無駄の中にこそ生きている実感がある

最近ハイデガーが読める様になってきた。
この「読める」というのは、書いてある事が完全に理解出来るという意味ではなく、
投げ出さずに精読できるまでの意志力が余ってきた、という意味ですけどね。
そもそもハイデガーが理解できたなんて言おうものなら、
「理解できる訳ねーだろバカヤロー」というのがハイデガーという人間だ。
理解というのは、知識を所有する事ではない。
理解する事に比べたら所有する事はいと容易きかな、というのがハイデガーの考えだ。

さて、いざ真剣に取り組んでみたらハイデガーの本は実に面白い。
何故面白いのかと言うと、全くもって無駄で何の役に立つのか解らんからだ。
人生に必要なお役立ち情報が載っているから面白いのではない。
面白さの根源はどこにあるのかというと、それは無駄の中にこそある。

ボードリヤールが『消費社会の神話と構造』にて曰く、

「これまで全ての社会は、いつでも絶対的必要の限界を超えて。浪費と濫費と支出と消費を行ってきたが、それは次のような単純な理由によるものだ。つまり、個人にせよ、社会にせよ、ただ生きながらえるだけでなく、本当に生きていると感じられるのは、過剰や余分を消費することができるからなのである」

このボードリヤールの言葉は人間のかなりの行動をスッキリ説明してくれるので、
ここ最近の俺のお気に入りの言葉です。
無駄遣いの中にこそ、人間の生の実感があるという訳だ。
もしも人生の中からあらゆる無駄をそぎ落としてしまったら、
生きていくのは相当に辛い作業になるであろう。
近代以降の合理主義的な考えはそのような生き方を強制する。
目的地を定め、それ以外のわき道にそれる事は「無駄」と断じて最短距離を歩む事を良しとする。
その生き方がたどり着く先は、ベイトソンが予言した通りだ。

「芸術、宗教、夢その他の力を借りない、単に目的的な合理性は、いずれはかならず病に至り、生を破壊してしまう」

生きている実感が無い生活をずっと続けていたら、そりゃぁ、生も破壊されるさ。
現代人は、誰も彼もが精神病になる時限爆弾を抱えて生きている時代だ。
こんな大げさな言い方をしなくても、人生振り返ってみれば思い当たる事はいくらでもあると思う。
金、物、時間、意志力、なんでもいいがこれらを無駄遣いしている時にこそ生きている実感がある。
これらを無駄にする事が出来ないカツカツの生活の時は、元気もドンドンなくなっていく。
もし今現在自分に生きている実感がないとしたら、
無駄なものを一切そぎ落としている事が原因かもしれぬ。
期限が決められた目標に迫られて、切羽詰まっているとか。
「こんな事をやっている暇はない!」「そんな事に時間と金を使う余裕は無い!」みたいに。
短期的には最短距離で目標に向かって突っ走る事も有効だろうが、
そんな”遊び”の無い生活は長期的に見ると悪手だと思われる。
車のハンドルに”遊び”が付いていなかったら、ちょっとしたうっかりで大惨事だ。

芸術なんかは、『無駄』の最たるものですね。芸術が人生で一体なんの役に立つというのか。
しかしそれでも、人は時間と金とエネルギーを無駄遣いしてまで芸術に取り組もうとする。
芸術家にとっては、その無駄の中にこそ生きている実感があるのだろう。
趣味の世界もそうだ。
世の中にはそれをやってお金貰っている人がいる中、
あえてわざわざ自分で金払ってまで趣味に取り組もうとする。
趣味に取り組んでいる人を見ると「じゃあそれを仕事にしたら」という人がいるが、
そういう人は解っていない。
料理が好きだからといって料理人になったとしたら、多分料理の楽しさはなくなる。
どんなにゲームが好きだからといってもゲームをやって金を貰える様になったら楽しさはなくなる。
どれだけ時間を無駄にして趣味に取り組めるか、どれだけ無駄に金を注げるかを考えていたのが、
職業になった途端に、どれだけ少ない労力で沢山稼げるかという時給換算に変わってしまうからだ。
出来るだけ効率的に、出来るだけ少ない消費で、出来るだけリターンを得るにはどうしたら、と。
そうなったら最早趣味からは生きている実感が得られなくなってしまう。

勉強する時もそうなのだが、楽しい勉強というのは多分無駄な事を学んでいる時だ。
勿論、人生で役立つ事を学んでより良い人生を生きる事も楽しいが、
その役立つ事を学んでいる時はあまり楽しくない。
そういう勉強は効率ばかりが気になってしまうからだ。
より少ない時間とより少ない労力でどれだけリターンを得られるかが問題になる。
究極的には1分間で一冊読めると豪語する速読が欲しくなってしまう。
ゲーテの『ファウスト』みたいに10年の歳月をかけて書かれた本を、
1分で読んで「俺はその本読んだんだぜ」って自慢されたらゲーテも天国で涙するだろうに。

役立つ事を学ぶ為に本を読む、という強力な目的意識を持っている読書は、
その目的が達成されないと失敗だし、目的から逸れる事は無駄と断じる事になる。
これは結構キツイのですよ。
読んでいても、自分はちゃんと学べるているのか不安になってくるし、
読んでいる最中なのに、まだ読んでいない本の事ばかりが気になって仕方ない。
足りないという渇望感に絶えず襲われ続けるプレッシャーだ。

その点、ハイデガーの本を読む事は実に面白い。
全く何の役に立つのか得体が知れない代物ですからね。
そんな本に、じっくり時間を浪費して精読できる事が嬉しい。
多くの人達が大急ぎで次から次へと本を読んでいるなか、
数ページに1時間とかかけてじっくりと、行ったり来たりを繰り返しながら読む。
皆がスーパーの半額シール商品を奪い合っている中、
1人だけ値札を見ずに買い物している富裕層の気分だよ。
まあ、富裕層はスーパー行かないだろうけど。
大金は払っていないが、時間と意志力を存分に無駄遣いしてハイデガーを読んでいる。
この無駄遣いの中にこそ、生きている実感がある。

今の読解力ではハイデガーから有益な事を引き出せないから無駄遣いになるので、
もし成長して「なんて役立つ事が書かれた本なのだ!」となったら、
その時はハイデガーは『実用書』のカテゴリーに入れられて今とは違う目的で読む事になるだろう。
そうなったら、また『無駄』な本を見つけてこなければいけない。

もし、今のあなたが無駄な事は一切しない!
という決意の下で生活しているとしたら、生きる事は辛い作業になります。
積極的に、生活の中に無駄な遊びを取り込んでみてはどうでしょうか。
本屋に行けば、人生のミッションを見つけてプランしてdoしてみたいな本は溢れているので、
バランスを取るためにも逆の方を提案しておきます。
最短距離を突っ走るのも寄り道だらけの人生も、どちらも必要な局面があるので要はバランス。
何が無駄なのか解らない、というのであれば哲学書を読んでみるというのはどうでしょう。
本当に、一体どう役立たせればいいのか解らん事ばかりが哲学書には書かれていますから。

それでは、次回の記事までごきげんよう。

コメント

  1. シトラス より:

    「奪われたものを取り返す」で検索してこのブログにたどり着きました。
    どの記事も、考えさせられることばかりで、夢中になって読んでます。面白くてためになります!
    続編のブログがあるということなので、教えてくだされば幸いです。

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