かつて俺が、正しい使用法を知って驚いた言葉に「師事する」という言葉がある。
字面や使われているシチュエーションから想像していたのは、
師匠が弟子に物事を教える状況を示すものだと思っていた。
しかし実際には逆である。
「師事する」のは弟子の側であり、師匠は「師事される」立場だ。
これは他の言葉と比較してみると相当な違和感がある。
教える・教えられる
導く・導かれる
命令する・命令される
上下関係が出来ている間柄では、水が高きから低きに流れるが如く、
常に上から下へと働きかける流れが発生する。
そうでありながらこの「師事する」という言葉はその流れが逆流し、
弟子が能動態で師匠の方が受動態で表現されのだ。
おかしい? なんか変だ?
この言葉を作った人は国語を理解していないだろとまで思っていたが、
自分であれこれ経験していく内に俺の間違いに気付き、
この言葉の用法はこれが正しいと実感しました。
師の教えというのは、受身の態度では絶対に身に着けれない世界なのだ。
あくまでも能動的に食らい付いて、自分自身で身に着けていかなくてはいけない。
結局自分で全部やるしかないんだったら、師匠の存在意義はなんなのか?
それは前回の記事で書いた通りです。
素晴らしい師匠の条件は、答えを与えるのではなく、問いを与える存在である事。
彫刻家が石や木に彫刻刀を打ち込んで作品を作るが如く、
師匠が手間隙かけて弟子という作品を作ってくれる事を期待しているのであれば、
それは大きな間違いです。その場合失望して、師匠のアンチになる事請け合いだ。
「師事する」という言葉が示しているのは正反対。
弟子自身が、師匠という彫刻刀を使って使って使いまくって、
自分自身という作品を作り上げていく過程です。
南斗水鳥拳の使い手ならば素手で石を切り刻んで彫刻を作る事も出来るが、
そうでない普通の人ならば、彫刻刀があったほうがやりやすい。
そこに師匠の存在意義がある。
口を開けてピーピー騒いでいれば親鳥が美味しいエサを運んできてくれると思っている雛鳥みたいな態度では、何一つとして学べやしない。そういう人間で溢れているから、教育産業は儲かっちゃって儲かっちゃってしかたがない訳ですね。
「私が10年の歳月をかけて生み出したノウハウにより、
私は業界ナンバーワンの売り上げを達成しました!
しかしあなたは、同じ結果を出すのに10年も苦労する必要はありません。
何故なら私が作った教材に、10年間の全てが凝縮されているからです!
あなたはこの再現率100パーセントの教材をそのまま実践するだけでいいのです!
はい、教材代100万円」
こんな書き方をしちゃってますが、教育産業は必要不可欠だと思ってますよ。
先人が一生をかけて辿り着いた英知に、
次の世代が同じく一生をかけて辿り着いたとしたら、そこに発展は生まれない。
その場合人類の歴史は輪廻転生でひたすらグルグル回り続けるだけだ。
オルテガが『大衆の反逆』にて曰く、
「過去との連続を断つこと、つまり新たにことを始めようと願うことは、人間がオランウータンにまでおちぶれ、それを真似しようとする事だ」
先人の遺産を伝える教師が存在せず、全てを新たに始めなければならないとしたら、
人間は未だにオランウータンと同じ生活をしていた事であろう。
人間と動物を分ける境界線の一つに、過去の記憶を未来に受け継げられる事が挙げられる。
お陰でこうやってパソコン使ってブログを書ける程に、文明は発達した。
教えられるのならば、さっさと教えちゃった方がいいに決まっている。
その教えを土台として、更に素晴らしい教えが生まれてくるであろうから。
この土台なくして、高い所へは届かない。
ならば師匠もケチケチせずにさっさと教えちまえという話になりそうだが、
上の文章で大事なのは「教えられるのならば」という枕詞がついていること。
教えられるのならば、さっさと教えちゃった方がいいのであるが、
言葉で他人が教えることができない世界があるのだ。
自分自身で気付いて身に着ける事でしか理解できない「悟り」の世界だ。
ゲーテの『ファウスト』 第1部682節
「汝の祖父が残せし遺産を、自分のものとすべく自ら獲得せよ」
先人が生み出した英知は偉大なる遺産であるが、
それを自分の血肉とする為には、結局自分で獲得しようとするプロセスが必要不可欠。
俺はマンガ『グラップラー刃牙』の渋川剛気に憧れて、大学では合気道をやりました。
その渋川剛気のモデルとなった実在の達人が、塩田剛三です。
ユーチューブで「塩田剛三」と検索すれば、山ほどの達人技を見れます。
素晴らしい時代になったものである。
俺が学生時代の時には、達人技を映像で見たかったら、
馬鹿高いDVDを買わねば見れなかったというのに。
学生時代の夏休みに、ジュンク堂にある武道コーナーのDVDの前を、
買おうか買うまいか何時間もウロウロと彷徨い、
散々迷った挙句結局買わないでスゴスゴと撤退し、
一週間以上かけてようやく決心が付いて買った事もいい思い出だ。
貧乏学生には高すぎるお値段だったぜ。
その塩田剛三の弟子が語った師匠にまつわるエピソードがある。
塩田剛三は、足の裏の親指の付け根にでっかいタコが出来る。
なので毎月1回、ハサミでバチンとそのタコを切り取るのだ。
そしてその弟子は、何故か毎月毎月その現場に呼び出され、
切り取ったタコを「ほらやるぞ」と言われて毎回放り投げられてた。
毎月毎月。理由も解らないまま。
その理由が解ったのは、とある会食の席での事だ。
塩田剛三がお偉いさんに呼ばれて食事をする時、弟子も連れていかれた。
そこで塩田剛三がお偉いさんに向かって話をした。
「合気道で大事なのは、一点に全ての力を集める集中力です。
例えば足裏で回転する時も、あっちこっちに重心がばらけていては駄目。
足裏のあっちこっちにタコが出来るのは、まだまだ未熟だという事です。
回転する時は、親指の付け根だけで回転するので、
ちゃんと毎日の稽古を続けていると親指の付け根にだけタコができます。
そうだよな!」
最後の最後に話を振られて同意を求められ、弟子は全身震え上がってしまったというエピソードだ。
笑顔で話しているにも関わらず、あの時の笑顔はゾッとする程恐ろしかったとの事。
その弟子の足の裏がどうなっていたかは解らないが、
一人になった瞬間大急ぎで自分の足の裏を見たと思う。
少なくとも、毎月ハサミで切り取らねばならない程のタコは出来ていない訳だし。
素晴らしい師匠の条件は、答えを与えるのではなく、問いを与える存在である事。
塩田剛三は、毎月毎月タコを切り取る現場に呼び出して、問いを与え続けていた。
弟子はそれに答えなければならない。
「何で毎月こんな事に呼び出されるのだろう?」
「何で毎月毎月こんなでっかいタコが出来るのだろう?」
しかし弟子がいつまでも気付かず、
業を煮やした師匠が笑顔の怒号で詰め寄ったので、
全身震え上がる事になってしまった。
ちゃんとした理由があり、塩田剛三にはどうしても伝えておきたい事があった訳だ。
いや、口で説明しろよ、ってツッコミが飛んできそうだが、
口で説明しても伝わらないし、多分弟子は何一つとして変わらない。
実際、俺がそうだ。
大学生の時にこのエピソードを知って、俺の稽古の目標が決まった。
親指の付け根にでっかいタコを作ってやる、と。
しかしいざ稽古の時間になると、そんなのが頭から消え去ってしまうほどに、
考えなくてはいけない事や覚える事が沢山で、
そっちの優先順位ばかり高くなり、親指の付け根なんて意識している余裕がない。
すっかり忘れてしまっている訳だ。
そんな俺の足の裏は、親指ではなく小指の付け根ばかりにタコが出来るし、
そのタコですら、ハサミで切り取らなければいけない程大きくなった事は一度もない。
新陳代謝で新しい皮膚が間に合ってしまう程度の稽古しかしてないという事でもある。
達人である塩田剛三の教えなのだから、この教えは絶対に正しい。
絶対に正しい教えだと「頭だけ」では理解していたが、
実際には全然重要なものとして扱っておらず、稽古になんの反映もされていない。
言葉だけで伝えられる事には限界がある。
俺が塩田剛三と同じかそれ以上に稽古に励み、
毎月バチンバチンとハサミでタコを切り取る様になった頃にようやく、
「ああ、そうだよなぁ」とふと悟る事によってしか理解できない世界であろう。
結局祖父の遺産は、自分の物とすべく自ら獲得しなくては得られない。
師匠のあり方を描いた名作に、映画『ベストキッド』が挙げられるだろう。
俺が見たのはジャッキー・チェンの方だが。
主人公はいじめられっ子の少年。
ある日いつもの様にイジメっ子にいじめられていると、
突如現れたカンフーの達人が、バッタバッタとイジメっ子を倒して少年を救う。
主人公は、なんやかんやの過程を経て彼の弟子になる。
しかしこの師匠は何も教えてくれやしない。
ようやくカンフーを教えてくれると思ったら、師匠に命令された事は意味不明だった。
まず上着を脱げ。
次はその上着をハンガーにかけろ。
そしたらかけた上着を取れ。
落とせ、拾え、着ろ、脱げ、またかけろ
実はこの動きが、カンフーに必要な動きの習得になっており、
それを理解した主人公は真剣に稽古に励むようになる。
これも口で説明しろよって話だが、
まずは自分で獲得すべく問いを与えるのが師匠の役割だ。
口で説明できる事には限界がある。
全く持ってなんの自慢にもならないのだが、
俺は長年の修行により身に着けた特殊能力がある。
子供の頃我が家では、
毎年冬になるとばあちゃんからダンボールいっぱいのリンゴが届いた。
新鮮なリンゴというのは本当に美味しいのだが、リンゴはすぐに傷んでしまう。
シャキッとした歯ごたえも、古くなるとシャリシャリとして実にマズイ。
これは新鮮なリンゴなのか不味いリンゴなのかのロシアンルーレットを、何年も続けました。
その結果俺は、最早リンゴに触れただけで、
美味いリンゴなのか不味いリンゴなのか解ってしまう特殊能力が身に着きました。
もうちょっとマンガみたいにカッチョイイ能力が欲しかったよ!
触れただけで相手の心が読める能力とかさ!
俺が触れて解るのはリンゴの美味しさだけだ。
リンゴが美味いか不味いかは、味覚ではなく触覚でも解るのだ。
触った時のぬめり具合、皮を撫でた時の摩擦、親指でグッと押した時の反発具合。
この特殊能力のおかげで、俺はダンボールの中にあるリンゴの山から、
新鮮で美味いリンゴのみを独占禁止法にひっかかる勢いで独り占めし、
家族は皆、俺が手を出さない不味いリンゴを食べ続ける事になった。
なんともかわいくねぇ子供だなぁオィ。
今まで一度も言われたことは無いし、
これからもずっと言われる事はないと断言できるのだが、
ある日誰かが「私にリンゴを見分ける極意を教えて下さい!」と、
弟子入り志願された時のシミュレーションをしてみよう。
その時に俺が出来ることは、ベスト・キッドの師匠よりは直接的だが実に無愛想だ。
そこにリンゴの山がある。
触れ、食え。触れ、食え。
皮をこすれ、食え。こすれ、食え。
以上、これの繰り返し。
こんなことやっても、全然極意を身に着けられない!
と、ベスト・キッドの主人公と同じクレームを弟子が発してくるであろうが、
それでも俺は、触れ、食え、としか言う事が出来ないであろう。
そりゃぁ、言葉で教えようと思えば、教えられないこともない。
しかしだ。ウィトゲンシュタイン曰く、
「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」
言葉で説明してもいいが、言葉という形にした瞬間、それは間違った物になってしまう。
言葉にできないものを、無理矢理言葉という器に閉じ込めるからだ。
孔子曰く、「水は方円の器に従う」。
水は丸い器に入れれば丸くなるし、四角い器に入れれば四角くなる。
伝えるべき教えも、言葉にした途端に言葉の器に沿って変形し、
本来伝えるべきだった事とは違った形になってしまう。
なので、言葉に出来ない教えを正しく伝えたかったら、沈黙する事しかできない。
師匠ができるのは、そこに至る道を、問いを発する行為によって示す事ぐらいである。
あくまでも弟子が、自分自身で見出す事によってしか道は開けない。
何かを学ぼうとする時、「教えて貰おう」という受身の態度では、
どんだけ学んでも人生は変わらない。
単なる知的好奇心を満たす為の勉強もあるだろうが、
やはり勉強するからには、それを活かしてより良い人生送りたいって思いがあるだろう。
しかし教えて貰おうというお客様気分で学んで、何か人生変わりましたか?
素晴らしいノウハウ、素晴らしいテクニックを教えて貰って、ちゃんと実践してますか?
行動は言葉よりも雄弁です。
頭では素晴らしいと思っていても、
行動に反映されていないなら、それは全然素晴らしいと思っていないという事。
「師事する」という言葉が示しているのは、
学ぶというのは能動的な営みであるという事だ。
そして能動的に行動する人間を、このブログではヒーローと呼びます。
まだヒーローの話題が続いていたんかいっ、と言われそうだが、まだまだ続きますよ。
ヒーローは今の俺が知りたくて知りたくて仕方のないテーマなので。
そしてヒーローの重要な条件は、学び成長する事だと以前に書いた。
あなたが能動的に学び始めた瞬間から、あなたは自分の人生のヒーローになる。
誰かが決めた事をラジコンの様に従うのではなく、自分の意志で歩み始める。
なのでヒーローとなって能動的に学んでいきましょう、という結論になりますが、
これだけだと抽象的過ぎて何をやったらサッパリだと思います。
具体的過ぎると個別のケースに当てはまらなくなる事が増えるので、
あまり具体的には書きたくないのですが、
参考までに俺自身がやっている事を書いておきます。
例えば本で何かを学ぶ時。
本を読み進めて結論部分までたどり着いたら、
何故その結論に至ったのか? という事を自分の頭で再現してみます。
著者が残した足跡を、自分の足で踏みしめていく過程です。
その結論に自力でたどり着けるか否か。
あるいは、別のルートを自力で開発して著者と同じ結論にたどり着けるか否か。
誰かに「なんでその結論に至ったの?」聞かれた時、
これこれこういう理由でこういう結論に、としっかり説明して納得させられるレベルでないと、
それは自分の頭で理解したとは言えない。知識とは、他人に説明できる事だ。
説明できるレベルにまで落とし込む過程がとても大事。
あるいはなんかのノウハウを教えて貰った場合。
なんでそのノウハウは効果があるのか?
何故そのノウハウを実践せねばならないのか?
どのようなメカニズムが働いているのか?
それらをしっかり考え抜いて、ちゃんと自力で説明できるレベルにまで落とし込まないと、
大事な教えとして日々実践する事は出来ない。
そしてこれはとても時間がかかります。
俺は、「迷ったらキツイ方を選べ」という、このたった一行の教えを自分の物とするためには、
一週間がかりの連載記事を書く必要があった。たった1行の教えだ。
その為にだけにあんだけ長々書き綴らねばならなかったのだから、
コストパフォーマンスは最悪と言えるだろう。
しかしそこまでやって、初めて自分の物として自ら獲得する事が出来るのだ。
頭だけで理解するなら、5秒だっていらない。
しかしこの血肉と化すプロセスを経た事により、
自身の行動レベルに変化を持たすことができるのだ。
この血肉に化すプロセスを別の言葉で言うと「地に足つける」となります。
「この本を読めば、次の日から売り上げが右肩あがり!」
「これを読んだ瞬間からあなたはモテモテの人生!」
みたいな即効性のノウハウが書かれた本を読んでも、
あなたの行動、つまりはあなたの人生は何も変わりませんよ。
その教えがインチキではなくモノホンだったとしても、
「教えて貰った」のでは、全く地に足ついていませんから。
一瞬で自分の血肉と化せる程に理解できるのは、
その人が教えている人と同じかそれ以上の経験を積んでいる時だけです。
既に自分の物として獲得している人はその著者の本を読む必要は無いし、
獲得していない人は、自力で獲得しようとするプロセスが必要不可欠。
こうやって地に足付けて学ぶ事は、とても時間がかかります。
けれどもしっかりと大地を踏みしめているので、
確実に一歩一歩前に進むことができる。
頭だけで理解した状態が一歩たりとも前に進んでいない事を踏まえると、
結局はこの遠回りに見える道が一番の最短距離です。
「わざわざ」学ぼうとするのであれば、能動的に学んでいきましょう。
それが人生を変える為に必要な学びの条件です。
それでは、次回の記事までごきげんよう。
コメント
この記事を書いて下さってありがとうございます。
わかったフリをしてる人(自分の中にもいる)に対するモヤモヤが一つ晴れました。