現実感が無い。

筆者は宮城に住んでいるので東北大震災を経験しているのだが、
その時の理想の人生は「電気と水とガスが思う存分使える生活」でした。
それさえあれば充分だろ、と思っていたのは遠い昔の話。
当時と今では人生の文脈が違うのだから、理想が違うのは当然。

完全に世界から孤立して「自分とは何か?」とアイデンティティを追求しても、
決して答えは返ってきません。そもそもアイデンティティとはそういう代物ではない。
筆者の頭では10年以上かけて問い続けても返ってきませんでした。
環境から問われ、その問いに答える。
この双方向のやりとりの中でしか、自己という物は見出せない。

自分は人生に対してどの様な答えを返す人間なのか?

それがその人のアイデンティティとなります。

最後に、一つ動画を紹介したいと思います。
筆者が苦労して長々書き綴っていた事を、
たったの6分40秒で見る事が出来る動画です。
じゃあ、最初っからその動画紹介しろよ長々とここまでブログを読ませやがってこの野郎というクレームは少なからず受け付けております。
物書きの矜持として、あくまでも文章で伝えたかったのです。
映像や画像に頼らないと伝えたい事が伝えられないのは物書きとしての敗北。
杖や車椅子に頼らず二本の足だけで立ちたいのですよ私は。

無駄な前置きはさておいて、その動画はこちらです。

環境が突きつけてくる無数の可能性の中から何を選び取るか?
それがその人のアイデンティティという物です。

それでは、次回の記事までごきげんよう。

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。