命の大切さを知らない人間に命の大切さを説かれた時の話

今現在、これとはまた別のブログを運営しています。
しかもそれとはまた別に、更にもう一つメディアを増やす予定です。
そっちは色々試行錯誤でとにかくテストしまくっている段階なので、
数ヵ月後にまだ運営しているかどうかは今の所なんとも言えません。
放置してもコンテンツとしての価値がある位にまでなったら、
ここにもリンクを貼ろうと思います。

しかしそちらの方のメディアは、普段の文章書く時とは勝手が全然違う。
しっかりと結論を抑えて、役に立つように内容も突き詰めて、
構成も書く前にガチガチに固めているので、
文章書くのが好きな俺でも結構しんどい。

もうオチも内容も一切考慮せず、
徒然になるままの日記やコラムみたいな物を書きたい。
そういう衝動がフツフツと沸いて来ています。
しかも隙間の短時間でパパッと書ける位の短さで書ききらねばならない。

なので、ここのブログでは今までの記事とは毛色が違いますが、
何の主張も結論も決めないコラムを書いていこうと思います。
推敲も、誤字以外の修正もしません。ササッと書きます。
書くことのストレスを書くことで解消しようとするのだから、
本格的に自分が物書きになってきているなぁ、と苦笑しています。
それでは、早速いってみましょうか。

俺にその命は背負えない

ブログ内ではお馴染みの、ブラックな居酒屋で働いていた時のエピソードです。
来るたびにオヤツや珍味をお土産に持ってくる常連客がいました。
その人がある日、食べ物ではなく、金魚を持ってやって来た。
それだけでなく、水槽やエサ等育成キット一式持って、店にプレゼント。

「見てると癒されるよ~~。カウンターに置いとけばお客も喜ぶよ~」と。

「あ~、いいッスねぇー、カワイイッスねぇー」と笑顔で応える店長。

数ヶ月程度の短い付き合いだが、俺には良く解っていた。
店長が嘘を付くときはこういう笑顔になるって事を。
店長はこの常連客の渡辺さんには、絶対頭が上がらない。

店長は金魚の事を全然カワイイとは思っていないし欲しくもないが、
渡辺さんのご機嫌を損ねるような事は絶対に言わないのです。
嘘で塗り固めた人付き合いだ。
店長のそう言いう所が仲良く出来なかった原因でもあります。

バイトの女の子達も、
「キャーかわいいーーー、渡辺さんありがとうございます」
と大喜びで、渡辺さんもご満悦。
そんな空気の中、俺だけが全く別のリアクションをした。

「いりません。持ってかえって下さい」

一瞬で空気が凍りつく。
渡辺さんがポカンとした表情になり、店長が俺に怒り出す。
バイトの女の子まで俺に非難轟々だ。
俺は言いたい事をグッと堪えた。どうせ言っても伝わらないと諦めていたから。
なので、しっかりと言質をとる事だけに集中する。

「飼ってもいいですけど、俺は一切エサをやらないし、水も取り替えませんからね」と。

なんて薄情な奴だ、自分勝手だ、生き物を愛する気持ちが無いのか等々、
それはもうボロックソに言われまくった気がする。
しかし俺は、ボロックソに言ってくるみんなの事を、実に冷ややかな視線で眺めていた。

解ってない。みんな何も解っちゃいない。

ペットを飼うという事が解ってない。
生き物を育てるというのが、どういう事を意味するかまるで解っていない。
生き物の命を預かるという事は、自分の人生を捧げるという事なんですよ。
もしペットを飼ってしまったら、今まで通りの人生を送ることは出来ない。
人生に劇的ビフォーアフターが発生する瞬間だ。

前にも取り上げたが、我が家ではシロという犬を飼っていました。
平均寿命12歳と言われる中型犬で17歳までの長寿を全う。
新聞の「犬差し上げます」という広告に電話して出会った犬です。

そしてシロと出会ったその日から、我が家のありとあらゆる事が変りました。

まず、その日から家族旅行をした事は1回もありません。
それまでは土日になると頻繁に泊りがけの旅行などをしてたのですが、
シロがいたらそれも出来なくなる。

ペット同伴で行ける所は限られている。入れない店の方が多い。
シロの面倒を見る為、最低一人は常に家に居なくてはいけない。
シロを連れて家族全員で行かざるを得なかったのは、ひいばあちゃんの葬式だけだ。
皆で出かけたとしても、夜遅くになる前にシロの元へ帰っていかなくてはいけない。

更に「毎日」散歩やエサをやらなくはいけない。毎日、です。
今日は気分が乗らないから散歩はいいや、とかありえません。
台風だろうが、土砂降りだろうが、大雪だろうが、毎日散歩に行かなくてはいけないんです。
疲れ果ててクタクタで帰ってきても、
悲痛な鳴き声で散歩に連れてってと懇願されたら行かざるを得ない。
小屋にいる時は律儀にオシッコを我慢している訳だから、
漏れそうだと大声で散歩の催促をしてくる。
「今日は疲れているから」という人間なら通用する言い訳は、シロに一切通用しない。

もし鎖に繋がれていなかったら、
好きに散歩して、勝手にエサを見つけて来いって話になるが、
それらを一切出来ないように鎖でつないでいるのだ。
鎖に繋いだ人間は、その責任を負わなくてはいけない。
放し飼いにしていたら、即保健所に連れられて100%殺される社会で生きている。
一度脱走した時があったが、その時は保健所に保護されていた。
もし電話するのが3日遅かったら、殺されていたとの事。
シロを受け取りに行った時、
こちらに気付いたシロが大喜びで駆け寄ってくる姿を見た時は涙が溢れた。

引き篭もり時代の時、家族の中でシロの面倒をみるのは専ら俺の役目だった。
引き篭もりと言う割りにはあまり引き篭もっていた実感が無いのは、
一日たりともシロの散歩の欠かした事が無かったからだろう。
引き篭もり特有の太陽を見ると目が痛くなるとか、視線が怖いとかいう症状は起きなかった。
だって毎日外に出ているんだから。

振り返って考えてみる、もしシロが居なかったら俺は死んでいたかもしれない。
これまた度々取り上げているが、フランクルが自殺志願者を踏みとどまらせた時の話。
自殺したがっている人に、自殺はよしなさいといっても効果が無い。
自殺を止めさせたかったら、コペルニクス的な発想の転換が必要なのです。
「私はこれ以上人生に何を期待できるのか」ではなく、
「人生は一体私に何を期待しているのか」という問いかけに変えるのです
自分の助けを必要としている人、自分に期待している人の事を思い出すと
自殺志願者は、自殺をやめその人達の為に生きようとし始める。

引き篭もり時代は、ありとあらゆるネガティブな思いがスパイラルしていた。
いつだって死ぬことばかり考えていた物です。
正確にいうと、死にたいわけではなく楽になりたいだけなのですが、
楽になる方法が最早死ぬことしか思い浮かばなかったので、
苦しまずに死ぬ方法ばかり考えていました。
何も食べない期間が度々あったのは、死への憧れからだったのだろう。
そんな自分が何故死ぬ事なく未だにこうして現世の未練タラタラで生きているのは、
シロの存在があったからだと言えます。

両親に説教されてもまるで動こうとしなかった俺だが、
シロが鳴き叫んだ時だけは動かざるを得ない。
一日中ベッドの上で布団にくるまって、死人の様になっていた時がある。
引き篭もりが末期症状に陥ると、ゲームやネットすらできなくなり、
死人の様にじっとし続けるだけになる。もう何もしたくない、と。
しかしそんな俺の都合はお構いなしでシロは吠えてくる。
夕方近くになるとオシッコが漏れそうなのを我慢しながら、
クゥーンと散歩を懇願する鳴き声を上げ続ける。
家族はみんな会社や学校に行っていて、家にいるのは俺一人。
うるさい!うるさい! と耳を塞いで布団に潜り込んでもシロは鳴きやまない。
最終的にはいつも俺の方が根比べで負けて散歩に行く事になる。
一日たりとも欠かさずに。

だって俺しかいないから。

という諦めにも似た素朴な気持ち。
もし俺が居なくなったら?
もし俺が死んでしまったらシロはどうなるのか?
今現在シロの面倒をみれるのは俺しか居ない。
シロが俺の助けを求めている以上、俺が死ぬわけにはいかんのだ。
永遠に引き篭もっていたいという俺の我が侭すら許されなかった。

でもおかげで今こうして生きている。
シロに出会えた事に心から感謝しています。シロに会えて俺は幸せでした。
更にいうなら、シロの飼育費を出し続けてくれた両親にも感謝しています。
お陰で、人生の長い間をシロと過ごす事ができました。

ペットと過ごす事は、とても素晴らしい体験です。
しかし、生半可な覚悟でペットを飼おうとしてはいけない。
一度生命を預かってしまったら、あなたの人生は100%変わってしまいます。
そのペットが死ぬまで、元の生活に戻ることは決して許されません
命を預かる事の重みを知らない人間が、易々と手を出していい世界ではないのです。
自分の人生、言うなれば自分の命を捧げる覚悟がある人間だけがペットを飼う資格がある。

だから俺は、居酒屋で金魚を貰った時に、全身全霊で断りました。
たった一匹の金魚の命ですら、もはや俺には重すぎてとても背負えないからです。
そのブラックな居酒屋では、
精神的にも肉体的にも余裕がなく、張り詰めた限界ギリギリの所で生きていた。
自分一人を支えるだけでも精一杯なのに、自分以外の面倒を見る事は出来ない。
今の俺にはその命を預かる資格が無い。

命の重さはシロを通して痛いほど知っているし、
誰よりもその金魚の命を大切に思ったからこそ、
その金魚を飼う事は出来ないという判断を下したのです。

そんな俺に、店長含め他のみんな、
生き物を大切にしない奴だなんだと好き放題言ってきました。
「かわいいーー」と言っているみんなは動物を愛する心の持ち主で、
「いらない、飼わない」と言っている俺は血も涙も無い薄情な人間という訳だ。
みんな命の重さを全然考えず、無責任に飼おう飼おうと言っている。
結局その金魚はどうなったのかというと、店で飼う事になりました。
俺は一切面倒をみない、関わらないという条件付きで。

そしてわずか1ヶ月で、その金魚は死にました。

理由は、年末年始の長期休暇。
東北の真冬に、暖房もつけずエサも与えず、
長期間ほったらかしにされたのが死因です。

飼う事に賛成した人間は、自分の休暇を犠牲にしてでも、
毎日店に来て面倒をみる義務があるはずですが、
誰一人としてその義務を果たそうとせず、
義務があるという発想すらありませんでした。
「別に1週間くらい平気でしょ」と。

自称生き物を愛する心の持ち主である店長は、
金魚の死体をまるで古くなった食材の様にゴミ箱に捨てていました。

ゴミ箱の金魚の死体を、俺はクソ忙しい中作業を止め、
店長らに命の大切さをボロックソに説かれていた時と同じ視線、
冷たすぎる程冷たい目で死体をしばらく眺め続けてた。
そして数分後には一切忘れ、いつもとなんら変わらない日常へと戻っていった。

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