モリス・バーマンの『デカルトからベイトソンへ』を大黒柱として近代を学んだおかげで、
フロムやフランクルの著書が良く読める様になった。
フロムもフランクルも、近代がもたらした実存的虚無感の克服をテーマに書いているからだ。
近代を知らず、心理学畑から出たことの無い人間ではこの両者の本は読めない。
今度は逆に、フロムを読んでから『デカルトからベイトソンへ』を読み直してみたら、
目から鱗がボロボロ落ちてくる程新しい発見が出てくる出てくる。
やっぱり読めていると思ってたら、全然読めていなかった。
「えーーー、こんな素晴らしい事が書かれてあったんだ!」と。
一体、前回読んでた時の俺は何を読んでいたというのか。
『デカルトからベイトソン』へはやはり名著であった。
今読み直しているのだが、このパターンで行くと、
これを読み終えた後にまたフロムに帰ってきたら、全然違った印象になるのだろう。
俺の成長の遅さを考えると、この循環は終わりそうにない。
いつまでも新しい発見だらけで他の本が進まない。
だが、それがたまらなく快感だ。
常に最新のビジネス書を買いあさり、最新のノウハウを求め、
次から次へと新しいものばかり求めている人間では味わえない世界がそこにある。
再読に耐えうる奥深さが、古典の条件である。
次から次へとアイディアと発見が生まれ、
読むよりもノートに書き込む時間の方が圧倒的に多いせいで、
たった12ページの序章を読むだけで半日ががりの大仕事になった。
1日1冊読んでいると豪語し、
1冊の内容を2,3行の感想でまとめる人間と真逆のベクトルを目指し、
たった数ページの内容をガンガン膨らまして沢山の記事を書いてみよう。
早く読み進めたいのだが、考えた事をさっさとブログにしておきたいという衝動が邪魔をして、
とてもじゃないが集中して読めやしない。
益々時間がかかって読破までが遠のいてしまうが、結局は書く事が最短の道であろう。
今回の記事は、自分の考えを整理する為の記事です。ようするにいつも通りの記事ですね。
ただ、自分以外の人間が読んでもそれなりに面白いのでないかと思って、
一応他の人でも読める形にはしておくつもりです。自信はないが頑張ります。
自分では解りきっている事をいちいち説明しないので、
論理的に飛躍している様に見える部分が多々出ますがご了承を。
近代がもたらした負の遺産の一つに、人間を世界から疎外した事が挙げられる。
疎外とは何か? 近代以前はどうだったのか?
それをこれから順に解説していきます。
これらを知っておく事は、近代的現代人である我々が楽しく人生を生きていく為にも、
役立つ知識だと考えるから。
そして楽しく生きるだけでなく、ヒーローとして生きるには必要不可欠な知識だ。
あなたもヒーローを目指しているのであれば、しっかり学んでいきましょう。
近代がもたらした恩恵の一つに科学革命がある。
この革命を齎したのが、科学的な思考だ。
『科学的』というのはどういう事か?
それは、主体と客体を分離する主客分離の思考の事です。
観察者は、観察対象から一切切り離して物事を観察する。
見るものと見られるものとを断固区別する思考である。
科学的意識とは、自己を世界から疎外する意識の事だ。
自然への参入ではなく、自然との分離に向かう意識である。
研究者が、主観を持ち込んだり観察対象に干渉したりしたら、
それは『科学的』な実験とはみなされない。
行き着く果ては、世界から「私」という存在が締め出される。
それはブラウン管やスクリーン越しに映画を見るのと変わらない。
「これは作り話であって自分とは関係が無い」という、醒めた思考であり、参加しない思考だ。
子供の頃は、ウルトラマンがピンチに追い込まれるとテレビに向かって必死に頑張れ頑張れ!と叫んでいた人でも、科学的な思考が身に付いた大人になったらそんな事はしない。
「これはテレビだよ」と。
自分とは無関係にテレビのシナリオが進められるが如く、
自分とは無関係に世界は動き続ける。
自分が何をやっても世界は変わらないし、自分が居ても居なくても同じ。
死語になりつつある「窓際族」みたいな扱いですね。
あなたが会社にいてもいなくても同じ。
ドラえもんの石ころ帽子を被ったかの如く、誰も自分の存在を意識しない。
疎外は、いじめや迫害とは違う。
いじめや迫害は、世界が自分の存在を認識しており自分に干渉してくる。
それに対して疎外は一切の干渉が無いのだ。
窓際族の経験が無くても、疎外の恐怖は本能的に解っていると思う。人間は社会的な動物だ。
芸術家にとって一番辛いのは、非難される事ではなく話題にすらされない事だという。
迫害ならば、ユダヤ人として迫害されたフランクルの様に、
極限状態でもまだ人間として振舞える可能性は残っているが、
疎外されたらもう人間は人間でいられない。
人は人の間に立って初めて人間になれるのだから。
科学的な思考は、自分と世界の主体客体を徹底的に切り離し、自分の存在を自ら疎外していく。
私がいようといまいと、世界に何の影響も及ぼさないし、私が死んでも世界は動き続ける。
子供がどれだけウルトラマンを応援しようがテレビの結末は何も変わらないように。
世界から疎外され続けた結果が、近代の負の遺産である精神病であり、
世界に参加しようとするあらゆる試みが失敗した先に行き着くのは、発狂であり異常な行動だ。
現代の異常な凶悪犯罪は年々その異常さを増しているが、
彼ら犯罪者は最早それほど異常な行動を取らないと誰も自分を認識しない程に疎外されているのだ。
連日連夜マスコミで取り上げられてさぞかし満足している事であろう。
そこまで極端な例を出さなくても、
ツイッター等を眺めてみれば日常的に異常な行動は見て取れる。
バイト先のコンビニで、アイスの冷蔵庫に入った写真をアップするだの、
ホテルの食器を洗うデカイ流し台をフロ代わりにした写真をアップするだの、
マスコミを騒がせるレベルのSOS信号が常時アップされている。
あそこまでしないと誰も自分の存在を認識しないという悲痛な叫びである。
現在では、もし自分の家で火事が起きたら真っ先にするのは119番通報ではなく、
大急ぎでスマホを取り出して家が燃えている様子をSNSにアップする事だ。
世界から疎外された人間にとっては、
火を消すことよりもツイッターで何万リツートもされて、
いいねを押されまくる事の方が大事なのである。
SNSとスマホの発達により、急速な自撮り文化が広まった。
「私を見て!」とひたすら連呼する喧しさと、
言いようのない気持ち悪さがこみ上げてくるので、俺は嫌悪感を抱きまくる文化である。
俺の中では、自撮り棒なる発明をした人間の罪は実に重い。
同じ理由で、ユーチューバーなる人種も俺には嫌悪の対象である。
世界から疎外された人間の行き着く果ては発狂か異常な行動である。
しかし科学的な思考が常識となる程行き渡った現代においては、
もはや「異常」が「正常」になりつつあるので、
こうやって細々とブログで警鐘を鳴らしている次第であります。
近代化によって人間は世界から疎外される事になった。
ならば近代化以前はどうだったのかを見比べてみましょう。
近代化以前は、勿論世界から疎外はされていない。
自分は世界の一部であり、世界の中に存在している実感があった。
例えば、雨乞いなる儀式を考えてみましょう。
雨が降らないからといって必死で雨乞いをする様を『科学的な』現代人がみたら、
なんて原始的なんだと鼻で笑うことでしょう。
そんな事をやっても絶対に雨は降らない。雨というのは大気中の水蒸気がうんたーらかんたーら。
どれだけ必死に祈ろうが踊ろうが、自分とは関係なく天気は決定される、と。
しかし近代化以前の人間はそうは考えない。
自分は世界の一部であり、積極的に世界に参加すれば世界は変わる。
母なる大地が豊かになれば自分の喜びでもあるし、
母なる大地が荒らされたら自分の一部が荒らされたかのような痛みと悲しみが伴う。
この『母なる』という言葉は、まさに主客の一体化を象徴する言葉である。
母親と赤ん坊の間には、いかなる境界線も存在しない。
母親と赤ん坊は一心同体であり、
赤ん坊が虐待されよう物なら母親はまるで自分が虐待されたかのような苦しみを感じ、
赤ん坊の喜びは自分の喜びでもある。
科学的思考にその様な感じ方は無い。
母なる大地に囲まれ、母なる共同体に囲まれ、
自分は世界の一部として確かに参加していたのが近代化以前だ。
母なる大地に感謝を捧げ、共に歩んでいくパートナーとして自然と共存していた。
しかし近代化によってこのパラダイムはシフトした。
世界は最早自分とは完全に切り離された存在であり、
自然は征服すべき対象にすぎなくなった。
これは労働についても同様である。
マルクスは資本主義の労働を「疎外された労働」と呼んだ。
かつての労働は、世界の一部として積極的に世界に参加していくものだ。
自分で作った商品、自分で仕入れた商品を自分で客に売り、
客からも感謝の言葉が届いていた事だろう。
しかし工場労働者となるとそうはいかない。
一体自分は何の部品を作っていて、自分が何の役にたっているかも解らず、
自分達が作っている商品がどのように役立って、どの様に感謝されているのかも解らない。
自分が世界に対してどのような影響を与えているのか? そんな事は全く解らない。
これを疎外と言わずしてなんと言えばいいのか。
疎外された労働に喜びや充実感が発生する事は無い。
自分とは一体何者なのか?
アイデンティティとは、確固として自分の中に存在するものではなく、
周囲の世界との関係によって生み出される。それは以前の記事で書いた通りだ。
では、周囲の世界から完全に疎外され、
帰属すべき世界が何も無い人間のアイデンティティはどうなるのか。
その場合、自分は何を所有しているかが自分とは何者であるかを規定する、
というのがフロムが示した事である。
自分の家、自分の車、自分の肩書き、自分の地位、自分の家族、
更には自分の病気でさえ手放そうとはしない。
手放すという事は、自分が自分でなくなってしまうからだ。
次から次へと所有しなければ自分と言う存在を保てない。
最早家族でさえ所有物という「モノ」であり、
社交的で皆が羨む妻は「資産」であり、そうでない妻は「負債」である。
「テストで100点とったら疎外せず愛してあげます」
「我が侭言わずに大人しくしてたら疎外せず愛してあげます」
「上手に家のお手伝いをしたら疎外せず愛してあげます」
等々、どれだけの知識を『持っている』か、
どれだけの能力を『持っている』か、
どれだけの評判を『持っている』か等で人間の価値が測られる。
あなたはあなたのままでいいんだよ、と人間として無条件に愛された経験が無いと、
益々世界から疎外されてしまう。
疎外された人間の抵抗として、
もっとすばらしいモノを所有しようと足掻くが、
これはパラドックスである。
体制がもたらした苦痛を軽減させるためにとった行動が、
益々体制を強化してしまうというパラドックスだ。
これら疎外されていく精神内部の光景を詳しく描いたのが、
R・D・レインのそのものズバリなタイトル『ひき裂かれた自己』である。
精神分裂病について研究された本だ。
ちなみに精神分裂病は、日本では2002年に統合失調症と改名された。
ベイトソンは統合失調症は誰もがおこりうる病気だと述べている。
虐待だの戦争体験などの強力なトラウマ体験は必要ない。
現代人は皆統合失調症予備軍である。
世界から疎外され続けた人間の最後の防衛手段が、
偽の自分を生み出し精神を分裂させ、
世界どころか自分自身からも疎外される事だ。
精神の奥深くに引きこもった自己が、
まるでロボットのように動く自分が演じる他者との関わりを、
科学的観察者のように冷ややかに見ている。
ニーチェが予言した通り、ニヒリズムが蔓延する時代が来た。
偽の自分が起こした行動に対する世界の反応が、リアルに感じられるはずが無い。
ボタンをポチポチ押してゲームのキャラクターを操作しているのと同じなのだから。
PlayStation®VRに代表される様に、
「リアルさ」を追求したゲーム開発が求められるのは、
リアルが全然リアルに感じられない事の表れだと考えている。
ゲームのPVでは「うわぁ、超リアル」というのはそれだけで製作者に対する賛辞になる。
しかしこれはよくよく考えてみるとおかしな物言いだ。
ポテトチップスでも、塩味とかコンソメ味みたいに調味料の味を売るのは解る。
しかし、ステーキ味とかバーベキュー味みたいに料理の味を売るのは意味不明である。
ステーキの味が食べたいのであれば、ステーキ食べればいいじゃんか。
それと同様に、リアルこそが素晴らしくリアルさを求めているのであれば、
リアルな現実の世界に飛び込めばいい。
リアルとは違う世界を味わいたいからゲームをやるのではないのか?
しかしそうではない。
リアルでは決して満たされないリアルを求めてゲームをしている。
世界から疎外され、何をやってもリアルさが感じられず、
どこまでいっても自分が自分である実感が無い。
実存の危機に陥っているのが現代の『正常』な状態なのだ。
誰もが精神分裂病の危機に陥っている。
だからこそ俺は、自分が生きている実感、
実存的虚無感を克服する事は現代人の課題だと考え、
日々その為の活動をしています。
疎外の対義語は何かと言うと、「歯車となる」が一番いい表現だと思う。
俺が今現在目指すべき生き方は「世界の歯車となって生きる事」だ。
しかしこの言い回しだと、反射的にネガティブなイメージを抱く人が多いと思う。
会社の歯車になるとかいうと、自分では何も決められず、
消耗品として奴隷の様に利用されるみたいなイメージだ。
しかしこれは誤用であり正しい物言いではないと考える。
時計の歯車というのは、
一つでも欠けたら全てのシステムが停止してしまう重要な物だ。
腕時計のガラス盤やベルトなら、壊れたり欠けたりしても問題なく時計は動くが、
歯車がたったひとつでも欠けたら、最早時計としての機能は停止する。
もし人間に対して「歯車となる」という表現を使うのであれば、
その人がいなくなっただけで国や会社などの組織全体が動かなくなってしまうほど、
重要な人間に対して使うべき言葉である。
「あなたがいなかったら、この組織はなりたたない」と言われる程の重要人物に。
世間一般で言われている様に、消耗品として利用されている末端の人物に対して使う言葉ではない。
「あなたが死んでも変わりは居るもの」と言われる疎外された人間は歯車ではない。
そう考えてみると、「歯車になる」という言葉はかなり喜ばしい事だと気付く。
文字通り歯車が噛み合った瞬間には、自分の行動で世界全体が動く事が実感でき、
今自分がやっている事全てに、明確な意味と価値をしっかりと見出せる。
それは偽の自分では絶対に味わえないリアルな生きている実感だ。
周囲の世界に良い影響を与えられるという喜びが味わえる。
この逆のパターンは、誰もが経験していると思う。
自分は組織に無くてはならない重要な存在だと自惚れていたが、
ある日病気で休むハメになり俺がいなくては皆が困ると思って、
全力で病気を治して無理して早めに復帰したら、
皆別に困っておらずいつもどおりに事が運んでいた時の疎外感。
俺がいてもいなくても世界は変わらず動き続ける。
別に俺が死のうが組織を脱退しようが、組織に何の影響も与えない。
書いてて色々と惨めな事を思い出してきてしまったので、もうこの話題はここで辞めよう。
それが優しさというものだ。
世界の歯車となって生きるというのは、
最終的な目的地であり短い人生で到達できる距離ではない。
もし俺にそんな事ができたとしたら、
ガンジーやマザー・テレサに混じって俺の伝記が並ぶ。
そこまでは無理だが、せめて自分の所属するコミュニティに対しては、
歯車となれるように務めるべきだ。
自分の一挙手一投足がメンバーに良い影響を与えられる程度には。
その生き方は、このブログの文脈でいうと「ヒーローとして生きよう」という事だ。
俺が何をやっても世界が変わる訳ないだろ、と考える疎外された人間にヒーローの資格は無い。
だって俺がやるしかないじゃない、と静かなるコミットメントで動く。
歯車となってコミュ全体を動かし、メンバーに良い影響を与えるのがヒーローである。
シュタイナーが神秘修行の条件を提示して曰く、
「条件の第二は自分を全体生命の一部分と感じる事である」
自分の人生に生きている実感を取り戻し、
ヒーローとなる為に常に心がけておかねばならない教えである。
まとめる為に書いたはずが、
書けば書くほど新しい記事のアイディアが湧いてきて収集がつかないので、
今回の記事はこれにて強引に終了です。
まとまりのない文章にお付き合い頂きありがとうございました。
それでは、次回の記事までごきげんよう。
コメント
今パソコンを前にして、その横には、フロムの「生きるということ」ベイトソンの「精神の生態学」が並んでいます。もう何度も、読み返しているところです。
46億年の地球史を460mの道に例えると、人類が農耕を始めたのが、1万年前。約1mm前。文字発明と使用は、約6000年前といわれています。その文字のお陰で、色んな情報を得、思考することができます。 といっても、文字は抽象化された記号ですね。 地図。
「生きるということ」の118頁にあるように、「言語は持つ方向付けを強化するときの重要な要因である」と思います。「私(主体)は、○○(客体)を、○○する」という文章は、ごく日常的な構文だと思います。そして、それが、主体と客体の分離を強化していると思っています。